岬け家訓第80条『後にも先にも後悔立たず』

 ぱちり、と目を覚ます。

 うーん、なんだか記憶があいまいだ。

 それまであった、からだと頭の重さみたいなのはすっかりなくなっていて、体調はすこぶるいいんだけど、なにか大切なものが抜け落ちてしまったような……ううん、気のせいだろう。

 で、ここはどこだろう。

「うわっと!」

 起きあがってみようとすると、からだがふわりと宙に浮いた。

 いや、それより前から、わたしは宙に浮かんだまま気を失っていたらしい。

 ここは……言い方はむずかしいけど、滝のとちゅうみたいだった。

 ぴかぴかと光る水のようなものが、すごい量と勢いで、だけどなんの音も出さず、ずーっと下まで流れ落ちていく。

 下は……見えない。

 どこまでもどこまでも、滝がつづいている。

 私はその光の滝を直接浴びない場所で、目を覚ました。

「おめでとう。さあ、最後まで見ておいきなさい」

 いきなりとなりから、聞き覚えのある声……だけど、聞いたことのないていねいな口調で声をかけられ、わたしはびっくりして、一気にびゅーんと浮き上がった。

「レーコさん!?」

 わたしのとなり……今は下のほうにいたのは、レーコさんだった。

 服装も、こわいくらいにきれいな顔も、長い髪も、レーコさんとまったく同じ。

 だけど、いつものちょっと乱暴で、テキトーな感じの話し方ではない。

「たしかにこのアバターは、岬令子れいこの姿ですけれど、あなたとお会いするのは今日がはじめてですよ。いえ、それより前から、あなたとわたしは、つながっていましたけどね」

 ふふふ……とお上品に笑うレーコさん(?)。

 いや、この笑いかた、絶対にレーコさんじゃない。

 レーコさんなら、悪役みたいに「グワハハハハ!」とか笑うもん。

「あなたは……?」

「わたしはこの世にうがたれた穴を管理するためのアバター。そうですね、呼び方が必要でしたら、アナ……とでも名乗っておきましょうか」

 そう言って、偽レーコさん……あらためアナさんは、またお上品に笑う。

「ここは、どこですか?」

「あなたが入った、この世にうがたれた穴の中です」

 わたしが入った……?

 ぐちゃぐちゃになっている記憶を必死に思い出す。

 そうだ……わたしは、三階から飛び降りて、そのまま校庭にあいた黒い穴の中に入っていったんだ。

 でも、どうして?

 いくらわたしでも、そんな危ないことはしでかさない。

 そこでわたしは、ゴーナの言葉を思い出す。

 …………

『ぜんぶを知って、理解してしまったら、その時点で、優依くんはただ目的を果たすためだけの道具と化してしまう……って言っても、信じられないだろうけどさ』

 …………

 たしかに、わたしの意識は、蒼馬先輩の話のとちゅうから、どんどんうすれていった。

 ただの道具みたいに、あの穴の中に入るためだけに、行動していた……今となっては、とても信じられないけど、あのときのわたしは、まちがいなく、それが正しいとだけ信じこんでいた。

 レーコさんはきっと、わたしがああなってしまうと、知っていたんだ。

 だから、必死に止めようとした。

 なにも、話さなかった。

 せめて、もっと話しておけば。

 その意図を、きちんと理解しようとしていれば。

 でも、岬け家訓第80条『後にも先にも後悔立たず』だ……。

 ばちん! と頭の中でなにかがはじける感覚が走る。

 なんだ……?

 わたしは、家訓を頭の中でとなえただけなのに。

「呪言を思い浮かべることは、あまりおすすめしません」

 アナさんはわたしより下の位置で浮かんで……というより、すっと立ったまま、ほほえんでいる。

「あなたはすでに完成しています。潜伏した呪言の再生は、この場における、あなたという個人存在の活動時間を、消費することになります」

 な、なに言ってるの? このひと。

 全っ然、意味がわからない。

「あの穴って、いったいなんなの?」

 なので、ここはまず、目先の疑問から解消していくことにする。

 岬け家訓第71条『質問はゆっくりひとつずつ』……ばちん!

 また頭の中でなにかがはじけて、くらっとくるけど、今はかまっていられない。

「この世にうがたれた穴。世界の中心へと流れ落ちる、願望の滝です」

「わかるように、話してくれない?」

「そうですね。この穴に落ちるひとびとの願いが、世界の中心へと達したとき、この世すべての願い事がかなうのです」

 言ってることが、めちゃくちゃだ。

 岬け家訓第108条『願いは弱さにかなわない』……ばちん!

 アナさんの言っていることが本当だとして、願い事がすべてかなうなんてことが起きたら、世界はめちゃくちゃになるに決まっている。

 あるひとが願ったことと、反対のことを願ったひとがいたら、どうなる?

 すべてのひとの願いがかなうなんてことは、絶対に起こらないし、もし起これば、とてもゆがんだ結果しか生まないだろう。

 それに、願い事っていうのは、なにも正しいことや、いいことばかりではない。

 ねたみだったり、憎しみだったりだって、強く強く思っているひとはいる。それだって、立派じゃないかもしれないけど、願い事であることには変わりない。

 それらがぜんぶかなってしまったら……それはもう呪いだ。

 あいいれない願いと願いの衝突だって、生まれるのはきっと、呪いでしかない。

「止めないと!」

 わたしが宙にふんばると、アナさんはきょとんと首をかしげた。

「おかしなことを言いますね。この滝は、あなたによって流れはじめたんですよ?」

 わたし?

 いや……そうだ。そうだった。

 わたしが穴の中に入ったから……わたしはここにいて、この光景が起こっている。

 それはわたし自身の意思ではなかった、なんて言い訳は、ここではするだけムダだ。

 でも、だったら!

「わたしなら、止められるんじゃないの?」

「そうですね……あなたがこの滝を登りきり、穴の外に出られれば、可能かもしれません」

 よし! と上を見上げるわたし……だったけど、目に映ったのは、どこまでもつづく、滝の流れだけだった。

 おかしなことに、上を見上げて、足がすくんでしまった。

 追い打ちをかけるように、アナさんが言う。

「ですが、『器』としての役割を終え、穴に落ちたあなたは、個人としての存在の意味を失いました」

 アナさんが、気づくと目の前に立っていた。

「依童よ。最後の役目です。その姿と人格を、わが――――(聞き取れない)のアバターとしてささげなさい」

 アナさんがわたしに手をかざす。

「え、え、え?」

 わたしのからだが、ひもがほどけるみたいに、ゆっくりとバラバラになっていく。

 また……意識がうすれていく。

 だけど、同じ手は食わない!

 空手の先生、ごめんなさい!

 岬優依、約束をいちどだけ、破ります!

 わたしはバラバラになりつつあるからだ全体に力をこめ、うすれていく意識を必死に集中させた。

 そして、研ぎ澄まされた正拳突きを、目の前のアナさんに、放つ!

「おかしなことをしますね」

 わたしの渾身の一撃は、たしかにアナさんの腹部にめりこんでいた。

 だけど……めりこみすぎていた。

 アナさんのからだと溶け合うように、わたしのひじから先は、アナさんのお腹にのみこまれていた。

 危険だと思って腕をぬこうとすると、腕の動きにひっぱられてアナさんのからだまでついてくる。

 わたしのひじから先が、アナさんと一体化してしまった……?

「あなたはわたしと同じです。この穴にささげられたいけにえ。――――の言葉を伝えるための依童。わかるでしょう?」

 やめろ……!

 わかりたくなんてない!

 なのに、どんどんどんどん、わたしの中には洪水のように、――――が流れこんでくる。

 だめだ……これは、わかっちゃいけない!

 わかっちゃったら、もどれなくなる!

「さあ、すぐに楽になります。ふるへ ゆらゆらと ふるへ」

 ふるへ ゆらゆら ふるへ ゆら

 やめろ! わたしの中に、入ってくるな!

 でも、もう、あまり長くは、もちそうにない。

 気分が悪くないことが、こわい。

 なのになにも恐怖を感じないことが、こわい。

 もう、たすけてって、声をあげることさえ、できないかもしれない。

 だけど、もし、わたしを守ってくれるなら。

 わたしは、ずっと、信じてるから。

 だから!

「……けて……」

 限界……でも、最後の悪あがきくらい、ド派手に、やってやる!

「たすけて! レーコさん!」

 風を切る音。

 長い髪と、スカートをはためかせ、だけど華麗に。

 上空から、急降下キックが、炸裂する!

「やーっと! つながった!」

 アナさんを蹴り飛ばし、さっそうとわたしの前に舞い降りた、死神。

 アナさんとまったく同じ姿をしているけど、その立ち振る舞いはなんだかいい加減で、あまりお上品とは言えない。

 わたしの知っている、わたしの信じている、わたしの、死神。

「レーコさん!」

「おう、優依。今はとにかく、ここを出るぞ! 急がないと、おまえにつながった『縁』が切れちゃうからな!」

「レーコさん、わたし……わたし……」

「話は逃げながらだ! しっかりつかまれよー!」

 わたしをぎゅっと抱きしめて、レーコさんは滝の流れ落ちる上へと飛び上がった。

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