七章 渾融のパトス 6

 モノクロの部屋の中にいた。調度品の類は何もない、ただ壁と床と天井だけがある部屋。それでも不思議と殺風景な印象がなかったのは、壁紙の模様が異様だったからだ。白と黒が、絶えず動いていた。そして、次第に混ざり合い、徐々に灰色の面積が大きくなっていく。

 四方と上下を無彩色で囲まれた中で、二つだけ色を持つものがあった。


 相人と、愛である。愛は、アルコーンの白い体ではなく、記憶と同じく人の肌をしていた。


「分かったでしょう、相人。私にとってあなた以外の世界なんて必要ないの。……いいえ、あなた以外は、私を苦しめるだけのものだった」


 二人だけの部屋で、愛は静かに語る。その表情には、以前のような感情の欠落は見受けられない。そこにいたのは、アルコーン・西園愛ではなく、一人の少女だった。


「憎悪も嫉妬も愛情も、何もかも私を苦しめた。だから、感情なんて必要ない。そんな感情を向けてくる無価値な人達もいらない。私と相人と、私の愛情以外は全て邪魔でしかない」


 相人には、その思いを誰よりも理解できる。愛と融合した今となっては、それは正に自分で経験した自分の思いと同義だ。


「暖かい感情を知らない訳じゃない。だけど、それも全部無価値なのよ。それらもきっと私に牙を剥く。もし、最後まで私を苦しめない、私を癒してくれるような感情があったとしても、もう遅いの。既に、私は相人以外に価値を見出せなくなってしまったのだから」


 今の愛からは苦悩と諦念が滲み出ている。その表情が、声音が、全身が感情を伝えてくる。


「こんな空虚で残酷な世界は耐えられない。私はもう、相人以外とは生きられない。だから、相人。私の手を取って。今ならまだ間に合うわ。融合を中断すれば、私の能力で分離できる。そして、私と一緒に来て、お願いよ相人」


 愛が、手を差し伸べてくる。


「お願い、手を取って。私、あなたとしか生きていけない……! あなたを、愛しているの! 愛なんて醜くて、誰かを傷付けなければ成り立たないおぞましいものだけど、私にはそれしかないの! お願い、手を取って。私は、あなたを愛しているわ、相人……っ!」


 遂には涙を流し、愛は懇願する。その痛みを、その苦悩を、相人は知っている。


「私は可哀想でしょう……? 今まで生きてきて、あなた以外にいいことなんて一つもなかった! 私にはあなたが必要なの! だから……だから、一緒に生きてよ……っ!」


 愛の叫びはモノクロの壁に吸い込まれる。それでも、その叫びには愛の感情が乗っていた。


「……確かに、君は可哀想だ」


 ぽつり、と相人が答えた。


「相人……っ!」


 愛は、縋るように相人を抱き締める。一見、喜びを表しているように見えたが、相人にはそれが恐怖によるものだと分かった。何故なら二人は融合しており、相手の感情は自分の感情と同義であるからだ。

 愛は、相人の思いを知っている。だから、答えが恐ろしいのだ。


「それでも、僕は君を殺さなきゃいけない」


 愛の温もりを感じながら、相人は彼女を殺すと言った。

 愛の体から力が抜け、小刻みに震えた。彼女は相人を離さず、顔を相人の胸に埋める。


「……分かっていたわ。相人なら、そう言うって。だけど、どうして……? あなたは私の苦しみを理解して、可哀想だと言ってくれた。それなのに、どうして助けてくれないの……?」


 その理由が本気で分からない訳ではない。ただ、相人の口から答えが聞きたいのだ。顔を合わせることすらなく気持ちを理解できても、終わりの宣告は言葉にしなければならない。


「君はずっと苦しんできた。色んな人に理不尽な仕打ちを受けてきた。君自身に非がなくても、ただ君が優秀だから、ただ君が愛する人の娘だから、ただ君を愛しているから。確かに、君の人生はとても辛いものだった。今の僕には本当の意味でそれを理解できる。だけどね、君が言った、いいことなんて一つもなかったって言葉は、それだけは違うと断言できる」


 相人は、愛の頭に手を置いて、諭すように語る。


「幸せな記憶は確かにあった筈だ。研究室でハーミーズさん達と過ごした日々も、そこでの研究も、お父さんやお母さんとの思い出も、その中に愛を苦しめるものが混ざっていたからって、その幸せが消えてなくなることなんて絶対にない。いいことなんて一つもなかった? それは違う。ただ、君が僕以外の全てを捨ててしまっただけだ。幸せに生きることを、自分で捨ててしまったこと、僕はそんな選択をしたことが一番可哀想でならないんだよ」


 全てを無価値と断じた愛は、自らの幸せすら否定した。それは、あまりに哀れだ。


「そんな……そんなの、仕方がないじゃない! だって、その幸せだって、結局私を追い詰める! そんな思い出があるから、私は愛から逃げられない! それに、私はあなたへの愛を知ってしまったんだから!」

「ああ、だから僕は君を殺すんだ。愛を知って人でなくなった君は、君を怪物に変えた僕の手で殺さなければならない。確かに君は可哀想だけど、君のしたことは許されない」


 相人は、涙を流す愛の目を見る。自分がこれから殺す少女をこの目に焼き付ける。


「嫌よ、相人。私は、あなたと一緒に生きていたいのに――!」


 まるで、愛する人に対してそうするように、相人は愛を強く抱き返す。


「それはできないんだよ、愛。――だから、せめて一緒に死んであげる」


 白黒模様のうねりが止まる。白と黒は混ざり合い、溶け合い、渾融し、全て灰色に染まる。

 色を持っていた相人と愛からも、色彩が失せ、二人の体も一つになっていく。体も、感情も、あらゆる境が消滅する。境が消えると同時に、自らの存在も消えていくことが理解できた。

 全てが重なり、消えていく。その中で、相人は一つの約束を思い出し、ぽつりと呟く。


「ごめん、みんな。生きて帰るって約束、守れないや……」


 そして、意識も黒く、白く、そして最後には灰色に溶けていった。

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