第3話 「航海日誌の掟」(後編)

 清々しい香りに満ちたシルヴァン・ティーを十分に堪能したシャインは、空になった白いカップを執務机の上に置いた。

 その前には苦々しい表情をしたジャーヴィスが様子を伺うように立っている。


「……いかがですか?」

「あ、美味しかったよ。ありがとう」


 ぴくりとジャーヴィスの薄い唇が引きつる。


「いえ、それではなく、航海日誌のことです」


 シャインは机の上に広げられた件の黒表紙に視線を落とした。


「実に勇気ある行動だね。神聖な『航海日誌ログ』に、私事をここまで書き込むなんて」

「常識を知らないただの馬鹿です! あの二人は!」


 ジャーヴィスの青い瞳が瞬時に怒りの色に染まる。


「航海日誌に自分の意見を証言として残したい時は、艦長の同意がいるって事を忘れているんです。クラウスはともかく、シルフィードは航海長なんですから! まったく、あの筋肉馬鹿ときたら……!」


「君の怒りには同情する。後で好きなだけ懲らしめれば良い。君の航海服の行方は気の毒だと思った」

「……」


 シャインの言葉にジャーヴィスは一瞬口を開いたまま固まった。


「だけど、どれも実際船内で起きたことだしね。もっとも……」


 シャインの顔は困ったように、それでもいくばくか笑いを堪えるように、青緑の瞳を伏せて航海日誌のページを繰った。


「当直中の居眠り、欠伸。つまみ食いはともかく。イビキがうるさいだの、足のにおいが臭いだの。もの覚えが悪く泣き虫で、マストに登るのが遅いとか。これは単なる誹謗にすぎず、航海日誌に書く必要のない私事ばかりだ。シルフィードとクラウスには、無断で航海日誌に私事を書き込んだ事について、反省文を書かせればいいだろう」

「はい……」


 ジャーヴィスはゆっくりとうなずいた。けれどその瞳には副長として艦長の裁断に納得はしているが、ジャーヴィス個人としては、そんな生温い処分は許さないといわんばかりの感情が込められている。


「それはそれでよろしいですが、航海日誌に6ページにも渡って書き込まれたこの文章はどうしますか? こんなものを本部に提出すると、ロワールハイネス号はエルシーア海軍中の笑いものになりますよ?」


 シャインは物憂げに頬杖をついた。


「俺個人としては笑い者になってもいいよ。本当のことだし、部下がこんなことをするのは俺の指導力不足のせいだからね」

「グラヴェール艦長。いえ、それは現場を仕切る私も同罪です!」


 シャインはつめよったジャーヴィスに小さく首を振ってみせた。


「だが、問題はそこじゃない」

「えっ?」


 シャインはゆっくりと嘆息すると、おもむろに航海日誌のページに手を添えた。シルフィードとクラウスが中傷し合った、まさにそのページを右手でつかみ、力を入れて手前に引っ張る。


「か、艦長っ! あなたは、何を!!」


 驚きに目を見張るジャーヴィスの前で、シャインは何のためらいもなくページをびりびりと破りだしたのだ。

 そしてそれを小さな紙吹雪の山にしたかと思うと、背後の船尾の窓を開けて海に投げ捨てた。


「君だって認めたじゃないか。この文章は『私情』で、航海日誌に書く必要のないものだと。第一俺は書いていいと同意してない。だから最初からなかったことと同じだ」

「で、ですが艦長!」


 ジャーヴィスは明らかにページが破り捨てられたとわかる航海日誌を指差した。


「航海日誌の改ざんは重罪です。あの馬鹿共が書き込んだページは残しておくべきでした。海軍省はここだけ何故ページが破れているのか、その理由を詰問しますよ?」


 シャインは窓を閉めて再びジャーヴィスに向き直った。


「理由などなんとでも。不注意でインクをこぼしてしまった。だから破った。それでいいじゃないか?」


 ジャーヴィスはぐっと唇を噛みしめている。

 真面目なこの青年は、シャインのその言い分がどうしても許せないらしい。


「私は……このことを……あなたが航海日誌を破り捨てたという事実を、航海日誌に記帳することを要求します」


 シャインはジャーヴィスの鋭利な視線にたじろぐことなく、ただそれを受け止めてうなずいた。

 机の上に広げられていた航海日誌をジャーヴィスの方へ差し出す。


「君の要求は正当だ。その事実を記入してくれ」


 インク壷の蓋を開け、ペンを手渡す。

 ジャーヴィスは一瞬シャインの顔を見た後、受け取ったペンを航海日誌の白いペ-ジの上に走らせた。





『エルシーア歴928年 7の月 第2週 10日

 11時艦長室にて、グラヴェール艦長が航海日誌の不要部分6ページ分を破棄した。

 それに立ち会ったことをここに記する。


 ロワールハイネス号副長 ヴィラード・ジャーヴィス』




 ジャーヴィスはペンをシャインへ渡した。黒々としたくっきりとした文字で書かれた航海日誌を再びシャインの方へ向ける。


「その事実のみを記入いたしました」

「ありがとう。これで誰がここを破ったか記録に残せた」


 ジャーヴィスははらりと垂れてきた前髪に手をやり、それを無造作にかきあげた。


「副長として当然のことをしたまでです。でないと後に大きな問題になりますから。しかし、海軍省の事情聴取を受ける時には、インクをこぼしたせいだと言っておきます」


「心の底からその言葉に感謝するよ」


 シャインは席を立つとジャーヴィスへ頭を垂れた。

 ジャーヴィスはシャインの行為に一瞬顔をしかめたものの、口元に小さな笑みを浮かべた。


 実はシャインが問題のページを破らなければ、自分が破り捨てようと思っていたのである。それぐらいシルフィードとクラウスが航海日誌に書き込んだ内容は酷かった。あれを残すぐらいなら、何故航海日誌を破ったのか、海軍本部の事情聴取を受ける方がよっぽどマシというもの。


 それに、シルフィードとクラウスも本部の懲罰を免れない。

 シャインが問題のページを破り捨てた本当の理由はこれなのだ。


 私事はもとより、艦長の同意が必要な処罰の対象となる事項(この場合は無断飲酒や当直時の不適切な行為)を、勝手に航海日誌に書き込んだのだから、これは上官への不服従と見なされる。


 あの二人は自分達がここまで重大な過失を犯したということに気付いていないだろう。


 再教育せねばなるまい。

 船内を取り仕切る副長の職責と威厳にかけて――。

 ジャーヴィスは唇を噛みしめながら、深く深く、それを心に誓った。


「では、私はあの馬鹿共を呼んで参ります」

「そうだ、ジャーヴィス副長」


 踵を返したジャーヴィスが怪訝な顔をして振り返った。

 シャインは再び執務椅子に座り、机に頬杖をついたまま、青緑の瞳を細め口角を歪めていた。何か楽しい事を思いついた子供のように無邪気に笑っている。


「反省文を含め、それに付け足す懲罰の希望はあるかい?」


 ふっ。

 それを待ってました。

 そう言わんばかりにジャーヴィスの瞳に鋭さが増した。


「ええ。ぜひお願いしたいことがあります。それは……」





 この後、艦長室に呼ばれた航海長シルフィードとクラウスは、シャインから1時間説教を受けた後、懲罰の内容を言い渡された。


「君達には反省文を書く事と、ロワールハイネス号の清掃を命じる。1週間で船首の舳先から船尾の甲板まで。下甲板の備品室、食堂、大船室、士官食堂、副長室および艦長室の全船室、最下層の船倉までぴかぴかにしてもらう」


「……」

「……」


 シルフィードとクラウスが、互いの顔を見合わせて絶句したのは言うまでもない。

 ついでに彼等がさぼらないよう、ジャーヴィスがしっかり監督していたことも付け加えるまでもない。


 朝日が昇ると同時にシルフィードとクラウスはデッキブラシを握って、メインマストの前で腕組みをしているジャーヴィスの所へ整列する。


「さあ! 今日も船と己の醜い心をきれいにするため張り切って掃除をしよう!」

「……はい」

「……へーい」

「何だ、そのやる気のない返事は! 掃除は楽しいぞ! 船全体の掃除が終わる頃には、お前達もきっと生まれ変わったようにすがすがしい気持ちになる! 必ずだ!」

 


「……副長、絶対根に持ってるぜ。俺が航海服を汚して海に捨てた事」


 砂をまいた甲板をごしごしとデッキブラシでこすりながら、シルフィードはつぶやいた。その隣でクラウスがうなずく。


「艦長もお気に入りのカップを僕が割った事、きっと本当は怒ってるんだ。だから、こんな酷い罰を与えたんだよ……うう……」

「こら! シルフィード、クラウス! 口を動かさないで手を動かせ!」


 ばしゃーーん!


「ぷはぁっ!!」


 ジャーヴィスが海水を二人の脳天めがけてぶちまけた。


「次、持ってこい」

「はい!」


 水兵のエリックが海水を満たした桶をジャーヴィスに手渡す。


「うわぁ! 真面目に掃除するから、勘弁して下さいよ、副長~!!」


 シルフィードがたまらず驚異的なスピードで甲板を擦る。



「いい懲罰考えたじゃない。シャイン」


 ロワールは潮風に鮮やかな紅の髪を舞わせながら、舵輪の前の後部甲板の手すりにもたれているシャインに寄り添った。


「こういうことにかけては、ジャーヴィス副長は手抜きを見逃さないからね。アスラトルへ帰港する頃にはとってもきれいになるよ、ロワール」

「うふっ。うれしい」


「今日も元気だ。掃除の後の食事は旨い! 復唱だ。シルフィード、クラウス!」

「「今日も元気だ! 掃除の、後の、食事は旨い! きーっ!」」


 一人楽しそうなジャーヴィスのはつらつとした声と、半ばやけを起こしている哀れな懲罰者たちの悲鳴が、ロワールハイネス号の甲板にいつまでも響き渡っていた。



  ―完―

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