第21話 風と昼食

「おはよ」今日は眼鏡をかけていない。胸の高さまである髪を今日は斜めに一纏めにしていた。そしてワンピースだった。「あ、コーヒー淹れたの? 私にもちょうだい」

 カオルは言うが早いか自分のカップを手に取って、サーバーのコーヒーを注ぐ。カズヤが口を開くよりも早くカオルはコーヒーを一気に飲んでしまった。

「あー、喉渇いてたからちょうど良かった」


 サナエとカズヤは顔を見合わす。

「ねえ、今日のコーヒー、なんだか美味しくなくない?」カオルはサナエの方を見て言った。カズヤがサナエの脇腹を小突く。フォローしろ、とでも言いたげな目を向けてくる。

「そう? もう古くなっちゃったかな。新しいの買ってくるよ」さすがに、カズヤが淹れたからだとは言えない。

「うん。ありがと」カオルは笑顔で応えた。「私、これから理研に行ってくるね」


 カオルはどうやら顔だけ出して、すぐに理化学研究所に行くつもりらしい。昨日の今日で、アポがとれたのだろうか、それとも、もともとその予定だったのか、昨日のことが頭を過ったが、カオルにそのことを気にしている様子がないのが不思議だった。

「え、もう行っちゃうの?」

「うん。このあいだ忘れ物しちゃったから、それを取りにいくだけなんだけどね。せっかくだから、少し実験もさせてもらうつもり」

「そっか。戻ってくる?」

「三時くらいには戻ってくるよ」カオルは時計を見ながら言った。「和田君にもお願いがあって」

「なんだよ。改まって」


「私が帰ってくるまで待っててね。ちゃんと、コーヒーを奢ってあげるから」その一瞬、ふうっと風が吹いたように、サナエは感じた。どういう風の吹き回しか、という表現は相応しくないかもしれない。甘えてばかりでは駄目だと、カオルは考えたのだろうか。そして、それを言うためにわざわざ朝大学に来たのだとしたら。

「え、ああ。待ってればいいんだな。ちなみに、十杯だからな」カズヤは言った。「一度にそんなに飲めませんが」

「じゃあ、約束」カオルは笑顔でそれだけ言って、研究室を出ていった。


 サナエとカズヤは再び顔を見合わす。

「あのタイミングはないだろ」カズヤがぼやいた。

「さすがカオルって感じ。まあいいじゃん。コーヒーは奢ってくれるみたいだし」サナエはにやにやしながら言った。「これは明日また淹れてあげればいいんだし。もうだいたいできるでしょ」

「なんとかな」カズヤの声は昨日と比べればだいぶ落ち着いていた。「さて、俺は今日一日実験だから、新嶋が帰ってきたら教えてくれよ」

「うん。分かった。私は部屋で待ってるようにする」


 カズヤは白衣に着替えて実験室に向かった。その足取りはずいぶん軽い。単純で、だからこそ相手の言動にすぐ左右されて、振り回される。そんなカズヤが、しかしサナエは羨ましかった。カズヤを見送ると、サナエは大きく溜め息をついた。油断をするとすぐにコウタのことを考えてしまいそうで、気を張っていた分疲れてしまった。椅子に座り、タンブラーのコーヒーを飲んだ。

 今日も夕方からアルバイトだった。仕事が終わったら、コウタのことを河野に話をしてみようと思った。一人で考えていても前に進む気がしなかった。河野ならきっとアドバイスをしてくれるだろう。今のこの状況を打開することはできなくても、それでも何か自分にできることが見つかればいいと思った。母のことも、河野に話してみよう。河野がどういう反応をするか分からなかったが、きっと静かに聞いてくれるだろう。


 あの朝、サナエがしたことと、母の死。その後の父と二人っきりの生活。サナエにとって、いったい何が正しいのか、ずっと考えていた少女時代。悔恨の念は消えることがなかった。それはサナエの心の中に澱のように少しずつ堆積していた。心が黒く濁っていく。その黒い濁りが、時折母の姿をしてサナエの前に姿を現しているのだ。

 考えがまとまらないまま、サナエは発表の準備を始めた。準備といっても、まずは実験結果をまとめて、表やグラフを作る作業だ。遺伝子突然変異と成長点の損傷、そのどちらが四葉のクローバーの発生原因なのか、あるいは両方なのか、それを端的に示す図を作らなければいけなかった。図のイメージは何となくできていたから、軽く作ったら堀越に意見を貰おう。


 いくつか図を作ったところで、気づけば昼になっていた。

「ちょうどよかった」堀越が研究室に顔を出した。「飯塚さん、たまには一緒に昼食でもどうだ」

 堀越が昼食に誘うなど、これまで一度もなかった。これまた、どういう風の吹き回しだろう。どうも今日は、いつもと違うことが起こりそうな予感がした。

「あ、はい。すぐ行きます」サナエは財布とコートを取って、堀越のそばに向かう。

 サナエは、内心失敗したと思った。暇を持て余した堀越に捕まったら最後、堀越の気が済むまで難しい哲学の話をされるに決まっていた。すぐに学生のいる部屋に入って来ることができるのは、こういう場合都合が悪い。特に大変なのが夜だ。ふらりと研究室に入ってきたと思えば、生け贄となる学生を物色し、自室に連れ込んで酒を酌み交わすことを半ば強制する。大抵、餌食になるのは中島だった。研究室と堀越の部屋を隔てるドアを背に座っている中島は、部屋にいれば必ず堀越の目に留まり、標的となりやすい。カズヤは堀越の行動を予見し、危険な日は六時以降研究室に決して入らなかった。どうやら最近は、堀越と中島の二人で飲むことが大半らしい。


 堀越は、いつも行くという定食屋にサナエを連れていった。店の存在は知っていたが、進んで入るような店ではなく、つまりはサラリーマンが短い休憩時間を無駄にしないように通う、早くて安い店の代名詞ともいえる佇まいの店だった。

 店の中はエル字のカウンターとテーブルが二つ。二人組の客と入れ替わるようにカウンター奥に並んで座った。

 堀越はアジフライ定食、サナエは迷った末に焼き魚定食を注文した。

 定食を待つ間、堀越はずっと無言だった。何かを考えているように、腕組みの姿勢を崩さなかった。どうしたのだろうと思った。いつもの堀越なら、こういう時には決まって、「こんな話を知ってますか?」と言ってくるのに、そんな素振りもない。ない方が楽なのだが、カタシ節がないのはないで落ち着かない。


 そうこうしているうちに定食が運ばれてきた。サナエの目の前には大振りの鯖の塩焼きが鎮座している。想像以上に大きい。焼き魚独特の油のにおいがふわりと鼻をくすぐる。皮が香ばしくきつね色になっていて、いかにも美味しそうだった。しかし、あまり食欲は湧かなかった。鯖の焼き加減や脂の乗り具合よりも、今は堀越の頭の中の方が気になっていた。

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