第25話 ルールと進路

 堀越の話は続いていた。

「君を守る、これを果たすのはなかなか難しかったが、君がこの大学に進学したのは私たちにとっては僥倖だった。お父さんの代わりはもちろんできないが、君をそっと見守ることくらいはできると思ったんだ。君が私の授業を初めて受けた時のことは今でもよく覚えているよ。生化学Ⅰの最初の授業だ。君のことはすぐに気づいたよ、お母さんそっくりだったからな。


 君のお父さんにも協力をしてもらった。君があのカフェでアルバイトをするように仕向けたのは、気づいていると思うが君のお父さんだ。そこまでは私たちの考える通りに進んだ。君には、私たちの関係を話さないということもその時に決めた。


 ただ、君が私の研究室に来ることは、君のお父さんも想定していなかったようだ。君はもっと現実的な、つまり生命工学系に進むものと考えていたらしい。だから、思わず私との関係を話してしまったようだ。私としても、君の名前を名簿で見た時はどうしようかと思ったよ。親友の娘さんの将来を預かる立場だからね。かといって、他の学生と差をつけるわけにもいかない。かなり悩んだが、まあ、今のところ和田君も新嶋さんも、君と同じように頑張って成果を出しているから、贔屓しているようには思われてはいないだろう」


 堀越はこの二年間、ずっと私を支えてくれていた。雑談に閉口する時もあるが、サナエは堀越が父と友人関係ということもあって気兼ねなく話をすることができたし、そういう意味では、堀越たちの誤算にサナエ自身救われたということだ。カオルはそのことに薄々気づいていたのだろう。だから二人で研究室に泊まった時、あんなことを言ったのだ。

「母の面影を私と重ねられるのは、私にとっては複雑です、本当は。私は」サナエにとって、この数ヶ月間は母の影にただただ怯えていた。母の姿が頭に浮かぶたび、叫び声を上げそうになる。「私は、母のことを今でも忘れられません。母の死んだ日のことや、母との思い出に今でもうなされていて、だから、母のことをあまり考えたくないんです」


 母の影に怯え、そしてそれからずっと逃げてきた。母の記憶と寄り添うことができなかった。解決の糸口を見いだせないままずるずると時間ばかりが過ぎて、気づけば一番大切にしなければいけない人を怒らせてしまった。

「飯塚さん。君の抱える感情は私にも分かる。母と娘だから、もっと深いところで繋がっていたであろうことも想像できる。きっと、私たちの知らない葛藤が君の中にあるであろうということも」

「どうして、先生は今日この話を? 話さないと決めたんじゃ」それは、この話が始まった時から気になっていたことだ。どうしてこのタイミングなのか、それが分からなかった。


「今朝のコーヒー、あれがマリコからの合図だよ。あれは昨日あの店で預かってきたものだろう。君にお母さんと私たちの関係を話す時が来たという合図だ。きっとマリコにはマリコなりのタイミングがあるのだろうが、私もそこまでは聞いていない。今日はアルバイトの日かい?」

「ええ。そうです」

「それなら、今日マリコに聞いてみるといい。マリコはマリコで、君に話があるはずだが」

 堀越と河野と父と母。四人の人生が今でも繋がっているのなら、そのルールを理解したいと思った。母が私に託したもの、残された三人が私を見守ってくれていたこと。私のこれからを、いい加減見つめ直さなければいけない時が来たのかもしれない。まだ色々と聞きたいことはあったが、まずは堀越の話を整理する時間が必要だった。


「先生、話してくれてありがとうございました。母のことを今でも覚えていてくれて、母も喜んでると思います」母の遺志を継いでくれた人たちの想いを、無駄にしたくはなかった。サナエの過ちとその後の後悔の気持ち、それさえなかったらと思う。あんなことをしなければ、今でも母は生きていたのではないか、その思いを拭い去ることができなった。そのことを知ったら、堀越はサナエに恨みを抱くだろうか、それが恐ろしかった。そのことを考えるのは、やはり怖い。

「さあ、研究室に戻ろう」

「先生、その研究のことで少し相談が」代わりに、サナエは堀越に伝えなければいけないことを思いついた。

「ん、何だい」腰を上げかけた堀越が少し驚いた顔をして、椅子に座り直した。


「私、博士課程に進みたいんです」就職をせずに博士後期課程に進み、今の研究をもっともっと追求していきたい。母と一緒に歩いた公園で見つけた四葉のクローバーを、未来の人に残してあげたい。それは、最近急速に芽生え始めたサナエの進路だった。研究室に残るのか就職をするのか、ずっと悩んでいたが、クローバーを母と二人で探した思い出を、サナエはやはり失いたくなかった。

「そうか。お父さんには」

「いえ、まだ話してません」

「そうか。早く話をした方がいい。修士と博士では重みが違うからね。君が研究者として生きていけるのかどうか、君のお父さんは心配するだろうが、君なら大丈夫だと私は思う。まずは、話をしてみることだ」堀越は嬉しそうだった。その目は、教授が教え子の成長を喜ぶというよりは、娘の成長を喜ぶ父のように温かい光を湛えていた。

「はい。ありがとうございます」サナエは心が軽くなったと感じた。まだまだ、やることは山のようにある。研究のことも、母のことも、何もかもこれからだ。

「さあ、戻ろう」堀越は伝票を持って立ち上がった。




 研究室に戻ると、カズヤと中島が部屋の奥、コンロの前あたりで話をしていた。昨日あたりから、ずいぶんと一緒に行動しているように思えた。この二人、こんなに仲が良かっただろうか。

「よう、ずいぶん遅かったな」カズヤが言った。「コーヒーの淹れ方を教えてくれよ」

「今朝一通りやったでしょ? あとは練習あるのみ」今朝のことが、ずいぶんと遠くに感じた。まだ数時間しかなっていないのに、サナエは三十年という時の長さに圧倒されていた。「それより、今日は一日中実験じゃなかったの?」

「ああ、そのつもりだったんだけどな、思いのほか早く終わったからさ。休憩だよ、休憩」


「そう、カオルは帰ってきた?」

「いや、まだ」カズヤは部屋の時計を見た。三時を回っていた。三時間も堀越と一緒にいたことになる。

「実験長引いてるのかな?」

「かもな。はあ、俺の所為だからな。来るまで待ってるよ」

「当然でしょ。それより、これは何なの?」サナエは、シンクの脇に並んでいる十個ものカップを指して言った。研究室にある来客用のカップも取り出して、そのすべてにコーヒーが注がれている。

「練習してたんだよ、さっきから。でもどれもイマイチなわけ」

「淹れ過ぎでしょ、いくらなんだって」こんなにたくさん作って、どうするつもりなのだろう。「味もそうだけど、一杯のコーヒーを味わって飲む方がずっと大切だよ」

「まあ、そうだけどさ」カズヤは今朝のことが気になっているようだった。今度こそカオルにいいところを見せたいのだろう。


「飯塚さん、僕にも教えてくださいよ。いつまでも飯塚さんにコーヒー淹れてもらうわけにもいきませんし」

「いいのよ、もう習慣になっちゃったし、私もここで淹れているのは練習みたいなものなの。まだお店じゃあ通用しないって言われているから」

「そんなに難しいのか? ちゃんと淹れるのって」

「そうよ。私だって、どうすればあんなに美味しい飲み物が作れるのか、いまでも不思議なくらいなんだから。だって、ただお湯を注いでいるだけなのに、マリコさんが淹れるコーヒーと私のは明らかに違うし。普通、コーヒーって冷めると酸っぱくなって美味しくなくなるんだけど、マリコさんのコーヒーは冷めても苦くて、最後まで美味しいの」

「奥が深いんですね」

「ね、多分ゴールなんてないんだろうけど、私もいつかあのお店でコーヒーを任されるようになりたいんだ」サナエの小さな目標だった。学業とは全く関係ないことでも、それは挑む価値があることに思えた。

「じゃあ、とりあえずさ、教えてもらわなくてもいいから、皆でコーヒー飲もうぜ」


「その前に、君たちはまずこのコーヒーを残さず飲んでよね」

「分かったよ。中島も飲んで飲んで」

「ええ! 僕もですか?」中島が抗議の声を上げる。

「当たり前だろ、お前もずっと一緒に淹れてたんだから」カズヤがカップを押し付ける。

「って、これ全部じゃないですか、こんなに飲めませんよ」

 二人のやり取りを横目に、サナエは堀越の言葉を反芻していた。

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