第16話 真実は闇の中

「チラッ! チラッ!」


 朝の五分の時間。

 朝比奈さんが、ちらちらこちらを見てアピールしているが、それどころではない。

 頭の上に数字が見えるようになったとかもはやどうでもいいと断言できるほど俺は追い詰められていた。


「チラチラっ! あーあーあー」


 朝比奈さんの言いたいことはわかる。

 あれから数日経った。その間、朝比奈さんは風邪を引いたとかで三日間ほど寝込んでいたそうな。だから数字がマイナスになってから四日目の朝ということになる。

 -2だった数字は、現在6を示している。色も黄色から青色になり、普通と言うのも変だが、みんなと一緒の色になった。


「ごほん。ごほん」


 そして、今も朝比奈さんはこの数字がなんなのか見えているのだろう。しきりに俺に聞きたそうにしている。

 俺としても数字の意味が確信できないので、朝比奈さんと話をしてもどうにもならないだろうと思ってる。不思議だねー、そうだねーで終わってしまう話だ。

 いや、そんな悠長な話ではない気がしないでもない。俺はもう慣れてしまって数字が見えること自体は何も変じゃないと思ってるし。意識的に数字を見なければ、リボンとかの装飾品と一緒だと思えるようになってきた。

 

「数字がー、数字なんだけどなー」


 朝比奈さんのアピールも露骨になってきた。

 だが、ここまでされても俺は反応せず、うつむきながら歯を食いしばって耐えていた。それどころではなかった。満員電車の中で突然強烈な腹痛が起こったかのように、いやその状況すら生ぬるいと言うくらい、俺は今極限状態の中にいる。

 そう、EDだ。

 EDの辛さをなめていた。ここまで辛いものなのかと。

 男子の諸君には発散できない辛さと言えば同情してもらえると思う。体がムラムラするのに解消できない。なのに、性欲だけがマグマのようにグツグツと音を立てて沸き上がる。


 だが辛いと言っても日常生活を普通に送るのに支障をきたすほどではない。なかったのだが、学園に来て椅子に座った瞬間、その情欲が数倍になったかのように増大した。体は反応しないのに、肉欲だけが活性化し脳を支配する。

 今、朝比奈さんの方を振り向けば劣情に満ちた視線で彼女を見ると思う。何日も餌を食べていない肉食獣のような視線で、胸や太もも、首筋を見てしまう恐れがある。自制を効かせる自信がない。その危険性があるからこそ、朝比奈さんを見ることができなかった。


「あー……や、月見……」


「おはよう!」


「……んっ!?」


「ん、どうしたの朝比奈さん? 風邪治ってないの?」


「う、ううん、大丈夫。風邪はもう治ったから安心して」


 三番目の登校者、横山くんがやってきた。

 朝比奈さんも部外者がいる前で数字について話をすることができないので、ここでタイムアウトとなる。心の中で朝比奈さんに謝る。なぜ、朝比奈さんにも数字が見えるようになったのかわからないが、今だけは無理だ。まともに話をすることができない。

 ただ、耐えるだけしかないが、先程より少しマシになって気がする。このまま我慢すれば、落ち着くはずだ。

 そして平静になるまでの三分。俺は下唇を噛みながら、ひたすら時が過ぎるのを待った。

 


 乙藤先生には体に異変がでたら教えるようにと再三言われている。

 だが、人の頭上に数字が見えるようになりましたとか、EDになりましたとか言える男子はいないだろう。思春期の男子にとって、年の近いお姉さん的な存在の先生にしもの相談をすることは拷問だ。というか、セクハラにならないか。かがみんにセクハラしといてどの口で言うかと言われそうだが、さすがに下ネタを言う相手は選んでいる(失礼)。言っても大丈夫な相手しか言ってない(かなり失礼)。むしろ、かがみんはマゾの気があるから喜んでいたんではないか(本人が聞いたら激怒しそうなくらい失礼な思い込み)。


 だから、乙藤先生には何も言えずにいる。

 むしろ、親身になられたら違う意味でヤバイ。可能性は低いが、年齢制限のある行為に発展してしまうかもしれない。合意が得られなければ犯罪で、合意が得られてもそれはそれでマズイ気がする。

 今は朝の出来事は一体なんだったんだと思うくらいに落ち着いているが、また、あの獣じみた情欲に支配されれば俺は俺でいられる自信がない。


「はい。今日は小テストをやりまーす」


 ええっーと言う声とまたかよという悲鳴がクラスに響く。

 四時限世界史の授業。

 乙藤先生は授業の終わり頃、授業の締めくくりとして小テストを開始すると宣言した。


「じっーーー」


 そして、横からジト目で睨まれる。

 冷や汗が頬を伝うが気がつかないふりをする。もう平静に戻ったから大丈夫なのだが、朝の時、朝比奈さんの露骨なパスに反応しなかったから、気まずさを感じている。

 視線の意味は勿論いろんな意味だろうが、うん。ごめんなさいと謝るしかない。俺が悪いわけではないけど、俺のせいだ。


「んじゃ、時間は十分ね。始め!」


 世界史の時間恒例になりつつある小テスト。

 暗記だけではなく、文章記述もあるからなかなか難易度は高く大変だ。

 ツカツカとヒールが床を叩く音がする。乙藤先生が歩く音だ。カンニングがないか、生徒の回答率はどのくらいか見て回っているのだが……。


『肘の調子はどう? 痛い?』


 クラスを一周するだけで乙藤先生の足は止まる。俺の直ぐ側に。

 テストのときの定位置だ。いや、普段の授業でもよく俺のそばに止まっている気がする。

 俺の近くにやってきて、メッセージカードを置いてくる。


『大丈夫です』

 

 無視するわけにいかず、俺も大丈夫だと手で輪っかを作る。俺のジェスチャーを見て、乙藤先生はニッコリと笑い頭をなでてくれる。その瞬間──


 パチッ。

 誰かの筆記用具の芯が折れた音が響いた。


「ゴホン。ゴホン」


「チッ!!」


 そして、咳き込みと舌打ちがクラスに飛び交う。

 俺が顔を上げ周囲を見渡すと、クラスの男子や女子がサッと顔を伏せる。


『どうしたの?』


「いえ……」


 先生はクラスの状況に気がついてないようだ。さっきのメッセージカードに書いて俺に聞いてくる。俺はテスト用紙に返事を書く。それを見て、乙藤先生はまた俺の頭を撫でる。


『次の小テストは問題集を中心にだすからね♪』


 なでなでなで。

 俺を撫でながら、乙藤先生は新しいメッセージカードを送ってくる。書いた素振りはなかったから事前に用意したメッセージカード。目が合うとニッコリと微笑む。

 幻聴だと思うが、どこからともなく歯ぎしりの音が聞こえる。あの、これって職権乱用というか、完全に贔屓な気がするんですが。

 だが、問題はそれだけではなかった。


『片腕が動かなかったら、昼ご飯大変だもんね。今日もお弁当作ってきたから一緒に食べよ♪』


『はい』


『やったーー!! 期待しててね♪』


 嬉しいのか乙藤先生は俺のテスト用紙に直接返事を書き込んできた。最後には俺の手を撫でるおまけ付き。

 小テストと同じように恒例になりつつあるお昼のお誘い。片腕をほとんど動かせないので、利き腕の逆で左手で食べるのだが箸だと細かい動作ができない。だから箸をフォークのように突き刺して食事をとる。それを知った乙藤先生が片手で楽に食べられるサンドイッチを作ってきてくれるようになった。

 ここまで一生徒を贔屓して大丈夫なのかと思ったが、俺の怪我の原因を一端を担ったのは乙藤先生だった。そんな理由をでっち上げられ、監督不行き届きゆえの贖罪行為という大義名分で俺に構っている。

 勿論、俺の怪我の原因は乙藤先生にない。だが、乙藤先生は必要以上に責任を感じ今に至る。なんと母性本能が強く、優しい人だと誠一郎に言ったら殴られた。

 

 なお、これは余談だが、このクラスで月見里義之被害者の会というものが立ち上げられたそうだ。解せぬ。


「うっ……うっ、うっ……」


 目の前の席の田所くんから男泣きが聞こえる気がするが気の所為だろう。

 位置的に俺と乙藤先生の交流? は見えてないはずだろうし。乙藤先生と顔を見合わせ不思議だねと首をかしげ合う。あと、思い出したように頭を撫でられた。乙藤先生は俺のことをペットか何かのように思っているのだろう。弟が欲しかったと聞いたことある。弟がいたら構い倒したのにと。それを俺で代用しているのかなと少し思ったりする。

 自分を誤魔化すように俺はそう考えた。

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