第7話

 老人が姿を見せたのは30分ほどしてからだった。

 真田は急ぎ足で老人のすぐうしろまで行くと、

「すいません」

 誰にでも声がかけられるところが営業マンの強みである。しかし聞こえなかったのか、老人はそのままの歩速で歩いている。

 真田は老人に並ぶようにして、もう一度大きな声で呼びかけた。

「恐れ入ります」

 老人は見かけない顔の男に声をかけられたからか、眉根に皺を寄せながら立ち止まった。 年恰好からすると、70代半ばというところだろうか。白髪交じりの短い髪で、顔のところどころに老斑が浮き出ている。

「はあ」

「ちょっとお訊ねしたいことがあるんですが……」

「はあ」

 今度は、ハトが豆鉄砲を喰らったみたいに目を丸くしている。

「いま、あのビルから出て来られましたね」

「は、い」

 老人は不審な顔付きのまま、慎重に返事をする。

「いまご主人が行かれたのは6階の会社じゃないですか?」

「はあ」

 老人はこれまで、「はい」と「はあ」しか口にしてない。

「わたくしこういう者ですが……」

 名刺入れから取り出した一枚の名刺を老人に手渡す。老人は恐るおそる名刺を受け取ると、反対の手で老眼鏡をかけ直し、しげしげと眺めた。

「はあ」

「もし時間がおありのようでしたら、少しいま行かれたあの会社のことでお訊きしたいことがありまして……」

「いやあ、きょうはこれから家内の入院している病院に行かなきゃならんでね」

「そうですか。それでは、もしご迷惑でなかったら、ご自宅にでもお邪魔してお話を窺いたいと思いますが」

 真田は、これを逃したらもう二度とチャンスはないと考えているために必死だった。

「いや、自宅はちょっと……」

 老人がそう言うのは当然だ。いくら一流の誰でも名前を聞いたことがある会社の社員だといっても、いま会ったばかりの人間にそう簡単には自宅を教えられるはずがない。

 真田は持ち前の営業マンの執拗さを全面に出して、何とか来週のこの時間にビルの前で待ち合わせることを取りつけた。

 ほっとした真田だったが、今度は果たして1週間後に老人はこのビルに来るだろうかという危惧が頭を擡げはじめた。

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