3-2
ここのところ毎朝、寝覚めが悪い。今朝の目覚めも最悪だった。頭が鉛のように重く、痛い。
雨の音が聴こえた。視線を泳がせると見慣れないピンク色のカーテンが目に入る。
(ここはどこだ……?)
早河仁はまだ覚醒しきらない頭を必死に働かせた。昨夜の行動を思い返してみる。
昨日の夕方、矢野が事務所に来た時にはすでに酒を呷ってしたたかに酔っていた。
その後に香澄から連絡を受けて……
(ああ、そうだ。香澄に会いに店に行って、話を聞いて……それからどうしたんだ?)
「……んー……」
隣で誰かの息遣いが聞こえて嫌な予感が脳裏をかすめた。そう言えば身体の左側がなにやら温かく、柔らかいものに触れている。
早河は怖々と左側に視線を向けた。
『……なんでこうなってんだよ』
稲本香澄が早河に寄り添って眠っている。溜息と独り言を繰り返して彼はベッドの中を覗き見る。一応、衣服を身につけていた。
あどけない顔で寝息を立てる香澄もふわふわとした素材のパジャマを着ている。
二人共に服を着ていたことで、一瞬よぎった恐ろしい予感は少しずつ消えていく。
(何も……なかったよな?)
身体に残留する
(ここは香澄の家か……。ホテルじゃないだけまだマシだよな)
もしもここがホテルのベッドであったのなら、早河は身の潔白を信じられず、己をいつまでも疑っていただろう。寝ている香澄を起こさないようにベッドを這い出た。
とりあえず思考をクリアにするために煙草が吸いたかった。
一緒に入っていた携帯電話で日時を確認すると、あと数分で11月10日の午前7時を迎えるところだった。
携帯の充電は残り40%を切っている。
ピンク色のカーテンが引かれた窓辺にもたれて座り、煙草をふかす。彼は香澄が早河のジャケットやコートをハンガーにかけたことに感心していた。
他人が聞けばそんなこと小学生でもできると思うかもしれない。でも早河と香澄の出会いを考えればこの行動には彼女の成長が窺えた。
(あのどうしようもない不良娘だった香澄がこんな気遣いできるようになるとはね)
香澄との出会いは早河が新宿西警察署の刑事をしていた6年前。
早河が薬物所持と使用の現行犯で逮捕したチンピラ崩れの男と交際していたのが当時16歳だった香澄だ。香澄も薬物使用の疑いがあったが彼女は容疑を否認、尿検査でも薬物反応は認められなかった。
だが捜査本部は香澄の薬物使用を最後まで疑っていた。家出をして高校も行かずに男と遊び歩き、髪を派手な金色に染めた香澄の言い分を信じる刑事は早河を除いては誰一人いなかった。
早河だけは香澄の無実を信じて、彼女に定時制高校や職場を紹介して面倒を見てきた。
香澄は早河の助力と彼女自身の努力で定時制高校を卒業後は小料理屋で働いている。職場の小料理屋も早河が紹介した店だ。
香澄は早河によくなついていた。家族と精神的に距離のある彼女は早河を実の兄のように慕っている。
香澄が早河を兄と慕うなら、早河にとって香澄は妹のような存在だ。
早河が刑事を辞めて探偵になった際も、香澄は自分にできることなら何でもすると言ってくれた。
香澄には昔のツテで夜の世界の知り合いが多く、顔も広い。情報収集を頼む相手には適任だった。
危険なことはさせられなくとも、香澄が掴んでくれた情報は大いに役立つ。昨年12月に高山有紗の家出捜索依頼を受けた時も、有紗の居所の情報を提供してくれたのは香澄だった。
「……ぁ……仁くん。おはよぉ」
『おはよ』
寝起きでとろんとした目をこすって香澄は起き上がった。ベッドを降りた香澄は早河の隣に体育座りする。
「昨日、うちのお店で飲んでてすごい酔ってたから、べろべろの酔っぱらいの仁くんをここまで運んでくるの大変だったんだよぉ」
『あー……悪い。そうだよな。お前の店で飲んでて……うん、そこまでは覚えてるんだけど、なぁ香澄』
「なぁに?」
早河は香澄が差し出してくれた灰皿に灰を落として溜息をついた。
『その……俺さ、お前に手を出したりしてないよな?』
気まずく煙草を咥えて香澄から目をそらす。途端に彼女が早河の膝の上に跨がって抱き付いた。
『香澄? おい、危ねぇ……煙草が……』
「何もなかったよ」
煙草を床に落としそうになって慌てる早河の耳元で香澄が囁いた。
『はぁ。そっか、それならいいんだ』
「よくない!」
『は?』
「私はいつでもいいのに……。酔っぱらって襲いかかってきたって仁くんになら私、襲われてもいいのに」
香澄の声は消え入りそうに小さい。
早河は床に置いた灰皿に煙草を捨てて、胸元にいる香澄の顔を覗き見た。化粧をしていない素顔の香澄の目から涙が流れていた。
彼女の目から溢れる涙を指で拭ってやる。
『これってごめんと謝るべき? お前と何もなかったって聞いて俺はホッとしてるんだけど』
「もう! 変な人。女の部屋に来て女と一緒に朝まで寝てたのに何もなかったって聞いたら普通は惜しいことしたって思うでしょっ」
口を尖らせた香澄が不満げに早河の頬をつねる。彼はつねられた痛みに顔をしかめた。
『痛っ……。しょうがねぇだろ。香澄は妹みたいなもんなんだから』
「妹ね。仁くんって、さらっと酷いこと言うよね」
彼女は着ていたパジャマのボタンを外し始めた。香澄の腕を抜けたパジャマが床に落ち、下着姿を晒す。
『……何してんの?』
「その気にさせたくて……」
香澄の手が早河の腰に巻かれたベルトの金具を外す。その手は小刻みに震えていた。ズボンの上から早河の下半身に触れる香澄の手を彼は掴んだ。
『香澄、止めとけ』
「だって……こうでもしないと私のこと女として見ないでしょ。ね、私としよ? 仁くんがしてほしいこと何でもするから」
『香澄』
早河はパジャマを香澄に羽織らせ、そのまま彼女を優しく抱き締める。
『ごめんな』
「……どんな意味での“ごめん”?」
『色んな意味でのごめん。知らない間にお前を傷付けていたんだな」
「好き、だったんだから。ずっと……。仁くんに彼女ができるたびに私は泣いていたんだよ?」
『うん、ごめん。……ありがとな』
香澄は涙を溜める目を伏せて早河の胸元に寄り添った。いつでも受け入れてくれる温かなこの胸元が彼女は大好きだった。
「仁くん、好きな人いるの?」
『……いるよ』
少しの間の後に彼は答える。香澄が見上げた早河の顔は穏やかで優しかった。心がきゅっと痛くなる。
「好きな人ってどんな人?」
『そうだな……面倒くさい女かな』
「えー。それだけじゃわかんないよぉ」
『ははっ。だよな。一度言い出したら聞かない、頑固で泣き虫な俺の助手だよ』
「仁くんの助手って……香道さんの……?」
『そう。香道さんの妹。俺が好きになる資格のない……好きになっちゃいけない相手だ』
何も言えない香澄は哀しげに早河を見返した。早河は香澄の頭をポンポンと撫でて微笑する。
『腹減ったな。この辺で飯食えるとこある?』
「近くにファミレスならあるよ」
『じゃそこで朝飯食って帰るかな。香澄も一緒に行くか?』
「行く! すぐに支度するから待っててね」
香澄が身仕度を整えている間、早河は手帳を開いた。矢野や香澄の働きのおかげでかなりの情報が集まった。
あと必要なものは決定的な証拠。
慎重に事を運ばなければ負け戦になる。これはカオスとの頭脳戦。
カオスを確実に追い込むにはまだ時間が欲しい。
だが早河は気付いていなかった。ケルベロスが早河を陥れるため、ひっそり影を潜めてこちらへ足を忍ばせていることに。
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