5-9

「なぁんだ。全部バレちゃってるのね」


 テレビで見せている愛らしい口調とは一転して寒々しい乃愛の声。乃愛は拳銃のグリップを握り締めてクスクス笑った。


「そうよ。ぜーんぶ私が命令したの。でも私がしたのはそれだけ。私が直接玲夏さんに嫌がらせしたんじゃないから、罪にはならないのよ」

『それは違う。君がしたことは殺人教唆という立派な犯罪だ』


笑っている乃愛を早河は睨み付けた。乃愛には罪の意識の欠片もない。


「殺人教唆ぁ? 私が誰に殺人を命令したって言うの?」

『せっかくだから覚えておいた方がいい。殺人教唆は殺人を犯した実行犯よりも殺人を命じた教唆犯の方が罪が重くなる場合がある。君は津田に速水杏里を操らせて平井透を殺したんだ』


 平井の名前に笑っていた乃愛の顔がひきつった。


『ゆっくり説明してやるよ。矢野ー』

『へーい。準備万端、待ってましたー』


 この場の雰囲気にそぐわない軽快な矢野の声が乃愛の神経を苛立たせる。矢野はキャンプ場の木のテーブルの側に立っていた。テーブルには紙コップが二つ。


『さぁーて、マジシャン矢野くんのマジックの時間ですよー。まぁ、マジックってほどでもないんだけど、乃愛ちゃんいいかな? よぉーく見ててよ。わかりやすいようにこの紙コップにはそれぞれAとBと書いておいたから、これが平井が殺された時の宴会場でのあの湯呑みだと思ってね』


矢野は乃愛によく見えるようにAとBと書かれた二つの紙コップを掲げた。早河が矢野からAの紙コップを受け取る。


『平井はで死んだ。でも彼は自殺じゃない。平井はある人間を殺そうとしていた。彼はAを殺すためにAの席の湯呑みに毒を仕込んだ。そのAとは一ノ瀬蓮』


早河がAのコップをテーブルに置く。今度は矢野がAのコップを手にして言葉を引き継いだ。


『一ノ瀬蓮を殺すための毒で平井は死んだ。何故かって? 答えは簡単。平井の湯呑みBと一ノ瀬蓮の湯呑みAがトレードしちゃったんだな』


矢野がAとBの紙コップの位置を入れ替えた。早河と矢野が目を合わせる。


『ではこの入れ替え工作をしたのは誰か?』

『またまた答えは簡単だ。平井と一ノ瀬蓮の湯呑みを入れ替えたのは津田さん、あんたにリモートコントロールされていた速水杏里だ』


 津田の肩が震えている。乃愛の無表情な顔に狼狽の色が浮かび始めた。


『速水杏里は湯呑みを入れ替えろと言われただけで、それが何の意味を持つかを知らなかった。だから平井が死んだ時、速水杏里は動揺していたよ。まさか自分が殺人の片棒を担いでいるとは思わなかったんだろうね。速水杏里の手でご丁寧に指紋は拭き取られたから平井と一ノ瀬蓮の湯呑みには使用した本人以外の指紋が残っていない状態になったんだな』


矢野は平井が死んだ直後、宴会場で怯えていた杏里の姿を思い出す。あの時の杏里の怯えは尋常じゃなかった。


「あなた達……何者?」

『俺は本庄玲夏に雇われた探偵。矢野は俺の仲間。こっちにいるのは警視庁イチの銃の腕前を持つ小山刑事』

「早河さんそれは誇張しています。……沢木乃愛、銃を離しなさい。あなたと平井が男女の仲だったことは調べがついているのよ」


 小山真紀は拳銃の照準を乃愛の右肩に定めた。乃愛は一歩も動かない。


『平井の家から使用済みのコンドームが見つかった。コンドームに付着していた女の体液のDNAと君が食べたガムから採れたDNAが一致したよ』

「……それが何?」


早河の追い討ちにもまだ乃愛は屈しなかった。


『君と平井に肉体関係があったことは間違いない。そして平井が本庄玲夏に熱烈なファンレターを送っていた張本人だ。手紙を書く時、筆圧が強いと下の紙にまで圧が届いて字の跡がうつってしまうだろう? 平井の自宅から発見された使用前の便箋にも本庄玲夏に届いた手紙の内容と同じものがうつりこんでいた』


 平井の自宅の家宅捜索の際、熱があった早河は先に離脱したが、あの後に真紀が本棚の本に紛れていた便箋を見つけ出した。筆圧の強い文字の痕跡は鉛筆でこすれば浮き出てくる。

浮かび上がった文字はわざと書体を崩した文字の〈殺しにいく〉だった。


「だから……それが何だって言うの? 玲夏さんにファンレターを書いたのが平井さんだったとしても、私には関係ないっ!」

『君は犬を飼ってるだろ。君のブログにもよく登場するトイプードル。俺も昔、近所の犬を世話したことがあるからわかるが、動物の毛って一度服につくと取れないよな』

「何なの? 言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ!」


 早河の話の意図がわからず、苛立ちが最高潮に達した乃愛は声を荒くした。乃愛の豹変に驚いた津田が短い悲鳴を上げる。


『じゃあハッキリ言おう。本庄玲夏に送られた脅迫の手紙に犬の毛が付いてたんだ。その手紙に触れた玲夏や彼女のマネージャー、事務所の社長もみんな犬は飼っていない。犬の毛は手紙を開封した時に付いたものではなく、手紙の送り主の服に付いていたものが封筒に入り込んだと考えられる。だが、あの手紙の差出人の平井は犬を飼っていなかった』


乃愛は無言で早河を睨んでいる。早河は乃愛の沈黙にかまわず話を続けた。


『君が俺の助手に犬の話をしてくれたおかげでピンと来た。手紙に付いていた犬の毛はトイプードルのものじゃないかとね。ペットショップで君が飼っているトイプードルと同じ種類の犬の毛をもらって鑑定したら大当たりだったよ。ついでに言うと、手紙の便箋には女性用整髪剤の成分も付着していた。君がCMで宣伝している“天使のシャワー”だっけ? そのトリートメントの成分だ。平井が玲夏への脅迫の手紙を作成している時に君もその場にいたんじゃないか?』


 早河が沢木乃愛に目を付けたのは神戸滞在中になぎさが乃愛から聞いた犬の話の報告を受けた時からだ。


 乃愛のブログを遡れば、彼女が自分がCM宣伝しているヘアトリートメント、“天使のシャワー”を日常的に愛用していることや、コンビニスイーツの“イチゴのミルフィーユアイス”が好物なことも書いてあった。


6月7日更新の乃愛のブログ記事にもミルフィーユアイスの写真が掲載されていた。平井が6月7日にコンビニで購入したレシートの品と一致する。

平井の自宅から押収したミルフィーユアイスの容器からも乃愛のDNAが採取できた。


「……ふふっ。まさかチョコラの毛がついていたなんて。全然気付かなかったなぁ」

『津田と平井、速水杏里を操って本庄玲夏に嫌がらせをしていたことを認めるんだな?』

「ええ。探偵さん。あなたの言う通りよ」


 乃愛の無邪気な笑顔に早河は背筋が寒くなった。こんな状況でそんな風に屈託なく笑える乃愛はまともな精神ではない。


『平井を殺したのも君だな?』

「殺したぁ? 乃愛は津田と平井に命令しただけで何もしてない。津田も平井もね、乃愛の奴隷なのよ。ちょっと可愛く甘えて身体を与えてやれば乃愛のために何でもしてくれる便利な奴隷。男って、若くて可愛い女が好きでしょ?」


腰を抜かして地面に座り込む津田を乃愛は冷めた目で見下ろしていた。


「だけどこのクズ男も平井も速水杏里も、みーんな役立たずねぇ。結局バレちゃって、乃愛のキラキラな計画が台無し」

『何がキラキラな計画だ。無関係な速水杏里の弱味に漬け込んで彼女に殺人の片棒担がせて、最後は君自身がその拳銃で津田を殺して殺人犯になろうとしていたんだぞ』

「殺人は平井が勝手にやったことよ。平井は玲夏さんを手に入れるために蓮さんを殺そうとした。だから逆にそれを利用して殺してやったの。バカな奴」

『やはり狙いは一ノ瀬蓮だな?』


 拳銃を握る乃愛の手が震えていた。雨の匂いのする湿った風が乃愛の髪をなびかせる。


「乃愛には蓮さんしかいないから……。蓮さんを手に入れるためなら殺人でもなんでもするわ」

『一ノ瀬蓮を手に入れるためだけに、玲夏や自分の所属事務所に嫌がらせをして、あげくに速水杏里に玲夏を殺させようとしたのか?』


込み上げる怒りを抑えていても、速水杏里にやらせた玲夏の殺人未遂が早河の頭に血を上らせている。


「だって邪魔なんだもん。玲夏さん、いつも蓮さんの側にいて蓮さんに守られて当然って顔して……。玲夏さんが生きてる限り、蓮さんは乃愛のものにはならない。玲夏さんには死んでもらうしかなかったの」


 乃愛の言い分はあまりにも子供じみていた。今年ハタチを迎える彼女だが、中身はワガママな子供だ。


『玲夏を殺したところで一ノ瀬蓮は君のものにはならない。もし彼が君を受け入れたとしても心までは手に入らないだろう』

「それでもいい。心が手に入らなくても、心のない人形でもいいから蓮さんが欲しかった。乃愛だけを見て、乃愛の側にいてほしかった」

「……あなたの気持ち、私にはわかるよ。私もあなたと同じ事を思った経験がある」


 乃愛を威嚇し続ける真紀が優しく語りかける。乃愛は早河から真紀に視線を移した。


「好きな人が振り向いてくれないのは辛いよね。心は手に入らなくても彼の側にいたい気持ちわかるよ。でもね、心がないと虚しいだけよ。好きな人が想っている人は自分ではないと思い知って傷付くだけ。何も手に入れることはできないの」


乃愛を諭す真紀を矢野は見つめる。真紀が思い浮かべている人物を思い出して、矢野も心が痛んだ。


「何も手に入れることはできない……」


 真紀の言葉を繰り返した乃愛の瞳から涙が落ちる。力無く下げた手から拳銃が滑り落ちて地面に落下した。

威嚇を解いた真紀が乃愛に手錠をかける。


『おっと。津田さん。どこに行くのかな』

『逃がしませんよー』


 腰を抜かしていた津田は逃げ出そうとしたところを早河と矢野に挟み撃ちにされ、無謀にも早河に向かっていった津田の腹部に早河の拳が命中して津田は呆気なく倒された。


        *


 真紀は上司の上野警部に報告の連絡をしている。手錠をかけられてベンチにおとなしく座る乃愛に早河が近付いた。


『聞きたいことがあるんだ。この計画は君がひとりで立てたのか?』


早河を見上げる乃愛は答えるのを迷っているのか目を泳がせている。早河は屈んでベンチにいる乃愛と目線を合わせた。


『拳銃もどうやって入手した? 君がひとりでこの計画を立てたとは思えない。津田や平井以外にも協力者がいるんじゃないか?』

「……ファントム」


乃愛はガストンルルーが書いた有名なゴシック小説に登場する怪人の名前を呟いた。早河の疑念が膨らみを増す。


「この計画はファントムに与えられたの。拳銃もファントムが用意してくれた」

『ファントムとは誰だ?』

「知らない。会ったことないし……やりとりは電話とメールだけだから」


 これ以上聞いても無駄だと判断した早河は乃愛に礼を言って彼女から離れる。話を聞いていた矢野が早河に耳打ちした。


『早河さん、まさかこの事件……』

『ああ。まさかのカオスのご登場かもしれない』


 水滴が額に落ちた。見上げた暗い夜空からパラパラと雨が降ってくる。

雨脚は少しずつ強くなり、立ち尽くす彼らを濡らす。


『……嫌な予感がするな』

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