六章 決戦のイペアンスロポス 9

 百近い数のアルコーンが凛を襲ったが、所詮は雑兵。洋館の前で交戦した時よりも数も少ない。凛が遅れを取る理由は一つもなかった。


 しかし、だからといって、容易い相手ではない。それだけの量を相手取るとなれば、相応に時間はかかる。襲ってきたアルコーンを倒した時には、西園愛はとうにこの場から去っている。

 既に数分消費してしまった。今から追って間に合うかどうか……。凛は一瞬逡巡するが、迷っている時間は無駄だと判断し、ともかく屋敷の外へ向かうことにした。


 敵の首魁を逃がしてしまった事実が凛を急かしていた。だが、それだけではない。実際に会話してみて、西園愛の危険性を肌で感じた。

 例えば、ハルパーは悪辣な男ではあったが、その目的はあくまで自らの生存にあった。生物である限り、求めざるを得ないものだ。許すことはとてもできないが、理解はできる。

 しかし、西園愛は完全に理の外だ。戦闘能力は別にして、その思考回路はハルパーを遥かに凌駕する危険性を有している。


 急がなければ。ここで逃がせば、西園愛の凶行は止まらない。

 前のめりになって走る凛の行く手を、新たに現れたアルコーンが阻む。虫のように湧くそれを全て蹴散らし、ただ前を見て走った。


 その末に、玄関に到達した凛は、その光景を見た。

 西園愛の背中と、その行く手を阻むように地面から伸びた鎖と、宙に浮く刃の群れ。


「遠浪さん、白蝋君……!」


 負傷した由羽を遥が支え、立ちはだかっていた。更に、その後ろには退避した筈のハーミーズの車が停まっている。ハーミーズがこの二人を連れてきてくれた、ということなのだろう。


「何やってるんですか、天王寺先輩! しっかり役割果たした後輩に、あんまり仕事させないでくださいよ!」

「転がってるアルコーンを見る限り、明らかに先輩の負担の方が大きかったみたいだけどな」


 本当に、頼もしい後輩達だ。先輩として、負けていられない。


「大丈夫。二人だけには戦わせない――!」


 挟み撃つ形で西園愛へ砲撃を放つ。鎖と刃へ意識を向けた状態で不可視の攻撃を避けられる筈もなく、西園愛に直撃する。


 西園愛は、衝撃を受け、地面を転がる。これで、凛の砲撃の直撃を二度受けたことになる。

 それでも、西園愛は立ち上がった。無論、無傷という訳ではない。足は痙攣し、片腕が逆方向に曲がっている。しかし異様な目の輝きは全く損なわれていない。


「ああ……痛いわ。価値のない人はいつも私をいじめるのね。私の愛を邪魔するのね」

「勝手なことばかり言ってんじゃないわよ。自分には価値があるとでも思ってるの? あんたはむしろ害しかないっつーの……!」


 遥が西園愛の言葉を否定する。西園愛は相人を苦しめた元凶だ。遥の憤りは当然だ。


「価値があるのは私と相人だけよ。あなたも、あなたも、あなたも、みんなみんないらないんだから。生きてる意味なんてないのに足掻くなんて、みっともない」

「あんたは……!」

「遠浪さん。無駄だよ」


 噛み付くように吠える遥を、凛が制止する。

 屋敷で幾度か言葉を交わしたが、一度たりともこちらの言葉が届くことはなかった。西園愛の世界は己と相人で完結している。他の何かが介入する余地は微塵もない。


「――早く、倒そう」


 凛の言葉に加えて、由羽も遥の肩に手を置いた。


「……分かってます」


 遥は溜め息を吐き、その瞳に冷静さが戻る。

 冷静さを取り戻した遥は攻撃の予兆を発するような迂闊な真似はしなかった。


 西園愛の足元から、四本の黒い鎖が飛び出し、それぞれが西園愛の手首足首に絡み付く。満身創痍の西園愛に、これに反応できるだけの余裕はなかった。

 四本の鎖は全て別方向に向けて西園愛の体を引っ張る。中世における股裂きの刑のような無残な攻撃だが、西園愛に対しては全く同情が湧かなかった。

 西園愛が、鎖に反発するように、手足を体の内側に向けて引き寄せる。しかし、キビシス程の膂力があるならばともかく、西園愛に呪縛から逃れ得る程の力はない。


「ふ、ふふ……」


 微かな笑い声が凛の耳朶を打つ。その声に寒気を感じるのと同時、西園愛に変化が起きた。


 陶器か何かがひび割れるような、甲高い音がした。その発生源は鎖ではなく、鎖で縛った西園愛の手足からだった。

 千切れようとしているのだ。ただし、それは遥が狙っていた手足の付け根ではない。ばきり、という、ともすれば気の抜けそうな音と共に、西園愛の手首と足首だけが分離した。


 体の末端を奪われた西園愛は、立ち上がることすらせず、這うように凛に向かって接近する。アルコーンの身体能力が可能にした、高速での匍匐前進だった。


 その異様な姿に気を取られ、対応が一瞬遅れる。

 反撃の態勢を整えた時には、既に西園愛は凛に向けて飛びかかっているところだった。


 それでも、まだ間に合う。不可視の砲弾を敵の体の中心目がけて撃ち放つ。

 破砕音。――その直後に、砲撃は西園愛に三度目の命中をした。


 今度こそ、致命傷だ。三度の直撃を受けて、立ち上がる道理はない。西園愛は、後方に大きく吹き飛ぶ。


 しかし、西園愛が致命傷を受けた程度で止まる筈がないのも、また事実。吹き飛ばされるその直前に、西園愛は凛に向けて、口に含んだ何かを吹きかけた。


 それは、白い破片だった。凛は目で捉えていた訳ではない。それでもそれが何なのか理解できたのは、攻撃が当たる直前に、砕けるような音を聞いていたからだ。――そう、西園愛が自らの歯を噛み砕く音を。

 アルコーンの肺活量を以て射出されたそれは、人間にとっては最早散弾に近い。この至近距離で命中すれば、頭蓋をばらばらに拡散させるだろう。

 防御は間に合わない。連射速度がぎりぎりで届かない。

 

このまま、死ぬ訳には――。


 終わりを幻視した凛の前に、壁が現れる。歯の散弾はその壁に阻まれる。


「随分となりふり構わないんだな」


 壁は、由羽が展開した円盤だった。凛は仲間の援護に胸を撫で下ろす。

 凛は生き残った。そして、西園愛はこれで終わりだ。仰向けになって倒れたまま、起き上がる気配は微塵もない。僅か足りとも体を動かすこともない。


「嫌! 嫌よ。どうして、どうして! 私の愛は、相人への愛は、何にも負けないのに……っ!」


 初めて、西園愛が取り乱すように叫んだ。

 まるで、泣きじゃくる子供のように。手負いの獣のように。


「会いたい……。会いたいよ、相人……っ! 相人! 相人ぉ……! あなたが欲しいの! あなたに会いたい……! あ……い、と……」


 そして、泣き疲れて眠るように、人類を滅ぼす愛は終わりを迎えた。


 その最期は惨めなものであったが、凛は同情するよりも戦慄した。手がもげ、足がもげても前に進み、歯を砕いて武器にする異常な執念。相人を求めてここまでした女が、もし相人の前に現れていたら、どうなっていたのか。


「ここで仕留められて、よかった……」


 これで、戦いは終わった。あとは相人とキビシスの戦いだが、相人ならばきっと勝利していると信じている。人類を脅かす脅威は去ったのだ。


 凛は失った友を、助けられなかった人々を思い浮かべる。

 力が足りなかった。間に合わなかった。きっと無念の中で死んだのだろう。意味も分からぬまま絶命した者もいれば、悲しみながら息絶えた者も、諦念の中で死を迎えた者も、未練を嘆いて逝った者もいただろう。

 そのどれも、もう戻らない。それでも次に理不尽に命を失う者を救うことができた。幾つもの犠牲によって得た勝利だが、復讐の為の勝利ではなく、生かす為の勝利を勝ち得た。


「ああ――本当に、よかった」


 一筋だけ涙を流して、凛は笑顔を浮かべた。




 倒壊した研究所を前に、勝者と敗者が倒れている。

 伊織は倒れ伏す勝者――相人に駆け寄り、肩を貸して立ち上がらせる。


「ったく、無茶しやがって」

「ごめん。でも、生き残る為の無茶は大目に見てほしいな」


 減らず口を叩く相人を肘で軽く小突き、伊織は壊された研究所と、キビシスの骸を見る。


「しかし、正直やばかっただろ。俺は直接戦闘を見たのは初めてだけど、それでも相手がとんでもないってことは分かった」

「うん。だからこそ、ここで倒せてよかった。多分、今を逃したら倒すチャンスはなかったから」


 はっきり言って、勝利に実感が湧かない。傍から見ていた伊織だけでなく、勝者本人であるところの相人も似たような感想を抱いているようだった。


「んで、こっからどうするか。今からみんなを追うってのは時間的にもお前のダメージ的にも無理だろうが、休もうにも研究所がなくなっちまったしなあ」


 今後の方針について伊織が考えていると、足元の地面を影が覆った。

 天気も崩れてきたか、と伊織は顔を上げ――瞬間、比喩でなく呼吸が止まった。


「あ、あ……」


 相人も、驚愕に声にならない声を漏らす。

 影の正体は、空に浮かぶ雲などではなく、打倒した筈のキビシスだった。キビシスが立ち上がり、伊織と相人の前に立ちはだかったのだ。


 ここにきて、この巨漢がまだ生きているなど、想定外にも程がある。相人は傷付き、消耗し、疲弊しきっている。これ以上、この強敵を相手に戦うことなど不可能だ。

 伊織も、相人も指一本動かない。対処能力を超えた事態に、思考がフリーズしていた。

 絶望の拳が振り上げられる。避けることも、受け止めることも叶わない。振り降ろされた瞬間、二人の運命は終わりを迎えるだろう。人は走馬燈を見るというが、それは危機を前にした脳がそれに対処し得る過去の経験を検索しているのだという。その脳機能によって、死の瞬間は引き伸ばされ、一瞬で人生全てを閲覧するのだと。

 キビシスの拳によって、一秒と経たず地面の染みとなる伊織の一瞬も引き伸ばされ、殴り潰される前の時間を悠久のように感じる。


 一秒を過ぎ、二秒、三秒経っても、未だ意識がある。あるいは既に伊織の肉体は亡骸となって、意識だけが残っているのかもしれない。でなければ、十秒以上も無事である筈が――。


「……って、あれ?」


 おかしい。いくらなんでも、拳の到来が遅すぎる。よもや本当に意識だけが残っているのではあるまいかと足元を見るが、自分の死体や、赤い血溜まりがある訳ではない。

 もう一度、キビシスを見ると、拳を振り上げた姿勢のまま、まるで動く気配がない。


「死ん、でる……?」


 傍らの相人が呟く。それで、漸く伊織も理解した。

 キビシスは既に絶命している。絶命したまま、立ち上がり、拳を振り上げたのだ。

 恐るべきはその勝利……いや、生への執着か。死してなお生きようとする程の。


「……まじで化け物だな、こいつ」

「ああ、うん。今のは、本当に死んだと思った」


 二人は安堵して息を盛大に吐き出し、胸を撫で下ろす。


「でも、生きてる。――だからよかった」


 生死を争い、紙一重よりも更に薄い勝利をもぎ取ったからこその、生だ。安堵しただけでは割に合わない。伊織は相人の、今ここに生きていることに対する喜びの声を聞き、


「――ええ、本当によかった。相人が生きていてくれて、私も嬉しいわ」


 その声を、聞いた。


 昔、どこかで聞いた声だった。童女のような高い、可愛らしい印象とは裏腹に、寒気がするような声だった。それは、背後からの声だった。


 恐る恐る――本当に全身を震わせながら、二人は振り返る。そこには――、


「西園……愛――!?」


 悪夢が、真っ白な少女の姿で立っていた。


「――愛しているわ、相人」




 アイギスが主から賜与されたのは、擬態能力だ。

 自らの姿を他者の姿へと擬態し、他者を欺く能力。生物であれば体積や質量すら無視して完全に模倣してみせる。外見だけでアイギスの擬態を見破ることは不可能である。ましてや、恐れ多いことではあるが主の姿に擬態した場合、アイギスは全霊をもって敬愛する主を演じる為、ハルパー、タラリア、キビシスといった、普段主と接している者でも判別不可能だ。


 そして――アイギスの能力はそれだけではない。


 アイギスは限定的に他のアルコーンに擬態を施すことすら可能なのだ。

 他者の擬態に関しては同時に一体にしか適用できず、体積や質量の変化にも限界がある。更に、固有の能力を持つ上級アルコーンに擬態を施すことはできない。


 しかし、それでも小娘一人を騙すことなど容易に過ぎる。


 不可視の砲弾を放つイペアンスロポスは確かに比類なき力を持っていた。しかし、最後までアイギスの罠を見破ることは叶わなかった。女がアイギスだと思っていた個体は、主の擬態を施した下級アルコーンに過ぎず、本物の主だと思っていた個体こそがアイギスだったのだ。

 そうと知らず、女とその仲間のイペアンスロポスは主を仕留めたと思い上がっている。


 主の為ならば、主の命に従い、主の醜態すら演じ切ってみせよう。その為に自らの死が必要ならば、歓喜に溺れてこの身を捧げよう。


 ――ああ、何と罪深い。主よ、従属の快楽に溺れる私をお許しください。


 アイギスは、それこそ感情のみで絶命しかねない狂喜を抱きながら、それを欠片も漏らすことなく、偽りの怨嗟と未練の中で死んでいった。

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