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11月9日(Mon)


 朝なのかそれともまだ夜なのか、どちらの単語を使うのが適切なのかわからないこの時間帯の街を小山真紀はコートのポケットに両手を入れて早足に進んだ。

今では馴染みとなった車が暗闇に浮かんでいる。公園の脇に停められた車の助手席の扉を彼女は開けた。


『おっはよー』


 恋人の矢野一輝の明るい笑顔に出迎えられる。そこだけが朝日に照らされたみたいな暖かさに満ちていて真紀は運転席にいる矢野の胸に飛び込んだ。


「……おはよ」

『おお、どうした? 今日は甘えん坊だな』


矢野はすり寄る真紀の頭を撫でて、布地の袋を真紀の前にちらつかせる。


『ほぉーら。朝飯。真紀の好きなだし巻き玉子入ってるよ』

「やった! 一輝のだし巻き玉子好きなんだよねぇ」


 矢野から渡された布地の袋には二段の弁当箱が入っていた。真紀は助手席に座り直して膝の上に置いた弁当箱の蓋を開く。

上の段にはラップに包まれたおにぎり、下の段にはおかずがぎっしり詰まっている。すべて矢野の手作りだ。


「いただきます」

『どうぞ、召し上がれ』


水筒のコップに注いだお茶からは湯気が昇る。真紀は両手でコップを受け取った。


「ありがと。……うん! 美味しい。こんな美味しいだし巻き玉子作れる人、なかなかいないよ。一輝はいい奥さんになりそう」

『それ性別違うだろ。“いい旦那さん”の間違い』


だし巻き玉子をもぐもぐと頬張る真紀の隣で矢野が笑った。犬の散歩をする老人が車の横を通り過ぎるのが窓越しに見える。


『自販機でコーヒー買ってくるから待っててな』

「うん」


 車を降りた矢野は冷たい風に身を竦めて公園の角の先にある自販機を目指した。真紀にはコーヒーを買いに行くと告げたが彼の目的はコーヒーではない。


日の出までまだ1時間はある。道に設置された街灯の明るさだけが光源だ。公園の角を曲がった矢野はその人物と対面した。


『俺が来るってわかってて逃げないとはね。あんたいい度胸してるよ』


 自販機の横の電柱に身を潜める男は矢野の言葉で一歩前に進み出た。矢野の前に出てきた男はまだ若く、矢野や早河と同年代に見える。

長めの前髪からは切れ長の瞳が覗いていた。矢野の知らない顔だ。


『お前、ずっと真紀の後をつけていただろ。真紀は気付いちゃいなかっただろうが……』

『対象者に気付かれていないのならそれで充分だ』


男はスーツの上にモスグリーンのコートを羽織っていた。


『真紀を尾行してどういうつもりだ?』

『尾行じゃなく監視だ』


 男はスーツの胸ポケットからある物を出して矢野に見せる。それはこの国の治安維持のために働く公務員の証。真紀も同じ物を持っている。

矢野は男が掲げた警察手帳の証明写真と目の前の男の顔を交互に見た。


『あんた刑事だったのか』

『警視庁公安部の栗山だ』


 栗山潤は警察手帳を胸ポケットに戻した。矢野は栗山をねめつける。


『尾行も監視も似たようなものだろ。俺が聞きたいのはなんで真紀が公安の人間の監視対象にされてるのかだ』

『早河元刑事が逮捕した前科者を狙った一連の殺人に使用された銃について情報屋のお前はどこまで掴んでいる?』

『銃弾は9ミリパラベラム弾、使用拳銃はベレッタの説が濃厚なんだろ? ベレッタはカオス幹部の皆様の愛用銃らしいし、6月に解体された高瀬組からの押収品でもある。そしてその押収品の銃が和田組に流れている……ってことを言いたいのか?』


栗山はかすかに笑った。


『そこまで掴んでいるなら話が早い。高瀬組から押収した銃が和田組に流れている。和田組はカオスと通じている組だ。今回使用された銃はその銃と同型の可能性が出ている』

『つまり公安が警察の内部調査をしているってことだな? 警察の中にいる裏切り者を見つけるために』

『警察内部に和田組とカオスと繋がっている人間がいるのは確かだ。矢野一輝、お前が話が通じる奴だと見込んで忠告しておく。俺の仕事の邪魔はしないでもらいたい』

『あんたの仕事の邪魔はしねぇよ。ただ残念だが、あんた達が探している裏切り者は真紀じゃない』


 矢野は自販機に小銭を入れてコーヒーのボタンを押す。ガチャンと音を立てて下に落ちた缶コーヒーを取り出す前に彼は再びコイン投入口に小銭を入れた。


『どうして小山刑事が裏切り者でないと言い切れる? 自分の女だからか?』

『へぇ。公安の刑事さんは誰と誰が付き合ってるのかも把握してるのかよ。そりゃあ俺の女だから真紀はこの世で一番いい女に決まってるけど?』


矢野は口元を上げてカフェオレのボタンを押した。最初に押したボタンから出てきた物は矢野の分のブラックコーヒー、このカフェオレは真紀の分だ。


『でも理由はそれじゃない。真紀は刑事の仕事に誇りを持ってる。あいつは刑事である自分を裏切ることは絶対にしない』


カフェオレの缶が受け取り口に落ちた。矢野は身体を屈めて二つの温かい缶を取り出す。


『それに真紀を監視するならお門違いだぜ。公安もまだまだだねぇ』

『何?』


 栗山の長めの前髪の奥の額に青筋が立つ。矢野はコートの両ポケットに缶コーヒーを押し込むと栗山のモスグリーンのコートの襟を掴んだ。

自分よりも幾分上背のある栗山を彼は乱暴に引き寄せ、怒りを含んだ声で告げた。


『もう一度言うが、裏切り者は真紀じゃない。あんた達が追うべき相手は……』


その先の言葉を言い終えた矢野は掴んでいた栗山の襟を離す。

栗山は矢野に乱された襟を直して前髪を掻き上げた。彼は先ほどの矢野の言葉を頭の中で反芻する。


『……今の情報は確かか?』

『ある筋からの有力な情報だ。信用度は五分五分らしいが』

『小山刑事にはこの話は?』

『真紀には言ってねぇよ。今はまだその時じゃない』


矢野は栗山に背を向けて、右側のポケットに入れたカフェオレの缶を握り締めた。

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