第10話 泣いている男の口元

女は、清春きよはるの膝の上で明るい笑い声を立てた。


「勝手ね」


清春もつられて笑う。


「勝手だよ。こうなるとあなたみたいに時々つまみ食いして、一人の女性に縛られない生き方も悪くない気がする」

「じゃあ彼女を自由にしてあげたら?」

「それが、できればね」


清春はぽつりといって女の身体を抱きしめた。佐江さえの身体よりもやや骨のしっかりしている女は、抱きしめるとはずむような弾力があった。

清春を跳ね返すような弾力だ。


「あいつを自由にしたらもう二度とおれのところには戻ってこないよ。それが怖いから、一瞬たりとも手綱たづなをはなさないようにしているんだ」

「束縛している?」

「彼女が許す範囲でね」


清春はぎゅっと女の身体を抱いている腕に力を込めた。


「ほんとうは、あんな束縛じゃ足りない。あいつを一歩もおれの部屋から出さずにとじこめて、朝も夜もなく抱き続けて抱きつぶしたい」

「愛されているのに、不安なのね」


女はそっと清春の頭をなでた。清春は女にされるがままで


「彼女の愛情を疑っているわけじゃないんだ。あいつなりにおれに惚れていると思う。でも、足りないんだ」

「それ、彼女もつらいわよ」


女の声が不思議なほどおだやかに聞こえた。

清春は顔を上げ、女の顔を見る。片耳に髪をかけてやわらかな耳たぶを露出させている横顔を、じっと見る。


「あたしの好きだった人もそんなふうだった。彼には家庭があって、あたしはそれでもよくて始めたの。そのうちに彼がくるってきたわ。何の根拠もないのにあたしが他の男と寝たって言い始めて。ののしって殴って。最後には泣きながら、捨てないでくれって言うのよ」

「…おれみたいだ」

「あなたはあのころの彼よりまともよ。あのころの彼は、何かほかにつらいことがあったんでしょう。つらさをあたしでまぎらわしたかったのね」


女はゆっくりと顔をかたむけて清春にキスをした。


「今ならあたしもそれがわかるし、たぶんもっと上手に対処できる。でもあの頃はまだ若かったしね。とにかく逃げ出したかったの」

「それでどうなった?」


清春が尋ねると女はそっと清春の膝から立ち上がり、ひとつずつシャツのボタンをはずし始めた。すっかりはずし終わると清春に背中を向け、しずかにシャツを落とした。


清春の目の前に三十代の凝脂にみちた背中が現れた。そして、白い肌にくっきりと走る大きな傷跡も。


「今は整形外科の技術が発達しているから、もう少し傷を薄くすることもできるらしいけど。残しておこうと思っているの」

「残しておく?なぜ?」


清春は立ちあがり、そっと傷跡に指をすべらせた。かすかに盛り上がった赤い傷跡は、泣いている男の口元のように見えた。

「自分に対する戒めのようなものね。相手を幸せにする覚悟もないのに、家庭のあるひとと関係をもった馬鹿な若い女に対する罰よ」

「そこまで、あなたに責任があるわけじゃないだろう。相手の男が悪いんだ」


清春がそういうと女はくすっと笑った。


「あの男が悪いってそう言える?あなたに?」


清春はそっと身体をかがめて、女の背中に唇を当てた。女がぴくりとして皮膚に鳥肌が立ったのがわかる。

そのまま、清春はそっと唇を当てて傷の端から端までキスを続けた。

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