第38話 日の出と海

 イワシの群れがクジラの姿に見えたあの日から、コウタとは毎週のようにどこかに出かけ、そして二人の時間はゆっくりと進んでいった。大晦日の夜は、コウタの部屋でそばを食べて、新年を迎えた。ベッドの中で話しているうちに、折角だから初日の出を見ようということになった。

「近所に見える場所ってあるの?」サナエは言った。コウタの住むマンションは埼玉の和光市にあった。住宅街の真ん中で、いくらマンションといっても周りにはもっと高いマンションもあるし、満足に日の出を見ることができる場所は限られるだろう。

「いいや、海岸まで行こうかと思って」コウタは言った。「東京ゲートブリッジの近く。それなりに見えるらしいよ」


 コウタの口車にまんまと乗ってしまったことに気づいたのは、新木場駅を出てからだった。おかしいと思ったのだ。日の出は七時前なのに、新木場駅に着いた時間が五時半で、まだ空は真っ暗だった。サナエの吐く息が白く漂う。風がそろそろと首元をさらい、サナエの後ろ髪を撫でた。

「ねえ、本当にここから一時間も歩くの?」サナエはポケットに両手を突っ込んだまま、左肘で小突いた。「無茶だよ。タクシーで行こうよ」

「大丈夫。歩いていれば温かくなるさ。それに、タクシーっていったって、こんな時間じゃ、捕まえるまでに着いちゃうよ」街灯で照らされたコウタは笑顔だった。コウタの言う通り、駅のロータリーにはタクシーは一台も停まっていなかった。駅を降りた乗客が皆同じ方向に歩いていた。目的は皆同じ、考えることは皆同じというわけだ。サナエ一人がわがままを言っても仕方のない状況だった。


「分かったわよ。早く行こう。いい場所取られちゃうよ」サナエはコウタの腕に自分の腕を絡ませ、そのままコウタのポケットに手を突っ込んだ。

 救いなのは年末までの寒さが幾分弛んでいるくらいだった。そうは言っても真冬の明け方の時間は一番寒い時間帯だ。歩いていても肩がこわばってしまう。ポケットの中に忍ばせたカイロがなければ、とっくに指先はかじかんでいただろう。

 駅から東にしばらく歩いたあとは、ずっと南に下っていった。人の列は遥か先まで続いているようだった。新年早々、皆物好きだと思いながら、自分もその物好きの一人になっていることに呆れた。車のテールライトがサナエの横を通り過ぎていく。赤いライトがすうっと暗闇に帯を引いた。


 コウタは俯き加減で、足下を気にしながらゆっくりと歩いていた。コウタはいつもサナエの歩幅に合わせてくれていた。密着している肩を通じて、コウタの体温が伝わってくる。夜の暗闇の中、こうしてコウタの息づかいを近くで感じるのが心地良かった。

 しばらくそのまま歩き続けていると、橋が近づいてきた。

「この橋を渡って、ようやく半分くらいかな」

「まだ? 先は長いですな」サナエはだんだんと楽しくなってきた。ただ二人で並んで歩いているだけなのに、明け方に海に向かっているというだけで、日常とは違う時間を旅している感覚になった。コウタと二人で、新しい世界へ向かって大きく帆を広げる船に乗っている気分だった。この船に乗って、今年はどんな風景を見ることができるのだろう。そうして未来を茫洋と眺めるだけの余裕が、このころのサナエにはあった。


 橋の上は風が強かった。コウタはサナエの腕に込める力を強め、サナエを支えてくれた。「風強いな。海が近づいてるって感じだ」

「そうだね、でも強すぎたよ。早く橋渡っちゃおう」

「大丈夫。この橋はそんなに長くないから」コウタの言う通り、すぐに対岸に着いた。広い道がそのまま真っすぐに南に向かって続いていた。しかし、コウタは次の交差点で左に曲がった。

「公園?」サナエは、間の前の看板を見て言った。左手に大きな門があり、脇には「若洲海浜公園」と書かれていた。前方を歩いていた人たちも皆公園に向かっていたようだった。「ねえ、真っ暗だよ」通路には街灯がほとんど置かれていない。日の出る前では先がどうなっているのか分からない。

「俺はこの公園何度も来てるから、心配するなって」コウタの声は明るい。「これから行こうとしてるところは、初めてだけどね」

 腕を組んだまま、暗闇に二人並んで進んでいった。




 茂みを抜けると、真っ暗な空間が顔を出した。海に出たらしい。東の空がうっすらと光を湛えていた。岸壁に沿うように遊歩道があるらしく、たくさんの人たちが海の方を見つめているのがおぼろげに見えた。密やかな話し声が聞こえた。サナエとコウタはしばらく遊歩道を歩いて、人の疎らな場所まで移動した。

「この辺でいいかな」コウタは立ち止まった。コウタとサナエは岸壁に腹部を預けるようにして、海の方を眺めた。空は群青色に染まっていたが、海はまだ漆黒のままだ。海面の動きはほとんどないようだった。穏やかな、早朝の海だ。サナエはバッグから耳当てを取り出して耳に付けた。寒さで体が固まってしまいそうだった。コウタはフードをかぶり、ジッパーを首元まで引き上げた。フードの淵に付いているファーが時折吹く風に細かく揺れている。


 しばらくは、二人で並んでぼんやりと海を眺めていた。テトラポッドが岸壁に沿って並んでいて、波を受け止めていた。風の音と潮の音だけが二人を包んでいた。遠くの空が徐々にオレンジ色に鈍く輝き始めた。日の出の時間まではまだ三十分以上あるのに、空はそれが待ちきれないようだ。ぼんやりとした光が徐々にその範囲を広げ、天空を照らしていく。サナエは声も出さず、その空の変化を見つめていた。

 空の明るさを追いかけるように、次第に彼方の海面も赤みを帯びてきた。「ねえ、日の出までどれくらい?」

「十五分くらい」コウタは腕時計を見ながら言った。コートのフードに隠れて、その顔はよく見えなかった。サナエはポケットの中からカイロを取り出して、両手で弄んだ。じんわりとした温かさが指先の毛細血管を通して血液を温める。

 空が明るくなるにつれて、周囲の人たちのざわめきが大きくなってきた。空の方を指差して、皆で太陽の出現を待っていた。次第に大きくなる熱気のようなものをサナエは感じた。

 日の出の瞬間はよく分からなかった。急にコウタがサナエを引き寄せ、キスをした。唇から温もりが伝わる。その時、周りでひときわ大きな歓声が上がった。まさか自分たちがキスをしただけで盛り上がるわけはないから、きっと太陽が昇ったのだろう。


「どうしたの? 急に」

「いや、なんとなく」

「なんとなく、むらむらしてやった?」サナエは意地悪く笑った。

「そういうんじゃなくて、それよりほら」コウタは自分の感情をごまかすように、海の方を指差した。オレンジ色の光が海の上に顔を出していた。海面はその光を反射して、きらきらと光っていた。サナエはその光に吸い込まれるような感覚を覚えた。


「きれい」その言葉だけが、サナエの唇から漏れた。

「きれいだな。今年もいい年になるといいな」コウタはそう言って、サナエの左手を握った。

「そうだね」サナエは小さな声でそう言って、コウタの右手を握り返した。

 少しずつ昇っていく太陽の光で、空は次第にオレンジ色から青色へと姿を変えていった。空の色の変化が鮮やかにサナエの目に映った。見慣れたはずの空が、こんなに表情豊かなものだとは知らなかった。胸の奥が温かい。それは、太陽の暖かさとコウタの温かさがサナエの中で混ざり合った、確かな温もりだった。

 サナエは太陽から視線を外して、遊歩道の反対側に目を移した。太陽の光が強くなって、もう直接見ることができなかった。サナエの背後には松林が遊歩道に沿って続いていた。


 コウタもサナエに続いて後ろを振り返った。「お、サナエ、これ見てみろよ」コウタがすぐ近くの足下を指差した。

「え、なになに?」サナエはコウタの指先を見て、はっとした。大きなクジラの模様が、遊歩道のアスファルトにかたどられていた。コウタの指したクジラの前に、もう一頭クジラがいた。二頭のクジラが列を成していた。どうやらその部分だけ色の違うアスファルトが使われているようだった。大きくヒレを伸ばした姿は、間違いなくザトウクジラだ。サナエのタンブラーにも描かれている、サナエが大好きなクジラだった。今にも大海に泳ぎだしそうに、二頭のクジラはそれぞれ体を傾け、尾を動かしているように見えた。


 まさかこんなところでクジラに出会うことができるなんて、思わなかった。

「洒落てるな、こんなところに」コウタも感心しているようだ。サナエの脇に立って、二人でしばらくクジラの姿を眺めた。前のクジラはまるで後ろを気遣うように頭を少し下げて様子を伺っているように見えた。あとを泳ぐクジラはそれに応えるように全身を大きく動かしている。サナエはしばらく二頭のクジラの姿を眺めていた。

 周りで朝日を見ていた人たちが徐々に帰り支度を始めた。日常に戻ろうとするように、駅に向かって歩き出す人もいる。

「今日は良かったな、初日の出は見れたし。さあ、帰ろう」コウタはそう言って、左手を差し出してきた。


「うん」サナエはその手を握った。「ねえ、コウタ。今度さ、部屋を探しに行こうよ」

「部屋? どうして」

「どうしてって、一緒に住むの」サナエはたった今思いついたことをコウタに話した。徹夜で気分が高揚していたこともあるだろうが、さっき感じた、二人でずっと同じものを見ていたいという気持ちを大切にしたいと思ったのだ。

「同棲するのか?」コウタは笑った。「いいよ。休み明けにでも探しに行こうか」

「ありがとう」

「それにしても、どうして急に?」

「なんとなく」

「なんとなく、むらむらしたから?」

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