影と紅のアウローラ

眼精疲労

第一話 雨の夜、二つの影

 夜。


 影に包まれた街。そこには、様々な光が溢れている。


 世界は普段と違った様相を呈していて、騒がしくもあり、そして静かでもある。


 昼よりも静寂で、混沌としている世界。それが、俺は好きだった。


「……傘忘れた」


 たとえ、予期せぬ雨に打たれても。


 俺はレンタルビデオ屋で映画を借りて、家に帰る途中だった。


 普段は勤め人で溢れかえっているような場所でも、夜になると静かになる。そんな中を一人で歩くのは、不思議な爽快感を伴っていて嫌いじゃない。


 ……雨が降っていなければ、もっと良かったのだけれど。


 俺の住む街は所謂いわゆる城下町で、東西南北に運河が通されている。家に帰るためには、小さな橋を渡る必要があるのだ。


 その橋は、この街に無数ある橋の一つ。種類はわからないけれど、白い石で出来た橋で、作りはきっと頑丈。難点は、階段が少し高いことだろうか。


 いつものように、その橋の階段を上る。


 上りきった先の景色に、俺は思わず足を止めてしまった。


「なんだこれ」


 常ならぬ風景に、俺は思わず言葉を漏らす。


「でりゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 二つの黒い影が、橋上で激しくぶつかり合う。


 誰かと“何か”が戦っていた。


 うん、信じられないだろうけれど、戦っていた。


 誰かは、黒のレインポンチョを着ており、その左手には武器を持っている。


 薄暗いのでわかりづらいが、どうやらその武器は大ぶりのナイフのようで、よく見ると紅い色をしているのがわかった。そして、右手に持っているのは……瓶?


 ポンチョの下には、スカートを履いているようだった。たぶん、特殊な趣味じゃないかぎり、女の子なのだろう。


 スカートからすらりと伸びる足が、地面を蹴り彼女を加速させる。彼女は雄叫びをあげ、“何か”に飛びかかる。


 さて、一方の“何か”である。


 闇夜の中、それは漆黒の体を持っていた。その図体は常人よりも遙かに大きく、ゆうに二メートル……いや三メートルはあるだろうか。


 数える限り、五本の手足を持っており、四本を歩行や跳躍に使用、残りの一本はそれらよりも巨大で、先端が鋭利な形状となっている。


 言うまでもなく、紛れもなく、疑いようもなく、怪物。


 平日の深夜、人気のない橋の上で、ポンチョ姿の少女と怪物が戦っている。


 何故? どうして今? よりにもよってここで? 何かの撮影? 様々な疑問が浮かび、直後、生命の危機を知らせる脳内の警告装置が、それらの疑問をかき消していった。


 怪物が少女に飛びかかる。怪物の四本足は先端が尖っており、斬撃はできないものの、刺突はできるようになっている。まるで、槍だ。


 少女は四本の槍を横っ飛びで回避する。しかし、怪物は着地したそばから、逃げる少女を追いかける。


「しつこいっ!」


 少女はばんっ、と地面を蹴り、宙を舞う。右手に持っていた瓶を横に振る。すると、赤色の液体が宙に舞った。


 怪物は宙にいる少女に飛びかかろうとするも、飛んだ瞬間、何かにぶつかり落下する。体の芯を揺らすような轟音が響き、橋の欄干が崩れ落ちた。


「残念でした。ちょっとやそっとじゃ動きませんよ」


 少女がそう言って、瓶を掲げると、瓶の中に先ほどの液体が入っていく。その間に、怪物は体勢を整えていた。


「戦意喪失せず……と。いいですよ、今月の家賃と、明日の美味しいご飯のためです。狩ってあげましょう」


 少女はにっと笑って、体を沈めて構える。


 少女が沈み、地面を飛ぶ。

 まるで銃弾の如く。


 少女は怪物の懐に入り、紅の刃を振るう。刃は、怪物の体に傷をつける。


 怪物から黒い血液が飛散し、

「########################################!」

 怪物がけたたましく叫ぶ。その悲鳴は、ただひたすらに不気味であった。


 少女は刃を返し、切り上げる。紅が闇夜に煌めき、液状の黒が舞う。


 もう一撃、と少女が刃を振り下ろしたその時、怪物は地面を蹴る。少女に体当たりをするつもりであろう。


「くっ!」


 少女は怪物の意図に気づき、回避を試みる。だが、すんでのところで怪物の体に巻き込まれ、怪物ごと欄干に叩きつけられた。


 欄干が砕け、水の音が鳴る。


 少しして、水音が止む。世界は、夜に似つかわしい静けさを取り戻した。


 ……まさか、やられた?


 その静寂に、俺は思考能力を回復させる。もしあの少女がやられたとなると、次に怪物が狙うのは――。


 怪物の体が、俺に向く。その傷から、黒い血を流しながら。


 手負いの怪物は、獲物を前に舌なめずりをしているような、そんな雰囲気を発散させている。


 逃げなければ。

 直感がそう告げた。


 俺はその直感に従い、背を向けて逃走を開始しようと――


 重々しい何かが、高速で動くような音がした。


 直後、視界が赤に染まる。

 その後、白に。そして、黒に。


 激痛が脳髄を焦がし、平衡感覚は消え失せ、どごり、という重々しい音が鳴る。それは俺の頭が地面を打ち付けた音だ。


 痛みで何が起こったのかを理解する。単純に、突き刺されて傷を負ったのだ。


 どくりどくり、と俺の中から命がが漏れている音が聞こえてくる。


 心臓の音が、まるで耳の裏で鳴っているかのようにうるさい。


 普段見ているものとは、その向きを九十度傾けた視界が、黒く狭窄していく。


 血液が傷口を舐めて外に流れ出る。傷口からは、まるで火箸を押しつけられているような熱を覚える。


 怪物は俺の前に、のっそりと現れる。その図体もあって、異様な威圧感を覚えた。


 ああこれ、死ぬな。目の前の怪物を見ながら、そんなことを思う。


 このまま放置されても死ぬだろうし、病院行っても間に合わないだろうし、それに。


 もう一度、怪物を見る。


 怪物は丸い頭部と腹部を持っており、その腹部から足が四本伸びており、背中から腕が一本伸びている。


 その顔は全くの無貌。まるで、黒タイツをかぶった蜘蛛のようだ。


 その怪物の顔が、ぱかりと横に開く。

 開口部には、黒くてギザギザしたものがあり、おそらく牙であろうことはすぐにわかった。これで触手が出てきたらクリオネっぽい。


 怪物は俺を捕食する気であろう。

 ああ、今から俺はこいつに食われるのか。自分のことながら、他人事のように思う。


 現実感が希薄な景色を立て続けに見せられて、そして血を失って、どうやら思考も麻痺しているようだ。

 頭を打ったのも悪かったか。元々悪い頭が更に悪くなっている。


 食われて、終わるのか。


 まあ、いいか。それは、それで。


 ……それで、いいのか?


 そんなことを思っていると――。


「################# ⁉」


 怪物がまたしても悲鳴をあげる。何事だろうか。


 九十度向きを変えた視界の中、先ほどの少女が宙に浮いていた。


 少女はびしょ濡れになりながら、どういう原理かしらないが水面から数メートル上の地点で浮いている。


 怪物が俺から背を向け、少女の方を見る。


 少女が先ほどまで左手に持っていた得物は、今は怪物の背中に突き刺さっていた。少女が投擲したのだ。


 怪物はおそらく、食事の邪魔をされたので頭に来ているのであろう。その気持ちはわかる。


 怪物は少女に飛びかかる。無論、少女は丸腰だ。


 宙に浮かぶ少女に、漆黒の爪が襲いかかる。


 一撃目、少女は何らかの能力を解除し、自由落下を始める。怪物の攻撃は回避されるも、続いて別の足を少女に伸ばす。


 二撃目、漆黒の槍のような足先が、少女を掠める。しかし、攻撃は命中しない。


 少女は足を握り、一気に引く。怪物の体躯は微動だにしないものの、少女が怪物の足に乗る。


 怪物は足を振って少女を払いのけようとするも、少女は振り落とされる前に跳躍し、怪物の背中へ。


 しかし、怪物の背中には、刃を持った腕がある。


 怪物はその腕で、宙に浮く少女を切り裂こうとする。

 黒が闇夜を切り裂く音が、ここまで聞こえた。


「遅いですね」


 宙に浮く少女は、空中で跳ぶ。


 怪物の刃が空を切り、少女がくるりと一回転。少女が怪物の背中に着地し、怪物の腕が少女を襲う。


 少女は、怪物の背中に突き刺さっていた自身の得物を引き抜き、そのまま跳躍しつつ横に回る。


 怪物の腕が少女を切り裂こうとする。少女は、その手に戻った得物を振るう。


 硬質の物同士がぶつかり合う音が甲高く響いた。


 一度、二度、三度。驚くべきことに、少女は落下しつつも、怪物の太刀筋を全て見切っていた。


 おぼろげになりつつある視界と意識の中、俺は少女と怪物が繰り広げる一連の攻防に見入る。


 死の間際にあって、俺は目の前で繰り広げられる幻想的な剣戟に見惚れる。


 いや、それは少し正しくないかもしれない。

 俺が見惚れていたのは、たぶん――。


「さて、今度はこちらの番です」


 頭と足が天地逆になったままの体勢で、少女はにやりと笑う。


 少女はくるりと回って空中を蹴って飛び、再び怪物の体の上に立つ。怪物の防御反応と見える攻撃を紙一重で回避しつつ、攻撃してきた足や手を切り飛ばしていく。


 怪物の腕や足、その一つ一つが切り飛ばされるたびに、景気よく黒い血液がぶち撒けられる。

 

 透明の水滴と黒い水滴が混ざり合い、流れていく。


 そして。


「文字通り、手も足も出ないっと。では、これで」


 少女は怪物の頭に得物を突き刺し、抉るように動かす。怪物が一度痙攣し、どろどろと黒い液体となって溶けた。


「お仕事かんりょーっと」


 橋の上に降り立った少女、一つ息を吐く。それは安堵のため息というよりは、一仕事の区切りとしての意味合いが強そうだ。


「これでしばらくの生活費、ゲット……!」


 少女は黒い血液を浴びた姿で、嬉しそうに声を弾ませる。

 その様子が、この惨劇の場で似つかわしくなくて、却って画になった。


「……さて、そこのオーディエンスの人」


 少女は俺に背を向けながらそう言い、そして、振り返る。


 ポンチョで隠れて、相貌は見えない。ただ、その双眸のみ見ることができた。


 少女の目は切れ長で大きく、少しつり目気味だろうか。まるで猫を思わせるような瞳で、その色は漆黒。


「ご愁傷様でした。……こんなことに巻き込まれるなんて」


 少女は逆手に持っていた武器を順手に持ち替え、ゆっくりと俺に近寄ってくる。


「……尽影じんえいと化す前に、私が終わらせてあげますから、どうかゆっくりとお休みください」


 ジンエイ? なんだそれ? というか、終わらせるって……、ああ。


 俺は自分の腹部を見る。血がとめどなく流れていた。痛みを感じすぎて、あらゆる感覚が麻痺している。顔が火照っているような気もするし、寒いような気もする。


 意識は朦朧としていて、それでいて理性のどこかは冷静だ。ああ、俺はこのまま死ぬのだろうな、という諦観が満ちる。


 少女はきっと、これ以上苦しむことのないよう、俺を終わらせてくれるのだろう。


 なるほど、それはそれで、悪くない。色々とやり残したことはあるし、気になることもあるけれど、これが終着点ならば、まあ妥当とも言えよう。


 美少女に殺されるならば、死に方としても悪くない。


 それに。


 苦しんだ果てに生存するならばまだしも、苦しんだ果てに苦しんで死ぬよりは、すぱっと死なせた方が良い。

 ……いつか、こんなことを思ったような気がする。


 少女が俺の真横に立つ。その紅の刃を俺の胸元に向ける。

 終わる。

 そう思った。


 しかし。


「…………あなたは」


 少女はそう言って、ポンチョの下、目を丸くする。


「……………………そうですか、そういう……巡り合わせなんですね」


 少女は目を細めて笑った。俺は口を動かして何かを言おうとするが、弱々しい呼気が漏れるばかりだ。


「……先輩、運がいいですね。ああいや、悪いのかも?」


 先輩? 誰のこと? 俺? くだらないことが頭に引っかかり、余力の少ない思考リソースをそこに割いてしまう。


「けれど、まあ、とりあえず」

 少女は紅の刃を俺に向けず、自身の右手に向ける。


「ようこそ、このうんざりするような、終わり果てた影の世界に」


 少女は自身の右手首を、太い血管が切れる程度に切る。

 紅の血が吹き出し、俺に降り注ぐ。その温もりに、俺は眠気を感じた。


 そして、少女の手から垂れた血液が、少女の肘に。

 そこから、雫が落ちる。


 その紅は、俺に空いた傷に広がった。

 ここで、俺の意識は途絶える。


                 〇


「……変な夢だったな」


 目が覚める。周囲は夜明け前の薄暗さに包まれていた。彼方の空は白んでいる。朝日が昇る、直前であった。


 瞬間、いつもは感じないような寒気を覚える。


 俺は思わず体を抱き、ぶるる、と震える。視線を下に向けると、真っ赤に染まった服が見えた。


「……は?」


 きょとんとして、しばし思考停止。周囲を見回す。……あの橋だった。


「夢じゃなかった? っていうか生きてる? なんで?」


 混乱が脳を占めるも、それよりずっと卑近な事柄に思考は向けられる。


 服、真っ赤。こんなんもう着られませんわ。


「……クリーニングどころじゃないなこれ」


 レンタルビデオ屋の荷物がほぼ無傷だったのが幸いだろうか。……ちょっと血がついているけど、ウェットティッシュで拭いたらなんとかなるだろう。……多分。


「というか、ここからどうやって帰るんだよこれ」


 今の服装は血まみれ。その風貌は遠目から見ても異様。警察官にでも見つかろうものなら、即座に署へと任意同行されるに違いない。それは嫌だ。


 周囲に人気がないことを確認する。と、ここでまたもおかしなことに気づく。


「……昨日、ここ壊れてたよな?」


 昨夜、粉々に砕けて川へと落ちた欄干が、今はいつも通りそこにあった。


 それだけじゃない。昨日、少女と怪物が戦った痕跡の一切が消えていた。


「……そういえば、俺の傷は?」


 シャツをめくり、右の脇腹を見る。そこで絶句する。


 まるで灼熱の弾丸で打ち抜かれたかのように、俺の右脇腹には窪んだ傷跡が出来ていた。

 その傷跡の周囲は焼けたような赤銅色になり、傷口は赤黒い何かで覆われている。


 昨日の夜の出来事は、やはり本当にあったのだ。にも関わらず、世界には何の痕跡も残っていない。


「……どういうことだ?」

 と疑問を率直に漏らしても、答えてくれる人間はいない。


「……仕方ない」

 今は帰ることしか出来ないのだ。


 誰にも見つからないように。そう祈りつつ、足早に去る。

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