5-5

 始まりには何もなかった

 明るくもなく、暗くもなく

 白でも黒でもない

 生きているのか、死んでいるのか

 動いているのか、止まっているのか


 全て何も意味がない

 ここでは何も意味を持たない

 無の世界

 そこに産まれたものが 混沌カオス

 カオスから天地は創造された

―――――――――――――――――――


11月16日(Mon)午後4時


 風が冷たい。これは冬の風だ。

明鏡大学の敷地内の小道を歩いて浅丘美月は図書館に入った。暖房が効いていて館内は暖かい。

ロビーの館内表示で目的の階を確認して彼女は階段で二階に上がった。


 今日のギリシャ神話と人間心理学の講義も何事もなく終わった。何事もなく、そんなことは当たり前だ。

担当教諭の三浦英司はただの非常勤講師。だが、彼を見ていると美月の心の危険信号が点滅を始める。


理由はわかっている。彼が、あの人に似ているからだ。たったそれだけで美月にとって三浦は要注意人物になった。


 ギリシャ神話と人間心理学の講義を受けて以降、ずっと頭の片隅に残って離れない疑問がある。それを解消する糸口を探していた。

何かがわかれば自分が納得するとも思えない。でもこのモヤモヤとした気持ちの悪さだけはどうにか捨ててしまいたかった。

インターネットで検索して調べる手段も考えたが、古くからの文献を図書館で探して読む方が本好きの美月には合っている。


 二階のフロアで分野別に並べられた棚から天文学の分野の書棚を見つけた。書棚と書棚の間の通路に入った美月の歩みが止まる。

前方に三浦英司が立っていた。彼は棚から本を引き抜いてその場でページをめくっていた。

ここは明鏡大の図書館、明鏡大の非常勤講師の三浦がここに居ても不思議ではない。しかし、よりによって彼は美月が目的としている天文学の棚の前にいた。


 三浦が別の本に手を伸ばした時に通路にいる美月と目が合った。その瞬間から美月の心の警告音が鳴り始める。


 彼は美月を見ると最初は驚いたようだった。やがて穏やかな微笑みに切り替わり、耳に残る低いトーンの声が聞こえた。


『調べもの?』

「……はい」


通路を進んだ美月は彼と背中合わせの状態になった。


「三浦先生にお尋ねしたいことがあります」

『何かな?』

「ヘシオドスの唱えたカオスとは宇宙の起源のことですよね」


館内で大きな声は出せない。小声で呟く美月の言葉には強い重みが含まれていた。


 この男に抱えていた疑問の答えを聞いてみようと思った動機は不明だった。でも三浦ならば何か答えを知っているかもしれない、そんな予感がした。


 彼はじっと美月を見ている。

三浦英司という架空の人間を演じている佐藤瞬は彼女の質問の意図を理解した。彼は三浦の声で答える。


『ヘシオドスの神統記しんとうきだね。そうだよ、彼は宇宙の始まりをカオスが生じたと唱えた。カオスから大地のガイア、冥界のタルタロス、愛のエロスが生まれた。それが後々のギリシャ神話の始まりとして語り継がれていくことになる』

「すべてはカオスから始まった……と言うことですよね」

『“カオス”に興味があるのか?』


 宇宙論でもない、ギリシャ神話でもない、もうひとつのカオスを美月は知っている。

憂いのある彼女の横顔に成長を感じた。確実に美月は大人に近付いている。


「もしもの話なんですけど……カオスと呼ばれる組織があったとして、その組織の人達は何を目的にしていると思いますか?」


3年前と同じ、汚れのない真っ直ぐな瞳が彼を見ていた。美月らしい素直な質問だと彼は思う。


『仮にその組織の人間の目的を知ったとして、君はどうする?』

「わかりません。自分がどうしたいのかも、どうすればいいのかも。でもカオスって何なのかなって……どうしてカオスなのかそれが知りたくて……すみません。先生にこんなお話しても意味がわかりませんよね」


 美月はかぶりを振ってうつむいた。彼は手持ちぶさたに手に持つ本のページをめくり、まったく頭に入らない文字を目で追いかけながら口を開く。


『俺が君の質問で感じたのは……天地創造かな』

「天地創造? 創世記のですか?」

『ああ。新世界を創る……目的は大方、そんなところだろう』


 自分が“カオス”の人間でなかったのなら彼はどう答えていただろう。流し読みした本を棚に戻して彼は美月を見た。

無意識に手が伸びて彼女の頭に優しく触れる。


 数秒間、美月と彼は見つめ合った。

小さく息を吸った彼女の表情は驚いているようでもあり、悲しんでいるようでもあり、見開いた目の奥が潤んでいた。


         *


(誰? この人は誰?)

(嫌、嫌、嫌、そんな瞳で私を見ないで)

(あの人と同じ瞳で私を見ないで)

(壊れちゃうから)


 それは残像 それは錯覚


 ――“お前の笑顔が俺は一番好きなんだ”――

懐かしくて愛しいあの人の声が心の奥で響く


 それは幻聴 それは幻想


何故、彼女は泣いている?

頭の上が温かい。置かれた大きな手のひら

とても気持ちいい、安心する

あの人と同じ感覚を持つこの人は誰?


         *


 彼は涙を流す美月の肩を引き寄せた。華奢な彼女の肩から背中に腕を回し、細い身体を強く優しく抱き締める。


ずっとこのままこうしていられたら、どんなにいいだろう。

このまま美月に正体を明かして彼女を連れ去りたい……

だけどそれはできない。

愛しているから、誰よりも大切な君だから、君の人生を壊したくない。


 すべてが3年前と同じ。

3年前と違うのは、佐藤瞬はもういない。

ここにいるのは佐藤瞬ではなく、三浦英司。


「三浦……先生……?」


 彼の行動に戸惑う美月が腕の中から顔を上げた。表情から読み取れる感情は戸惑いと驚き。

薄く開いた血色のいい彼女の唇に吸い寄せられそうになる。寸前のところで理性を保って、彼は微笑んだ。


『気をつけて帰りなさい』


 腕に閉じ込めた美月を解放した彼は彼女の横をすり抜けて足早に階段を降りた。一度も振り返らずにロビーを横切って図書館を出る。

暖房の効いた図書館から北風の吹く屋外へ。この寒さが加熱した心を冷やすにはちょうどよかった。


美月に気付かれないように振る舞っていたつもりだった。それなのに抱き締めてしまった。


『結局俺は美月を泣かせることしかできないな』


 力無く呟いた声は佐藤瞬のもの。どんなに別人に成り済ましても、美月だけは欺けない。


         *


 三浦に扮した佐藤瞬が立ち去った通路に美月は立ち尽くしていた。三浦と佐藤が重なったあの時、美月の目の前には佐藤瞬の幻が現れていた。

わからない、わからない。

三浦英司は三浦英司だ。佐藤瞬であるはずがない。


頭の中で彼の低い声がこだまする。


 消えた彼が残したものはあの夏の残像

消えた残像を美月は探す

もう見つからない

季節は冬、あの夏の残像はもうどこにもいない

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