第6話 越権行為(終)


◆【終章】 ロワールの告げ口



「うわ、すごい」


 クラウスが感嘆の声を上げた。

 膝をついたロワールの体が、みるみる青白い光に包まれていく。


 ロワールは未だ目を閉じて眠っているシャインに、まるで赤子にでも話しかけるような優しげな口調で呼びかけを始めた。

 その話しぶりは明らかに自分達(ジャーヴィス達)に向けるのとは真逆で、それは裏を返せばいかに彼女がシャインを慕っているかという心の表れだった。


「もう十分眠ったでしょ? そろそろ起きる時間よ。シャイン」


 ロワールの右手が静かに上がり、長椅子の上に投げ出されているシャインの右手首を握りしめる。すると、今まで何の反応も示さなかったシャインの眉がぴくりと動いたではないか。


「おお、何か艦長の表情が……変わったぞ」

「しっ! レイディの邪魔をしたらまた怒られますよ」


 肘で脇腹を突くシルフィードに、こいつ、後で本当に覚えていろよと思いつつ、ジャーヴィスはロワールの様子を再びうかがった。


「さあ。みんな心配してるんだから。わかってるでしょ、シャイン?」


 ロワールの声はますます艶っぽさを帯びて優しくなっていく。だがそれとは対照的に、今まで幼子のような顔で眠っていたシャインの表情に変化が表れだした。


「あれ? 艦長、妙に眉間にシワ、寄せてません?」

「なんか、歯を食いしばっているような」

「なんだか、苦しそうにみえるのだが? 気のせいか?」


 ロワールの声音はあくまでも慈雨のように優しい。シャインを驚かせないように、とても穏やかな口調で呼びかけを続けている。けれどロワールが呼びかければ呼びかけるほど、シャインは抵抗するように眉間をしかめ、その額には冷汗が浮かんでいるのだった。


「だ、大丈夫なのか?」

 ジャーヴィスがたまりかねてそう声に出した時だった。


「起きる! 起きるからもうやめてくれーーー!」

 弾かれたようにシャインの体が起き上がった。


「艦長!」

「グラヴェール艦長! やった! 起きたぞ!!」


 けれど当のシャインは、ジャーヴィス達が部屋の中にいることにまだ気付かない様子で、ぜいぜいと息を乱し喘いでいる。


 右手で顔を半分を覆い、まだ夢の続きを見ているのか、疲れたように長椅子に背中を預ける。どうやらその寝起きは最悪なものだったらしい。


「シャイン。お寝坊さんね。ほら、みんなあなたの指示を待ってるわよ」


 シャインを無事に起こせたことに満足しているのか、笑みをたたえたロワールがシャインに話しかける。


 そこでようやくシャインは顔をあげ、艦長室の出入口の扉の前に立つジャーヴィス達の姿に気がついたようだった。


「じゃ、私はちょっと席を外すわね。あなたを起こすのに少し疲れちゃったから」


 うふふ。

 緩やかにうねる紅髪を揺らして、ロワールが艦長室から姿を消した。


「……」

「……」


 その姿を黙って見つめていたシャインが、ようやく緊張が解けたと言わんばかりに大きく息を吐いた。


「うう。なんで皆がここにいるんだ? 悪いが、あまりよく眠れなかったから、もう一眠りしたいんだ。用があるなら、その後にしてくれないか?」


「なっ、なんですって!?」

 ジャーヴィスの理性は木っ端微塵に砕け散った。


「あなたは。あなたって人は……! 丸一日眠ってたことすらわかってないんですかっ!!」


 今までの鬱屈を晴らすように、ジャーヴィスの絶叫が艦長室に木霊した。




 ◆◆◆




 三十分後。

 シャインはばつの悪い顔をして、クラウスが淹れてくれたシルヴァンティーをすすっていた。思っていたよりお茶が熱いのか、ふうと息を吹きかける。


「ありがとう。これで少し眠気が飛んだよ」


 シャインが強ばった笑みで礼を言ったが、士官候補生の少年は、普段快活な表情をどんよりと沈ませて、暗い瞳でその顔をじっと見つめている。


「艦長。何であの薬を二錠も飲んじゃったんですか? しかもシルヴァンティーと一緒に! あれほどって、僕、念を押したじゃないですか!」


 クラウスが必死にそう訴えるには理由がある。

 艦長室にはジャーヴィスもいて、一緒に午後のお茶を飲んでいたからだ。

 薬をシャインに渡したことと、決まった量を飲むように話したこと。クラウスはシャインに再度確認して、自分は悪くないとジャーヴィスに証明したいのだ。


「あ、そう……だったかな?」

「そうです!」


 シャインの返事は未だ歯切れが悪い。きっとまだ寝ぼけているのだろう。

 ぎりと白い磁器のカップの縁を噛みながら、ジャーヴィスはシルヴァンティーを喉に流し込む。


「俺の不眠症はきっと他の人より酷いから。だから、一錠だけじゃ不安だったんだ」


 少しは身にこたえたのだろうか。

 シャインはクラウスに気を使うように眉をしかめた。


「心配かけてすまなかった。クラウス。それから、ジャーヴィス副長も」


 ジャーヴィスは相変わらずむっとした表情で茶を飲んでいた。


「事情はよくわかりましたが、今後は本当に気を付けて下さいね! あなたの身にもしも何かがあったら、その時、私は……」


 ジャーヴィスは再び冷静な自分を保てなくなるような不安感に襲われた。

 それほど気が動転していたのだ。


 今朝、艦長室を訪れた時、何度呼びかけても答えないシャインの様子を見て。

 病気なのか事故なのか。

 このまま目が覚めなかったら、生命の危機も覚悟しないとならないだろうか。

 もとよりロワールハイネス号の指揮系統を混乱させるわけにはいかないという思いで一杯だった。


「でもジャーヴィス副長の行動が僕、よくわかりませんでした」

「えっ?」


 クラウスは思い返すように、視線を天井に彷徨わせた。


「いきなりですよ。今から自分がロワール号の艦長になるって宣言するんですもん。これって、正当な理由がなければ、越権行為――」

「クラウス!」


 突然ジャーヴィスが手にしていたカップを机に叩きつけるようにして置いた。

 あまりにもその音が大きかったので、クラウスは目をまんまるに見開いたままその場に硬直した。


。甲板に上がって、シルフィードと当直を交代する時間だ」

「あ、はい!」


 クラウスはいそいそと席を立ちあがり、「失礼します」とシャインに一礼して部屋を出て行った。


「――俺の目が今も覚めてなかったら、君が俺を解任してこの艦長になることは間違いじゃない」

「グラヴェール艦長」


 シャインはいつものように、感情の読めない青緑の瞳を伏せて呟いた。


「それでいいと思うよ」

「い、いいえ!」


 ジャーヴィスは思わず席を立ち上がっていた。


「駄目です。この船の艦長は、にしか務まりません!」


 シャインは長椅子に背を預けたまま気怠げにジャーヴィスを見上げた。


「正直言うとね、それは悲しいくらい当たっている」

「……」


 穏やかな笑みを浮かべていたシャインのそれが、みるまに青ざめていく。


「ど、どうかされましたか?」

「いや。ちょっと夢の続きを思い出してしまってね」

「あの、ちなみにどんな夢をご覧になっていたのですか?」

「夢? あ、ああ。途中までは夢なんか全くみてなくて、とても快適な眠りに浸っていたんだ。でも」


 シャインは声を潜め、そっとジャーヴィスを手招きした。

 ジャーヴィスはそんなシャインの様子に訝しみながら、彼の椅子のそばに近づいた。


「突然ロワールが夢の中に出てきたんだ。さっさと起きないと、皆を道ずれに船を沈めるって、俺を脅すんだ。俺はもう少し眠っていたかったんだけど、今度は何故か君――ジャーヴィス副長が出てきてさ、起きなければ濡れハンカチを俺の顔にかけて、息ができないようにしますけど、それでいいですか? って言ったから、俺は思わずそこで飛び起きたんだ」


「……」


 シャインは両手で顔を覆い、再度悪夢にうなされるように首を振った。


「やっぱり長く寝るもんじゃないね。こんな寝ざめの悪い思いをするくらいなら、もう薬には頼らないよ。心配かけて本当にすまなかった。ジャーヴィス副長」


「あ、いえ……もう二度とあんなことをされなければ、それでいいです。では、私も仕事に戻りますので、これにて」


 ジャーヴィスはそっとシャインから離れた。

 背筋にうすら寒いものを感じつつ。


 このロワールハイネス号の艦長は、シャイン・グラヴェールにしか務まらない。

 何故なら、この船には彼を慕う船の精霊ロワールが宿っているからだ。


『うふふ。あなたたちがやろうとしてたこと、ちゃんと夢の中でシャインに伝えたんだから』


 ロワールは艦長室を出るジャーヴィスの背中をこっそりと見つめていた。




―完―



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