第19話

 真田は小首を捻った。セールスマンという仕事柄、一度会った客を忘れることはない。ましてや、この店に来る客は常連ばかりなので、何度か見たことのある顔ばかりなのだが、その人物だけは思い出すことができなかった。

(どこかで会っているのは間違いない――)胸の中で呟いた。

 どうしても思い出せなくて、隣りの中西に訊いてみようとした時、真田は躰に電流が奔るのを覚えた。

 中西の左腕を軽く肘で突いた。

「おい、あそこのママが名刺を渡した人物を見てみろよ」

 耳元で囁くように言った。

「あの人がどうかしたんですか」

 中西はグラスを手にしたまま意味がわからないといった顔をする。

「あいつだよ、ほら、さっきおまえが尾行した白い車を運転してた」

「ええーッ」

 中西は寝違えをした時のように、真田に顔を向けたまま驚嘆した。確かめる意味でもう一度見ようとするのだが、筋張って思うように首を回すことができない。

「間違いないです?」

「こう見えても俺もセールスマンの端くれだ、見間違えるはずはない」

 真田は震える指をタバコの函に入れて掻き出すように一本取り出した。それを見たケイコが素早くライターの火を差し出した。

「ねえ、ふたりで難しい顔して、何話してるの? ケイコにも聞かせてくれる?」

 メンソールのタバコを吹かしながら話に割り込んで来る。

「何でもないよ。明日の仕事のことを話してただーけ」

 真田は何事もなかったように平然とした顔を見せた。

「そうなんだァ」その時ケイコがママに呼ばれた。

 ケイコが離れたのを見た中西が、

「正直なところ僕ははっきりと顔を見てないので何ともいえませんが、もしそうだとしたら、なぜここにいるんでしょう?」

「わからん。でもあれから3時間以上経過してるから、戻って来ようとすれば戻れないことはない」

 真田は先方をなるべく見ないように、下を向いたまま話していた時、隣りの客が注文した焼うどんを作り終えたママが前掛を外して戻って来た。 

「一応名刺を渡しておいたから、その気があれば買ってくれると思うわ」

「ありがとう、恩にきます」

 真田は礼をいいながら、ママが咥えたタバコに火を点ける。ささやかな謝意のつもりだった。

「お互いさまだからそんなことはいいんだけど、久しぶりに来たんだから、じゃんじゃん歌を入れてね」

 水割りをひと口飲んだ真田は、目の前に置かれた分厚い早見本をぺらぺらと捲った。隣りの中西も負けじと歌手別のページを開いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る