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 本名を囁かれてゾクリと鳥肌が立った。蓮の端整な口元が意地悪く微笑んでいる。


「どうして私の名前を……」

『社長に聞いた。ちなみに言うとなんで君が玲夏の付き人やってるのかも、君の正体も全部知ってる』


なぎさの頭はパニックに陥っていた。肩にある蓮の手が気になって余計に思考が回らない。


(社長? 社長って吉岡さんのことだよね? あの人、なんで関係者に事情をペラッペラと喋ってるの? これじゃあ潜入にならないじゃない!)


 蓮に連れられてなぎさは廊下を進んだ。相変わらず頭は回らないのに足は動く、人間の仕組みは器用に出来ている。


『安心しなよ。俺は容疑者リストからは外されてるから』

「……はい。吉岡社長も一ノ瀬さんには警戒しなくても良いと仰っていました」

『俺が玲夏や事務所に嫌がらせする理由はないからねー。社長はそれをわかってるんだよ』


 なぎさは一ノ瀬蓮のことをテレビの中だけでしか知らない。彼の人柄のすべてを知らない彼女には、蓮を完全に容疑者から外してしまってもいいのか懐疑的だった。

もしも蓮が嫌がらせの犯人ならばこの潜入調査は水の泡だ。


「失礼を承知でお聞きしますけど、どうして一ノ瀬さんには玲夏さんや事務所に嫌がらせする理由がないんですか?」

『なかなか突っ込んだこと聞くねぇ。じゃあ俺も聞くけど、俺が玲夏や事務所に嫌がらせして得られるメリットは何?』

「それは……」


(確かにそうだ。一ノ瀬蓮が自分の所属事務所の女優や事務所に嫌がらせして得られるメリット? 昔から玲夏さんと一ノ瀬蓮は仲が良いって噂だったし……。そっか、嫌がらせしてメリットがある人物が犯人と考えるともうちょっと絞れる?)


考え込むなぎさを蓮は一瞥した。


『社長はこの業界の育ての親、玲夏とも腐れ縁みたいなものだ。業界では男も女も皆がライバルだけど、玲夏とは長年一緒に育ってきた仲間だからさ』


 そう語る蓮の顔は慈愛に満ちている。彼が嘘をついているとは思えなかった。


『俺がこのドラマに出るのも玲夏のため。俺の役は本当は同じ事務所の別の俳優がやるはずだったんだ。でもあの変な手紙が来たり嫌がらせがあったりで、社長命令で俺に変更したんだ。だから俺の目的もなぎさちゃんと同じ。ほら、着いたよ。玲夏のメイクルームここだろ?』


 二人が立ち止まった場所はメイクルームの扉の前だった。

メイクルームのプレートには本庄玲夏様と書いてある。間違いなく玲夏のメイクルームだ。


「ありがとうございました」

『ここ、なぎさちゃんが迷い込んでた所から近かったんだよ。なぎさちゃんって方向音痴だなぁ。探偵の助手って聞いてたからもっと凄腕のSPみたいな女を想像してた』


蓮が笑っている。さっきから彼に笑われてばかりだ。


「だってテレビ局って広いから……」

『冗談だよ。今度は迷わないようにしっかり覚えておけよー。……おーい、玲夏』


 蓮がメイクルームの扉をノックすると、扉が開いて玲夏が顔を出した。


「なんで蓮となぎさちゃんが一緒にいるの?」

『なぎさちゃんが道に迷っていたからこの優しい優しい一ノ瀬蓮さんが送り届けてあげたんだよ』

「はい……。スタジオからメイクルームまでの道がわからなくなってしまって、通りかかった一ノ瀬さんに連れて来てもらったんです」


恥ずかしくなってうつむくなぎさの肩に玲夏の手が触れた。


「そっか。遅いから心配していたの。蓮に変なことされなかった?」

「特には……」


(変なことはされなかったけどラブシーンの覗き見はしてしまいました……なんて言えない)


『玲夏ー。それだと俺がまるでめちゃくちゃ女たらしのような言い方じゃねぇか?』

「あれー? めちゃくちゃ女たらしじゃなかったの?」

ひどっ。お前のこともたらし込んでやろうか?』

「遠慮しておきまーす」


軽口を叩く玲夏と蓮は仲の良い友達関係に見えた。今の玲夏は早河と一緒にいる時の彼女とは少し違う。


(所長以外の男の人の前だと玲夏さんってこんな感じなんだ)


 友達の前での顔と、昔の恋人の前での顔。

どちらも本当の玲夏の顔なのに、少しだけ、何かが違っていた。


        *


 今までも街でドラマのロケ現場には遭遇した経験があるなぎさだが、あくまでも一般人の領域からであった。関係者のひとりとして撮影現場をこんなに間近で見物するのは初めてだ。


本番前のリハーサルでスタッフが役者の立ち位置、距離感、衣装やメイクのチェックをする。この空気、この緊張感。比べ物にはならないが高校時代に所属していた演劇部の稽古を思い出した。


 クランクインを迎えた本庄玲夏主演の新春放送のスペシャルドラマは人気推理小説家、柏木かしわぎみやこの同名小説が原作のサスペンスドラマ。

タイトルは【黎明れいめいの雨】。


 現在火曜日に放送されている連続ドラマでは刑事役を熱演する玲夏がこのスペシャルドラマで演じるのは妹を殺した殺人の容疑をかけられ、妹の死の真相を追う中学教師の白峰しらみね柚希ゆずき役。

相手役の一ノ瀬蓮は柚希の妹が殺された殺人事件を捜査する刑事、遠山とおやま恭吾きょうご役。


 玲夏も蓮も今日がクランクイン。ヘアメイクの最終チェックを済ませると本番が始まった。スタートの合図と共にカメラが回り、その場の空気を役者が支配する。玲夏は柚希に、蓮は恭吾としてそこに存在していた。

二人が作り出す黎明の雨の世界になぎさは瞬時に引き込まれた。


(いけない、いけない。演技に見入ってしまった。なんのためにスタジオにいるのよ私は!)


 名目は玲夏の付き人。しかし本来の目的は不審な動きをする怪しい人物を見つけ出すこと。この新春スペシャルドラマの撮影チームで吉岡社長が挙げた嫌がらせの容疑者は役者、スタッフ含めて五人いる。


『北澤さん入りまーす』


男性スタッフの声が響いてなぎさはスタジオの入り口に目を向けた。スタッフに連れられて颯爽と現れたのは俳優の北澤愁夜。


容疑者リスト① 北澤愁夜。

28歳、本名非公表。

安定した人気はあるが同年代の一ノ瀬蓮よりは演技力は劣る。ドラマや映画では準主役扱いが多い。

吉岡社長曰く、華のある外見なので芝居よりは顔で売っているアイドル俳優。


【黎明の雨】の役どころは柚希(本庄玲夏)の妹の若菜が通う高校の教師、川村かわむら一樹いつき役。

同年代の一ノ瀬蓮とは周囲からたびたび演技力を比較されるため犬猿の仲と噂されている。


~北澤愁夜が容疑者になる理由~


・蓮に対抗心あり

・過去に玲夏に言い寄って振られたことがある

・2年前までは玲夏や蓮と同じ芸能プロダクション〈エスポワール〉の所属だったが、吉岡社長と仕事への方向性の違いから決別、別の芸能事務所に移籍

北澤は玲夏と蓮、吉岡社長を恨んでいる?


 さらにもうひとり、女性がスタジオに入ってきた。女優の香月真由だ。


容疑者リスト② 香月真由

34歳。本名非公表。

宝塚娘役出身。宝塚出身だけあり、滑舌のいい発声と目力のある演技に定評がある。


【黎明の雨】では恭吾(一ノ瀬蓮)の上司で恭吾の恋人の女性刑事、向井凉子むかい りょうこ役。


~香月真由が容疑者になる理由~


・3年前まではドラマの最多主演女優だったが、最近は出演作に恵まれない

・5年前まで吉岡社長の愛人だった


動機の線では薄いものの、主演作の続く玲夏への嫉妬や元恋人の吉岡への恨みから嫌がらせをしている可能性はある。


(香月真由が吉岡社長の愛人だったことには驚いたけど……それさえなければ香月真由は除外してもいい気もするのよね。でも一応、警戒しないと)


 玲夏に渡す飲み物や食べ物にはすべてなぎさのチェックが入り、さらには北澤や真由の行動に目を光らせなければいけない。

撮影は始まったばかりなのに、なぎさはすでに心身共にくたびれていた。

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