第13話 理性と倦怠期

 サナエは再びクローバーの芽に傷をつける作業に取りかかった。シロツメクサの芽に針をかざすたびに、カオルの泣きそうな声とカズヤの泣きそうな顔がぐるぐると頭の中で回転した。集中しようとしても、どうしても頭を離れなかった。



  **



「こんな話を知っていますか」堀越の言葉が蘇った。研究室でカオルと二人で遅くまで作業をしていた時だった。堀越がふらりと執務室からこちらの部屋に入ってきた。

「理性を失う、という表現があります。怒りや憎しみで我を忘れ、普通なら決して行わないような行動をとってしまった時、テレビや小説などでしばしば目にすることがある」


 当時、サナエとカオルは卒業研究の追い込み時期で、堀越の雑談に関わっている余裕はなかったのだが、今を思えば、堀越はそのような状況にある二人にあえてそのような話をしていたのだろう。

「しかし、あれは、間違いではないが、正確とは言えないんだ。人の感情を司る部分も実は大脳皮質、つまり言語や思考を司る部分と同じところで起こっている。怒りや憎しみといった感情も、ヒトがヒトである所以だ」その時の堀越はいつになく饒舌に語っていた。サナエもカオルも、あっけにとられたように堀越の話を聞いていた。


「卒業間近になると、誰もが焦り、冷静さを忘れて、まるで感情に支配されたように、我を忘れたような行動をとる。私も、そんな学生たちを何人も見てきた。しかし、感情というのも所詮は神経細胞内のホルモンと電気信号に過ぎないのだから、恐れることはない。感情と寄り添いながら、一方で自分の置かれた状況を冷静に見ることだってできるんだ。同じ大脳皮質が働いているのだから、どちらか一方に支配されることはない」

 そこまで一気に話すと、堀越は自分の部屋に戻っていった。どうしたことだと、サナエとカオルは顔を見合わせた。


「先生、ご乱心だ」カオルが嬉々とした表情で言った。

「きっと、あれって私たちを励まそうとしてくれてたのかも」

「そうなの? どこが?」

「焦る気持ちは分かるが、まずは冷静になれって、そういうことが言いたかったんじゃない?」

「さすがサナエは先生のことは何でもお見通しだ」

「何それ。そんなことより、早く終わらせよう。もう十一時だよ。電車なくなっちゃう」

「はあい」


 結局、その日は終電の時間になっても作業が終わらず、研究室に泊まることになってしまった。堀越はいつの間にか帰っていた。珍しく、二人は夜中に色々と話をした。カオルが恋人と別れたことも、その時に知った。

「語学の授業で一緒だった佐々木君でしょ。そっか、別れちゃったか」

「そう。こんな生活をしてたら、そりゃあすれ違っちゃいますよ」

「すれ違いって、芸能人みたいだ」

「あっちも色々と忙しいみたいでさ、卒業するから、その前に友達と手当り次第に遊びまくってたし、それは理解していたつもりだけど、でも、私の感情は私よりも正直だったのかもしれないなあ」


「感情ね、先生はああ言ってたけど、恋愛ってそんなわけにはいかないんだよね」

「もうさ、付き合うまでのドキドキとかさ、そういうのいらないから、穏やかに時間が過ぎるようなさ、相手のことで気をもまなくてもいいようなさ、そういう人どっかにいないかな」

「カオル、それはいくらなんでも達観っていうか、老成? 若者の言うことじゃ」サナエは笑った。

「ヒドい、失恋で傷心の私に対して何たる仕打ち」カオルが冗談めかして言った。

「ごめん、でも、かわいいなあ」サナエはカオルを抱きしめる。考えてみれば、カオルと仲良くなったのはこの日の会話がきっかけだったのかもしれない。


 

  **



 集中すれば一時間半ほどで終わるはずが、すべての芽に傷をつけられた時には既に四時を回っていた。アルバイトに行く時間が近づいていた。感情をコントロールするのは難しいですよ、先生。

 研究室に戻ると、カオルはパソコンに向かってプレゼンテーション資料を作っていた。学会で発表する資料だった。学会発表は主にプレゼンテーションソフトによる口頭発表と、研究成果を紙に印刷して掲示するポスター発表の二つがある。どちらの形式で発表するかは発表者に任されているが、堀越はどちらかというと口頭発表を推奨していた。学会でも重要な成果は口頭発表で行われるし、口頭の方が学会発表の実績としては箔がつく。

 制限時間はあるし、質疑は容赦ないし、サナエは口頭発表が苦手だった。


「カオル、ごめん。プレゼン資料、明日でもいい? もうバイトに行く時間になっちゃって」

「うん、大丈夫。お疲れ。あれ、和田君は?」

「え、戻ってないの?」

「実験室一緒じゃなかったの?」

「うん、入り口で別れたから」戻ってきていないとは思わなかった。視線をカズヤの机にやる。先に延ばせばそれだけ気まずくなってしまうのに、どうするつもりだろう。「電話してみるよ」サナエは言った。

「うん、ごめん」

 じゃあ、と言って、サナエは研究室を出た。




 キャンパスを出て、早稲田通りを駅に向かって歩いた。カズヤには電話をしてみたものの、出る気配はなかった。

 高田馬場駅までの道のりは、歩くとなると距離はあるし、起伏もある。松本は東京と比べるともちろん田舎だったが、こんなに起伏が激しい場所はあまりない。せいぜいが、実家近くの公園にある丘だ。今サナエが歩いている場所は台地と台地の間に広がる谷のような地形だと、以前堀越が言っていた。大学はちょうど段丘を跨ぐように立てられていて、早稲田通りは大学を頂点にして東西に下っている。

 明治通りとの交差点を渡ると、左手には小さな映画館がある。よくコウタが通っている映画館だ。過去の名作や日本未公開の作品を週替わりで上映している。サナエ自身は、未だに行ったことはない。


 コウタは今頃何をしているのだろう。アルバイトは休みだと言っていたし、もしかしたらこの映画館にいるのかもしれない。だからといって、映画を観ている時間はない。映画どころか、最近は二人でどこかに出かけるということもしていない。まだ付き合い始めて半年しか経っていないのに、既に倦怠期に突入している気配を感じていた。

 きっかけがあったとも思えない。同棲を初めて二ヶ月が過ぎたが、最初の頃は普通にデートもしていたし、仲良くしていたはずだ。それがいつの間にか、母の記憶に脅かされ、サナエとコウタの日常が少しずつ変わっていった。このままでは取り返しのつかないことになってしまうのではないか、それが心配だった。

 脇を小学生の一団が走り抜けていく。小学校はまだ春休みにはなっていないらしい。肌寒いのにハーフパンツ姿だ。その小学生の行く先を目で追っていくと、サナエがアルバイトをしている「メアリーズ・カフェ」の入った雑居ビルが視界に入った。

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