二幕

1.「こう見えて、映画が好きなのよ」

 期末テストが終わると、いよいよ夏のニオイがするようになった。

 今年は雨量の少ないままに六月が過ぎた。七月上旬、まだ梅雨明けは発表されないけれど、今日も青々とした空が広がっている。湿度は高く、じんわりと汗をかく。

 

 放課後の昇降口には、巣を突かれたアリのごとく沢山の生徒が群がり、放出されていた。私もその中の一匹……否一人として靴を履き替え校舎を出る。


 西の空は若干黄色に染まり、濃い雲には深い影がいくつもできあがっていた。

 あと一時間もすれば燃えるような赤に染まって、夕焼け空が広がる。町中で見える、とても神秘的な景色。

 それは、夏の空だった。


 駐輪場の側を通り抜け、校門へ出る最中だった。

 地下と高所に設けられた駐輪場の高所の方から、私の名を呼ぶ声が聞こえた。

 足を止め、振り向く。


 そこには黒色のクロスバイクを押して坂道を下る、浅久野あさくのまことの姿があった。


 会うのは実に一週間ぶりだ。


海付うみつきさんとこんなところで会うのは珍しいね。いま帰り?」


 私の側へと近づいた命は、気さくな態度で接してくる。

 思わず表情を固めてしまったのは、きっと油断していたからだ。異性と会うとき、私には無意識に構えてしまう癖があった。


「ええ。今日は、ゴリラさんは一緒じゃないのかしら?」


 命の側にいつも金魚の糞のごとくついて回る通称ゴリラ。名前は確か、えっと、緒方おがたゴリラだったかな。忘れてしまった。私は人の名前を覚えるのが苦手だ。


「今日はあいつ、日直当番なんだ。それからすぐ柔道の稽古があるから、先に帰ってるんだよね」

「柔道部なの?」

「部活には所属してなくて、父親が柔道家なんだよ。家に道場があるから、そこで」


 へえ、と頷きながら一週間前のことを思い出す。

 私のことを付け回していた男子を、緒方がいとも簡単に床に叩き落としたあの光景。

 それほど熱心に柔道に取り組んでいるのなら、素人相手にあの身のこなしなのは納得がいった。


「そっちこそ、赤星あかほしさんは一緒じゃないの?」

「今日はあの子、部活なの。と言っても、ゆるーい演劇部だけど」

「部活に所属しているのはなんだか意外。てっきり帰宅部だと思ってたよ」

「半分、そんな感じよ。部の活動は不定期だし、あってもお喋りばかりらしいわ。まあ、運動部みたいに競うようなものではないから、そうなるのかしらね」

「そっか」


 そこで会話が途切れ、私たちはしばらく黙り合った。

 生徒たちの喧騒を耳にしながらも、どこか居心地の悪い静けさに包まれた気になる。

 無理もない。一週間前に会ったばかりで、これが二度目のコンタクトで、私たちは特別仲が良いわけでもないからだ。

 たまたま共通点があったというだけの二人が偶然出会っても、そこに会話の花が咲くわけが無かった。


「じゃあ、私は行くわね」


 今は命に用が無い。私は逃げるように会釈して、その場を立ち去ろうとした。

 ところが、命が「あ、あのさ」と私の足を止めてくる。

 行きかけた体を停止させ、彼へと再び振り向く。


 癖毛で、童顔で、とくに特徴のない普遍的な顔つきだが、奥二重の瞳は柔らかく、私のキツイ目の形とはえらく違う。

 そんな瞳が左に泳ぎ、不器用そうな唇が狭く開けられ、人差し指はまだ髭も生えない頬をかいた。


「せっかくだし、お茶でもしない?」


 自分で言うのもなんだけど、私はモテる。

 異性から言い寄られることなんて珍しくないし、こういう誘い文句も飽きるくらいに聞いた。

 その度に私は彼らを拒絶してきた。気が乗らないとか、煙たいだとか、そんなありふれた理由なんかではなく。私には恋愛をする権利が無いから、そうするしかなかった。


 命の言葉には、過去の異性の臭いがしなかった。

 異性から誘われ、青臭い、青春のヌメっとした、胸焼けするような気持ちにならなかったのは私にとって、少なくともあの日以降、これが初めてのことだった。


「いいわよ。この暑さだし、またシェイクを飲みたくなったわ」


 取って付けたような理由に、命は「そうだね」と笑った。


 新市街、アーケード街、もしくはアーケード通りとも呼ばれる町一番の繁華街は若者の街だ。

 ファストフードに始まり、雑貨屋や量販店、全国展開する衣料品店からコアなブティック店、流行りのタピオカやチーズハットグのお店、オシャレなカフェ等々、エトセトラ。

 一年を通して定期的にイベントを行っており、春は桜、夏は祭、秋は紅葉、冬はクリスマスにお正月と言う風にテーマを設けて様々な装飾がされる。

 梅雨時期の六月までは紫陽花の装飾がちらほら見えたアーケードの吊り幕や店先の装飾は、今やすでに夏の色に染まりつつあった。

 雑貨店の店頭には夏に使える実用品が並び、家電量販店は扇風機やクーラーの割引広告を張りだし、各飲食店は冷たい新商品が販売され、衣料品店の袖は裾は短いモノばかりになっている。

 通り自体の装飾も、青いカラーのイラストが増え、近々行われる祭の宣伝が何処かしこに見えるようになった。アーチ型の天井からはミストが放出されていた。


 そのどれにも関心を抱くことなく、私は真っすぐ決まりのファストフード店へ向かった。バス通学の私と自転車通学の命はいったん学校で別れた後に、その店の前で待ち合わせることになった。

 バスの待ち時間がロスとなり、命は私よりも先に出入り口に立っていた。


「待たせたわね」


 正直、誘われた身だから遅れたからって罪悪感はこれっぽっちもない。

 謝るのは人としての礼儀と個人的なプライドに則ってのものだ。だからできれば先に着きたかったのに、おかげで不本意な気持ちになった。


「僕も今着いたところだから」


 この男にも一応、人として最低限の礼儀が備わっているみたい。

 テンプレートではあるけれど、その言葉は少しばかり私の気持ちを軽くしてくれた。


 早々に店内へ入ると中は学生で溢れていた。

 この時間だから仕方ない。前回も来た時間は放課後だった。学生は店内にも街中にも多く見え、自校他校が混ざり合って歩き回っている。

 間に見える大人たちがどこか窮屈そうに見えるのは、気のせいではないように思う。高校生のパワーに負けて、誰もかれも背中を丸くしているみたいだった。


 私たちは別々に注文してから、トレイを片手に今日は二階席へ向かった。

 窓辺の席を見つけた命が私を促してくれる。前もそうだったけれど、彼はもしかして窓側を好む性質があるのかしら、とふと思った。


 私はバニラシェイク、命はコーラにポテトのLサイズを注文していた。好きに食べていいよと気前のいい言葉と共に、ご丁寧に付けてもらった小さなケチャップの容器まで真ん中に置いてくれる。私はありがたくポテトを一つ摘まんでそのまま食べた。

 甘いシェイクとしょっぱいポテトの組み合わせは、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットくらい相性抜群だった。


「甘味と塩味ってどうしてこうも愛称いいんだろうね。まるでジャン・レノとナタリー・ポートマンみたいだよ」


 私は思わず黙ってしまう。咀嚼を止めて、向かいに座る同級生を見据えた。

 命が気まず気な苦笑を浮かべる。


「……ごめん、変なこと言って」

「いえ、大丈夫よ。少し驚いただけなの」

「驚いた?」


 首を傾げる彼の真っすぐな瞳から、今度は視線を外す。

 目前のシェイクの容器から垂れる水滴を眺めたのは、ちょっとだけ恥ずかしかったから。それでも毅然とした態度はできるだけ崩さなかった。


「私も、似たようなこと考えていたから」

「レオン、観たことあるの?」

「観たことあるけれど、考えていたのはレオンじゃなくて、タイタニックの方よ」

「ああ、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットか」

「よく知ってるわね」

「タイタニックは有名どころだから。それよりも海付さんがレオンを知っていることの方が驚きだよ」


 私はこの話をこれ以上膨らませるか一瞬だけ悩んだ。

 自分のことを他人に話すのにはやはり抵抗があって、それは命にも例外なことではない。私たちは出会って一週間で、まだ二回しか会っておらず、他人のプライバシーをひけらかし合うにはまだ少し時間が足りない気がした。

 でも、この話題に置いては少し前向きな思考が働いた。


「こう見えて、映画が好きなのよ」


 気付けばそう答えていた。

 命が感激したような表情を浮かべる。


「僕もだよ。他は? 何観た?」

「トゥルーマン・ショーとか、フォレスト・ガンプとか、ショーシャンクの空にとか」

「ゴーストバスターズは?」

「もちろん、有名だし」

「キャスパーやマスク」

「愚問よね」

「バック・トゥ・ザ・フューチャー、ジュラシック・パーク、スターウォーズ初期三部作!」


 私はうんうん頷いた。

 聞いていて呆れるくらい、それらは私にとって把握しておくべき基本的な作品ばかりだった。

 だから対抗心が燃えたというか、舐められている気がしてつい熱くなってしまったのかもしれない。


「ティファニーで朝食をと、時計じかけのオレンジは観たことある?」


 まるで真似事のように、今度は私が訊く側に回った。


「それも有名じゃないか」

「パルプ・フィクション、クレイマークレイマー、グラン・トリノはどうかしら」

「知ってるよ。僕だって映画はよく観るんだ」


 鼻を高くする命。

 今のところ全部知っているからこそ態度に出ているらしい。けれど余裕ぶれるのもそこまでよ、と私は切り札を出すことにする。


「ラースと、その彼女って映画は知ってる?」


 そこで命の勢いが目に見えて落ちた。


「……知らない」

「グッド・ウィル・ハンティングはどうかしら? そこそこ有名だと思うけど」

「それも、知らない」

「じゃあ、オーロラの彼方へは? 隠れた名作なんだけれど。もしくはミッドナイト・イン・パリとか、メリー・ポピンズとか」

「メリー・ポピンズは知ってる!」

「それは『リターンズ』の方じゃなくて?」


 黙ったところを見ると、今年の春に公開された映画をそれと勘違いしたらしい。

 あれは一九六四年に公開された映画から、実に五五年ぶりに製作された続編作品なのだ。私が言っているのはまさにその、一九六四年に公開された初期のメリー・ポピンズのことで、命は観ていないようだ。


 つい、勝ち誇った顔になった。

 今度は私が鼻を高くして、悔しいがそんなに豊かではない胸を張る。高揚感に満たされるままに得意げに命を見やる。気分は高いところから見下ろす気分だった。


「海付さんって、もはやマニアだよね」


 胸を、矢か何かで刺された気分になった。

 我に返ると自分のやったことが急に恥ずかしく思えてくる。顔が熱くなって、背中に嫌な汗をかいた。

 咄嗟に、ほどよく柔らかくなったシェイクに口をつけて吸った。


たしなむ程度よ。べつに、マニアってわけじゃないわ」

 

 口内が冷たくなっても、顔や耳からは一向に熱さが引かなかった。

 それでも平然さを装った。


「僕も観る方だけど、それよりもたくさんの作品を知ってるじゃないか。嗜むレベルを超えてるって」

「大袈裟よ」


 ちゅーちゅーとストローで吸引するシェイクに甘みを感じる余裕がなくなっていた。

 私は自分を小突きたい気分になる。命に囃し立てられるがまま、ずいぶん余計なことを言ってしまったものだと思った。

 結果、マニアとまで言われる始末。穴があったら入りたいし、出来ることなら命の記憶から今の自分を消し去りたいとも思う。このトレイの角で一発殴れば消えてくれるかと考えて、少ない理性が働きどうにか自分の手を汚さずに済んだ。


「いつからそんなに映画観てるの?」


 何気ない質問だったに違いない。

 会話の流れには一貫性があるもので、命の話が急に逸れたというわけでもない。それはこの会話上、必然的に辿り着く内容で、普通ならば容易に答えられるものだ。


 でも私は、答えるのを躊躇った。

 ストローを銜えたまま、こちらを見詰める無垢な男子高校生を一瞥して瞼を伏せる。

 

 映画を観るようになったのは、中学一年生の秋か冬くらいだった。

 それは私の身に、あのが訪れてからだ。

 恋愛できなくなった私は、何かに縋るようにして映画の世界にハマるようになった。彼ら彼女らは画面の中の約二時間の間に、様々な恋を発展させていく。それを観る私は『疑似体験』という形で思春期の気持ちを押し殺してきた。

 あるときは主人公、またあるときはヒロインになることでその相手と恋愛することができる。恋心が働いても、フィクションの物語の中で活躍するキャラクターが不幸になることはない。皆、二時間という枠の中で運命が決まりきっているからだ。

 

 それは、私が恋心を放出できる唯一のフィールドだった。

 映画の世界に逃げ込み、キャラクターに惚れ込み、気付けば映画全般が好きになっていた。ジャンルに問わず、フィクションの世界ならば私は自由の身になれた。


 それが現実からの逃亡であることは百も承知だった。

 でもそうするしかなかった。

 私には、心の支えが必要だったから。


「さあ、忘れたわ」


 そう答えて、ポテトをひと摘まみ。ケチャップをたっぷり付けて口に運ぶ。

 甘味の後の塩味によって、口内がさっぱりとする。

 やはり、この組み合わせを例えるには、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの方がしっくりきた。


 レオンのジャン・レノとナタリー・ポートマンでは、どちらも塩味の方が強い気がするから。

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