4.「好きな人と別れた理由はそれなんだ」

 バリアフリーを設置するバス運転手に慣れた様子で礼を言う男に反して、僕はその新鮮な光景を落ち着きなく眺めていた。車椅子を押すのもそうだが、障がい者に対する世間の目に注目されるのも初体験。男を中心に周りの景色は何もかもが新し過ぎる。


 ぎこちないままにバスに揺られること十分。学校最寄りのバス停に到着し、乗車するときと同じようにバリアフリーを渡って降車する。バスが行ってしまってようやく、ひとつ肩の荷が下りた気がした。


「着きましたよ」


 歩道の先に見える校舎の一部と、正門の角。男の視線に気づきながらも一応そう言う。柔和な表情を残したまま、男は正門の方をジッと見詰めていた。思いに耽ったようにも見えた。


矢津田やつださん、前まで行きましょうか」

「ええ、お願いします」


 丁寧な言葉で、眼鏡の奥の瞳を細めて答えた。僕はゆっくりと車椅子を押して歩き出す。その間、アーケード街からバス停に向かう道中に聞いた話が頭の中を巡っていた。


 男の年齢は十八で、大学一年生。歳が二つしか違わないことは意外だった。名前は矢津田圭一けいいち。僕の通う高校に、彼の好きな人がいるという。

 矢津田さんがわざわざ東京からこの地にやってきた理由は、その好きな子を探す為らしい。明日から夏休みにも関わらず、今日の講義を蹴って昼過ぎには空港へ到着したのだとか。中心街のホテルに荷物を預け、手がかりである高校へさっそく向かっていた最中に僕と衝突したといういきさつらしかった。


 その好きな子とは中学の頃に出会い別れ、自分が高校へ入学すると当然会う機会はなくなった。何度も忘れようとしたらしいがけっきょくその子のことが諦めきれず、たまに中学にまで足を運んで遠目に眺める日々を続けたという。

 ストーカー路線まっしぐらな生活は、彼女が高校を卒業するまで続いた。卒業後の進路は分からず、一年ほどはまた彼女を忘れる努力をしたという。しかしやはり、忘れることはできなかった。


 意を決して中学の頃から知っていた彼女の自宅を訪ねたとき、そこで県外へ引っ越したという事実を知る。手の届かない場所に行ってしまったと思えば思うほど、好きの感情は更に膨らんでいった。

 なんとか手がかりをかき集め、そうして今日、長期休暇を利用し想い人がいるというこの地にやってきたらしかった。


 一途な話だと思った。

 わざわざ県外にまで来てしまう恋心というものは僕には理解しかねる。何年も気持ちが続くこと自体、未知の領域だ。こういうのを大恋愛というのかもしれない。


 数年の内に一度だけでも声をかけようとは思わなかったのか。

 訊ねようとしたその質問は喉の奥に飲み込んだままにしている。僕には理解しかねる恋愛事情を、知った風に訊くことは躊躇われたから。きっと声をかけられなかった事情があった。そう、勝手に落ち着けていた。


 正門の前へ着くと、矢津田さんが左側のブレーキをかけた。僕もハンドルから手を離し、彼の左側へ立つ。放課から三時間以上経った今では正門をくぐる生徒も教師の姿も見えなかった。ここからではグラウンドや体育館を使う運動部の声や音は聞こえなかったが、どこからか吹奏楽部のまばらな音色が響いていた。


「……写真、撮るのはやはり非常識でしょうか?」


 苦笑気味に、スマホを片手に訊いてくる矢津田さん。


「SNSとかに載せなければいいんじゃないですか」


 僕は彼の気持ちを考慮しそう返した。

 矢津田さんは背中を押されたように、すかさずスマホのシャッターを切った。


「目的は果たせましたか?」

「はい、ようやく近づけた気がします」


 好きな人に、ということだろう。

 出会えたわけではないのに、確かに矢津田さんの顔は満足そうだった。


「ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました」

「いえいえ、お役に立てたなら何よりです」

「何かお礼がしたい。近場に喫茶店などは無いですかね。一杯奢ります」


 クイ、と曲げた指を口許に近づけて見せる。コーヒーカップの絵が浮かび上がる。僕は咄嗟に両手を振った。


「頂けませんよ。当然のことをしたまでですから」

「それではわたしの気が収まりません。これも人助けだと思って、付き合ってください」


 矢津田さんは頑なだった。白肌にバランスよくついた顔のパーツが斜めに傾いている。一歩も引かない、このまま帰さないという意思が伝わってくる。


「それとも、この後に用事でもありますか?」


 それでも配慮は怠らずに、表情をまた少し変える。喜怒哀楽、意思表示を上手い具合にコントロールしているみたいだ。意識的にやっている嫌味が見えない辺り、それが自然にできてしまっていることが見て取れる。やはり矢津田さんは僕よりも遥かに大人びている。


 「いえ、得にはないですが」


 嘘をつこうか考え、どうしてもつけなかった。矢津田さんに対しては罪悪感が生まれた。


「でしたら、行きましょう。あなたともう少しお話もしたいですし」


 そう言って車椅子のブレーキを外す。僕もハンドルを握らざるを得なくなり、このまま帰るわけにもいかなくなった。

 断り続けられるのも気持ちよくない。アーケード街で矢津田さんがそうしたように、僕も引き際を見極めて首を縦に振った。


「それは僕も同感です。じゃあ、行っちゃいましょうか」

「案内、お願いします」


 笑顔のやり取りを済ませ、道路を挟んだ向かいにあるパン屋さんへ矢津田さんを導いた。『ベーカリー渡辺』はイートインコーナーもあるし、パンは比較的安く美味しいと評判だ。

 

 入店し、車椅子の矢津田さんを奥の席へ運んでから僕が注文を承った。頼まれたパンを取り、レジでドリンクを二杯注文する。アイスコーヒーとカフェラテのグラスも一緒にトレイに乗せてから矢津田さんの待つ席へ戻った。


 渡されたお金のお釣りを丁寧に返し、同時に頭を下げて見せる。奢られて嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが混ざり合っていた。矢津田さんは軽い仕草で道案内の件の礼をまた述べた。


 ドリンクと、パン。その二つを空いた小腹に染みわたらせながら、会話は和やかに続いた。


「車椅子だと、みんな気を遣ってくれるんだけれど、やっぱり中には過剰な人もいてね」


 年上だと知ったときから気になっていた敬語をあくまでやわらかく指摘すると、矢津田さんはすぐにそれを止めてくれた。気遣いあっての言動だった。


「もちろん、感謝してるんだ。俺なんかがこんなことを言うのはおこがましいことだけどさ、でも、目につくこともある。例えば」


 一人称も「わたし」から「俺」に変わっている。話し方が自然的になると、矢津田さんはさっきよりも断然饒舌になったように思えた。


「人の世話にならないと生きていけない体になってしまったから、下手な遠慮はしないようにもしてるし」


 僕はそんな矢津田さんの話に関心を持っていた。車椅子の人の日常なんか、そう気軽に聞けることでもなかったから。

 同じ人間だとしても、やはり躊躇う部分はある。その点彼の話し方には、障がい者としてのハンデは無いように見えた。ただ一人の人間としての世間話。その程度の話に聞けたから、居心地悪くなることもなかった。


「日常になってしまってるから、大変だと思うことも今は少ないよ」

「いつから、そういう生活になったんですか?」


 だから、そんな質問だってできた。罪の意識はなかった。


 矢津田さんが表情の明かりを弱めてアイスコーヒーを飲んだとき、訊かなければよかったと後悔した。


「通り魔に襲われたんだ。背中を刺されて、脊髄を負傷してね」


 さっきの後悔とはまた別の後悔も襲ってきた。それは、最近聞いた話に似ていた。いや、まったく同じに思えた。誰から聞いた話だったか、ああ、思い出した。思い出してしまった


 僕は表情を悟られないよう、静かにカフェラテをストローで啜った。


「実は、さっき言った好きな人と別れた理由はそれなんだ。付き合った次の日に被害にあってね、運が悪い話だろ?」 

「はい……とても」


 矢津田さんの話の内容はほとんど頭からこぼれ落ちていた。それ以外のことで頭が一杯になっていたからだ。矢津田さんではなく、矢津田さんの想い人のことばかりを考えていた。

 名前と顔、彼女の表情が情報として一気に流れ込んでくる。


「意識を失って、目が覚めたのが二日後。それから一ヶ月以上入院してね、リハビリを試して、でもけっきょく車椅子で退院することになって、そのまま学校に復帰したんだ。その間、彼女は一度も見舞いに来なくて、それで色々察したんだよ」


 ほとんど空になった矢津田さんのグラスの中で、溶けた氷がカランと音を立てる。空気が一瞬、変わった気がする。

 矢津田さんの口許には笑みがある。でもそれが作られた笑みだとすぐに分かる。僕の為か自分の為か、過ぎた話を悔やまないようにしているみたいな、強がりのような姿に映った。


 眼鏡の奥の穏やかな瞳がこっちを見ると、僕は思わず視線を逸らしてしまった。口を離したばかりのストローをまた銜えた。


「それでも諦められないんだ。彼女の口から、言葉をきちんと聞くまでね」

「その人は」


 そう、口をついたことが自分でも信じられなかった。自分が何を言おうとしているのか、理解しながらも自然と言葉が出た。差し出がましいと思われるかもしれなかったが、一度吐いた言葉は、もう二度と飲み込むことはできなかった。


「きっと、矢津田さんのことを思って、離れたんだと思います」


 視線を、卓上からゆっくり上へ向ける。

 当たり前だけど矢津田さんの顔がある。僕を見ている。

 口は笑っている。けれども目は、別の感情を持っている気がする。僕にはそれがどんな感情か分かりかねる。


「どうだろうね」


 一見謙虚にも見える口調。それだけ言って、アイスコーヒーを一気に空にした。側に残ったミルクとシロップのプチカップの行方ばかりが気になった。そうやって、何かの現実から逃げようとしていた。


 その後は、矢津田さんから別の話題を振られて会話の路線は切り替わった。正直何を話したのかあまり覚えてはいない。学校のことだとか、受験のことだとか、矢津田さんの大学生活だとか、いわゆる世間話を繰り広げたに過ぎなかったように思う。

 楽しくないわけではなかったが、胸がモヤモヤして、頭では情報の渋滞が起こっていたから、集中することはできなかった。


 店を出て、ホテルまで送るという僕の言葉を、矢津田さんは今度こそ突っぱねた。他にも見て回りたいところもあるし、いつまでも僕を付き合わせるわけにはいかない、と。

 僕も今回ばかりはすんなりと受け入れ、次の目的地に向かうバス停まで見送った。発車するバスの降車口から手を振る矢津田さんの顔は、すでに出会ったときに見た曇りのない笑顔に戻っていた。


 バス停を去り、自転車を取りにアーケード街へ戻るべく路面駅へ向かう最中、スマホから幸四郎こうしろうへ電話をかける。頭の中が、矢津田さんと彼女のことで埋め尽くされていた。


「あ、もしもし、今日は柔道いつまで? ちょっと相談があって、うん、そう、海付うみつきさんのことで」


 夏の暑さに、汗がツー、と首筋を垂れた。

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