たったひとつの鈍いやり方 4



 勇者スーリアが凶行に及んだのは、とある国境の山中だったと言われています。

 火噴きの竜を追いかけていた勇者の遠征軍が、唐突に消息を絶ったのです。


 あくる月、麓の街に現れた勇者は、にこやかに住民を皆殺しにしました。勇者は悲しげに剣を振るい、いつしかその頭には角が生えていました。鱗がびっしりと腕を覆い、骨はいびつに歪み、心臓には黒蛇がたくさん巣くってしまっていました。


 勇者は、泣きながら言いました。


『我、竜となりし。ここで勇者を待つ』と。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 サニャはその日、久々にオーステンと出掛けた。

 これからの旅に向けて、買いこむものはたくさんあった。

 そして、話すべきことも、どうやらたくさんあるらしかった。


 街の小さな広場で、二人はベンチに座り、サニャが最初に口を開いた。


「ママは、前の勇者と知り合いだったんだね」

「サリアさんは凄腕の長剣使いで、昔はスーリアともパーティを組んでいたんだ。でも、ある日立ち寄った街で、武器のメンテナンスを頼んでいた腕利きの鍛冶師から求婚された。最初は断ったけど、数度めの告白でその熱意に折れたらしい」


 オーステンが知るかぎり、サリアという女性はとびぬけた美人ではなかった。

 だからおそらく、誰も知らないやり取りが二人の間にあったのだろう。

 サニャが、どこか遠い目をして尋ねた。


「それがパパなの?」

「うん。ライドさんだよ」


 当時のライド=クルーエルは鬼の手と呼ばれるだけあって、まったく隙のない男だった。そんな堅物で剣しか見ていないような男が、ある日突然に女に熱をあげはじめたのだと、兄弟子たちが、ずいぶんと盛り上がっていたのを覚えている。


「僕もその頃に弟子入りして、そしてしばらくしてから君が生まれたんだ。あのときは、まるで本当の妹ができたみたいに嬉しかったよ。2人も、すごく喜んでいた」


 サニャがはじめて微笑みを浮かべた。

 思い出を、このように語ったのはあるいは一度もなかったかもしれない。

 もっとはやくにこうすべきだったと、オーステンは思った。


「でもサニャちゃんがまだ幼いときに、勇者スーリアの事件が起きた。サリアさんは彼を倒すためにこの街を出て行った。ライドさんも心配だからってついていって、そしてサリアさんだけが戻ってこなかった。きっと竜に成り果てた勇者スーリアに、やられたんだ。ライドさんはそのことを、君や街の人には、言おうとしなかった」


 サニャは目を伏せた。


「ママはどんな風に……負けたの」

「ライドさんの造った武器が、勇者の剣に敵わなかったんだ。サリアさんは剣を折られて、そのまま斬られたらしい。ライドさんは山の麓で、瀕死で倒れていた。フェルマさんに看病されて、意識が戻ってからのライドさんは……ひどい顔だった」


 それからのことは今でも思い出せる。オーステンは、ライドがなぜ酒に溺れたのか、他人を怒鳴り散らしたのか、その理由を知っていた。あのとき、世界中が勇者スーリアの凶行に怯えており、混乱のなかでたくさんの人が死んだのだ。鍛冶師は、妻を助けることもできないまま、幼い子どもを守らなければならなかった。


 だが、ライドがそう思うのと同様に、彼の弟子たちも混乱のなかで己の身を護ることを一番に考えていた。彼らは徒党を組んで、ライドから秘技のすべてを盗み取ろうとし、彼の最も大切にしていたサリアの武具まで売り飛ばそうとした。だから、男は世界中への信頼を失い、オーステン以外の弟子たちと縁を切ったのである。


 オーステンがそれを伝えると、サニャは苦しげに呻いた。


「でも、それなら、どうして剣を」

「打たないと決めたからだ」

「なんでよ?」

「サリアさんが勇者を追うと言った時、ライドさんはそのために剣を打ったんだ。でもそれが折れてしまった。そのせいで、負けてしまった。ライドさんは、今でもずっと後悔しているはずだ。あのとき、自分が剣を打たなければ良かったのだと」


 その剣が打たれなければ、サリアは死ななかった。

 勇者を倒しに行くこともなく、ずっと家族はそのままだった。

 スーリアは街をひとつ滅ぼしたあとに竜と成り果てたのだ。

 それから、奴に殺された者は誰一人としていなかったのだ。


 であらば、サリアを殺したのは。

 その責をライドは負い続けているのだ、とオーステンは思っていた。


「サニャちゃん、君の知っているライドさんはあんな飲んだくれのダメ人間だけど、昔はそうじゃなかった。サリアさんが好きになるような、そんな人だったんだ」


 そんな言葉で、ライドとサニャの関係がよくなると期待したわけではない。ただ、オーステンは、少女が己の父親を誇りに思えないことが、気にかかっていた。もしも自分の知り得る事実を話すことでそれが解消されるなら、それだけでいい。


「わかった」


 サニャは少しだけ黙り込んだあと、難しい顔で頷いた。


「私もついて行くわ」

「えぇ!?」


 素っ頓狂な声でオーステンが立ち上がる。ひどい慌てっぷりで手元から買い物袋が逆さまに落ちる。ぽろぽろとパンやら果物やらがこぼれて、すかさずサニャがそれを拾い集めた。なおも動揺している男に、サニャはため息を吐きながら言った。

 

「ほらね。パパと兄さんじゃ不安じゃん」

「いや、勇者たちもいるし、」

「ハルトとじゃ喧嘩になりそうじゃん」

「う……」


 言葉に詰まる男をぱしんと叩いて、サニャは立ち上がった。

 晴れ晴れとした顔には、妙にやる気がみなぎっている。


「まぁ私に任せといてよ」

「何をさ」

「えーと、無茶しないように見とく」

「危ないからやめてほしいんだけど……」

「でも、私もママの敵討ちしたいし」


 それが本音か? オーステンは顔を顰める。


「敵討ちって僕もライドさんも素材を取る係で……」

「広場に大穴あけたあのパパが、黙って見てるわけないでしょ!」

「そ、それも確かにそうだね」

「私はハルトとパパに仲良くなってほしいのよ。パパは、ママのことでたぶん勇者っての自体を嫌ってるんでしょ。その状況もなんとかしたいの、まぁ、ついでにね」

「ついで……」

「オーステン兄さんがやってくれるなら別だけど」


 ふんす、と鼻息を荒くして少女はオーステンを睨みつける。

 その目はどこか、サリアに似た輝きを放っていた。

 強者に臆さず、常に挑まんとするあの戦士の輝きを。


「仕方ないなぁ」


 オーステンは説得することを諦めて、しぶしぶ頷く。


「それと、パパが暴走しようとしたら止めてね。臨時ボーナスは出すからね」

「え」

「ナイスアシスト一回につき、1万5千レルク」

「え」

「そしてパパがハルトを認めた暁には……」

「暁にはっ……?」


 サニャはふふんと得意げな顔をして、握りこぶしを作った。


 いやいや。

 それじゃ何のメリットもないじゃないか、とオーステンは汗をかく。


「冗談。この店の名前をエリオット鍛冶店とかにするわ」

「そ、それは素直に喜んでいいのか分からないけど」

「昔はともかく、今はそれが実態でしょ!」

「わ、分かった。じゃあその、なんとか二人の仲を取り持ってみるよ」

「流石はオス兄! 話が分かる!」


 少女は満面の笑みを浮かべた。


「うん、それが、たぶん一番良いことだろうからね」


 青年はそう言って、微かに微笑んだ。

 微笑んで、そのまま二人は家路について、

 それから、それから、


 サニャ=クルーエルは三日後に目覚める。





「西に5度修正。羅針盤から随分とずれているね」


 レイエルが、そう言って、手元の手綱を引いた。

 ぶもう、と足元で鳴き声がして、それから重力が横に働く。

 視界がすこしだけ傾き、そうしてまた真っすぐに戻った。

 降り続いていた雨がその動きにつられるように、青年の顔を叩く。


「わっ、とと」


 オーステンは顔をしかめた。

 魔法の生き物に乗っているとはいえ、高さは雲の下だ。

 ふわふわとした綿あめのような動物の背中では、雨は防げない。


「身体が冷えてしまいますね」

「こいつと違って、我らに毛はないからな」


 フィーラがしかめ面で答えた。

 そして、パンパン、と床代わりの背骨を叩く。

 なんでも、東方の獣だそうだった。

 地面からほんの少し浮いて、滑るように移動するのだという。

 大きな毛の生えた蚤のような姿をしているように見えた。


「雨か」


 エラミスタが振り返って、いつものようにひとり言をぼやいた。


「暗雲は時と共に晴れる定め。増す一方の瘴気よりは堪えぬさ」

「エラミスタさんは、アールヴなんでしょう。やはり瘴気を感じますか?」

「下らぬ噂話だの。受ける影響は人間と大差ない」


 古き民は蛇の瘴気に弱いという話を聞いたことがあった。それは真実ではないようだったが、オーステンにはやはり瘴気を感じることはできなかった。だが岩場を越えて河を越え、真っ黒な森に差し掛かったとき、ようやく、彼は臭気を感じた。


 それは腐った臭いとはまた違う。

 刺々しくて苦く、そして癖になるような甘ったるい香りであった。

 

「臭い」

「それが黒蛇の匂い、瘴気と呼ばれるものだよ」


 答えたのはレイエルだった。


 人懐っこそうな細い目にほんの少しの愉悦がにじむ。彼女はどこか、瘴気や竜を面白がっているように思えて、オーステンはなんとなく、彼女が苦手だったが、大賢者の口から語られるこの世界の秘密の話は、それでも聞かずにはいられなかった。

 

「これがそうなんですか。だったら、吸い込まないほうがいいんですか?」

「瘴気は身体の奥深くまで浸透していって、人間の魂にまで沈み込んでいく。これがただの人間ならその時点で死んでしまうんだけど、心技体を鍛え上げた英雄なら毒された魂のかたちに、身体が作り替えられてしまう。竜になってしまうんだよ」


 答えになっていない、とオーステンは思った。


「あの、瘴気を吸い込むのはじゃあやっぱり……?」

「良くないね。特に英雄は瘴気に近づかないのが一番だ。竜になるからね」

「強い人は誰でも竜になりうるってことですか?」

「誰も言いたがらないけど、そうだよ」


 レイエルが口の端を歪めてそう言った。

 どこか嬉しそうな唇に、青年は頬を引きつらせる。


「黒蛇にそそのかされるとか、そんなことはないんですね」

「ないよ。魂が毒されるかどうか、その一点だけさ」


 ぽつぽつぽつと雨音が響く。 

 ライドも、ハルトも言葉を発しようとはしない。

 エラミスタだけが、退屈そうに鼻を鳴らしたが、それも雨音にすぐに溶けた。


 オーステンは、己の細い顎をつまみながら、賢者の言葉の意味を考えていた。誰もが瘴気によって竜となってしまうのだとしたら、あのスーリアという男も己の意思とはまったく無関係にあの虐殺を行ったのだろうか。いや、スーリアだけではない。


 これまでのすべての竜たちがそうだとするならば、勇者ハルトはどうなのだ。

 意思にかかわらず、竜と成るのであれば、ハルトでさえも逃れることはできない。


 オーステンは呟いた。


「それなら、貴方たちも竜になってしまうんじゃ?」

「ふふふ。瘴気を浄化していれば大丈夫さ。幸いにもこのパーティではハルトが全員の浄化を行っている。黒蛇の力が魂の奥深くにまで、沈み込んでいく前にね」


 そう言いながら、レイエルはハルトの首元を指差した。

 そこには、神銀で造られた青白色の首飾りがあった。


 聖正十字は聖教会への帰依を示すシンボル。

 聖職者が瘴気を浄化したり、黒蛇を追い払うときに使用するまじない道具だ。

 勇者であるハルトにも、おそらく同じことができるのだろう。


「200年前に現れた最初の勇者のように、ハルトも浄化ができるんだ。今や、女神信仰すら衰えて久しいけれど、聖教会の聖なる力は、まだ世界を見捨ててはいない」


 オーステンは納得して頷きかけた。

 だが、よく考えるとやはり疑問は残った。

 勇者が浄化するというのなら、勇者がいないパーティではどうなるのだ。

 そもそも、今から戦う竜は、その勇者が成り果てたものではないか。


「レイエルさん、それなら勇者スーリアはどうして?」

「あれは、勇者の資格を失ったんだよ」


 大賢者を名乗る女は、口元に不思議な笑みを浮かべたままそう言った。なんだろうかと思い、オーステンが聞き直そうとしたそのとき、エラミスタが急に生き物を停止させた。がくん、と皆がつんのめり、ハルトだけが臨戦態勢を取っていた。


「どうした?」

「空気が急に冷えた。過剰な冷気だ。雪でも降り出しそうだ」

「竜の領域が近いんじゃないかい。すぐに、国境に着くだろう」

「勇者の竜に対して、大賢者の認識は甘すぎる」


 エラミスタはそう吐き捨てると、振り返ってハルトに指示を仰いだ。


「どうするのだ。このまま進むつもりなのか」

「スーリアが滅ぼした街がある。そこを拠点として、竜の山を登っていこう」


 竜の山、それは勇者スーリアが遠征隊を皆殺しにした場所である。サリア=クルーエルもそこで死に、その遺体は未だに回収されていない。オーステンはちらりとライドを見たが、男の表情はすこしも変わらず、口は一文字に結ばれていた。


 オーステンはレイエルにさきほどの話の続きを聞こうか悩んだが、勇者の資格を失う、などという話を、当の勇者であるハルトの前でするのも快くはない。結局、ろくに話を聞けないままに、周囲は暗くなり、そして野営をすることに、




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「……なったのです」


 男はそう言って一息吐き、それから手元の水をすこし飲んだ。

 喉が渇いていた。緊張と語りで、呼吸も忘れていた。


 男の喉を、冷えた水がとおる音が響く。

 寝台に横たわったままの女がわずかに身じろぎをした。

 その身体は、ゆっくりと起こされている。

 女の、白く濁った瞳が、御簾のうちからエルマンを見ていた。


「いかが、されましたかな」

「語り部よ、エルマンよ、サリアはなぜ死んだのだ」


 詩人はふ、と首を傾げた。


「やはり先走る癖がおありですね。サリアの最期が知りたいのですか」

「……スーリアはなぜライドでなく、女を殺したのだろうか」

「はてさて?」

「いや他愛もない空想だ。竜の考えることなど分からぬ」


 貴人はそのように言って、疲れた息を漏らした。

 枯れ木のような影が寝台のうえで、どさりと倒れる。


「今晩はもうすこし。竜と出会うまでは、語れるか」

「もちろんにございます。もとよりそこを区切りと考えておりました」

「では、続きを。勇者ハルトの物語を、」


 ガラスの器が空になる。

 男は、潤った喉の、その震えを止めて、言った。


「えぇもちろん、勇者の話を致しましょう」


 夜はもうじき明ける。

 曙光はいまだ来ず、影が、窓の外を駆けるのみ。

 エルマンは、もはや覚悟を決めていた。



 さて、

 

 だがしかし、竜を落とす前に、語られることのない話をしよう。

 語られることのなかった、どうしようもなさの話をしよう。



 エルマンは自ら捨てた物語の断片について思いを馳せた。それは、貴人に話すには、あまりにも細切れで無価値な営みだったように思えたが、しかし、なにもかもを余すことなく知るためには、本来語られるべき、そういう出来事だった。


 人々を楽しませる吟遊詩人にはあるまじき行い。

 であるが、エルマンの口元はどうしようもなく緩み、笑みを形づくる。

 それは、誰の益にもならないが、それでも失いたくはない物語だった。


 夜が訪れて、また明けるまでのわずかな暗闇。

 そのゆらめく炎と靄のなかでオーステンは、多くのことを、知ったのだから。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 少し冷えた身体を温めるように、野営の中心には焚火が起こされた。


 その火を絶やさないように、ララ=リオライエンは真剣なまなざしで右手をかざしていて、職人技とでもいうべき魔力の制御が、炎を弄ぶように揺らしていた。それは姿を変え続けて、竜と成り、蛇となり、そして人を形どり、一振りの剣となる。


 精妙な操作で生き物のように動く。その絶技を見ていたオーステンは、気のゆるみから足元の枝をぱきんと折った。ララがすばやく振り返り、青年を睨みつけた。


「こそこそと見るなです。貴方は今は寝る時間なのです」

「ごめんなさい。フィーラさんを探していて」

「なんであいつに用があるのです」

「眠れないので、サウラの話でも聞こうかと」

「やめとくのです! 今あいつは精神集中の真っ最中なのです」


 そう言うと、ララはまた炎のほうへと向き直った。こちらにまったく興味がない素振りで、オーステンは気まずさに唾を飲みこむ。仕方なく、少女の炎あそびを見ていると、それが聖十字のかたちとなり、そして人間のすがたへと落ち着く。


 細身で、戦いが得意そうなシルエットだ。

 オーステンはすぐに勘付いた。


「それ、ハルトさんですか。旅の前の告白、あれは驚きました」

「う、うるさいのです! 告白して何が悪いのです!」


 意地悪のつもりもなく、ただなんとなしにそのことに触れただけではあったが、ララの反応は非常に激しいもので、オーステンは思わず腰をついた。篝火のなかからハルトのようなものが、こちらに剣を伸ばす。あわてて、彼は取り繕った。


「そりゃそうなんですけど、レイエルさんもフィーラさんも呆れた顔をしてたので」

「それは、あいつらがおかしいだけなのです! あんなにカッコいいハルトとずっと一緒にいるっていうのに惚れもしないなんてあり得ませんのです!」

「どうですかね。男女の関係は、惚れた腫れただけじゃないんじゃないですか」

「うぅー! それはそうとしても、私はハルトが好きなのです!」


 熱い告白だった。


 あまりにも率直すぎてオーステンの顔まで赤くなったが、この暗闇と炎のおかげでそれはなんとか気付かれずにすんだ。だがそれでもララの赤面度合いは隠しきれるものではなく、じろじろと見ていると、彼女はオーステンの頭を小突いた。


「すみませんでした」

「というか、その敬語をや、やめるのです! わ、私より年上でしょうに!」

「年上だからといって敬語を使わなくていい理由もないんじゃないですか」

「は、は、はぁ……。いらつく男なのです……」


 息を切らしながら、そしてため息まじりに、ララ=リオライエンは蔑んだ目を向けたが、疲労の度合いではオーステン=エリオットも負けてはいない。感性の違いというものを如実に感じながら、それでも青年は両の掌を彼女に向けた。


「分かった。分かりました。もう敬語は使いませんよ」

「つ、使ってるじゃないですか、です!」


 向けただけであった。

 オーステンはほうれい線に力を入れて、言う。


「もう……使わねぇさ……」

「だ、誰なのですか、です!」


 なるほど、では万人が知るアイドルならばどうだ。

 と、青年は左手を顎につけて、右腕を高く掲げた。


「じゃあ、こっからは、タメ口で行かせてもらっちゃうからねー!!」

「う、歌姫的な口調だというのは分かったのですが、反応に困るのです……」


 オーステンはアイナをイメージしたキメ顔を崩して、破顔した。


「距離感を掴みたくてさ」

「む、むしろ離れていく感じだったのです」

「普段はサニャちゃんとああいう感じのときもあるんだよ」

「さ、サニャって、ああ、思い出したです。でもあの子、ハルトが好きなんです?」

「たぶんそうだ。淡い恋心というやつだろうね」


 流石に、そこに嫉妬心はない。


「ふぅん。お、オーステンはサニャとは恋仲ではないのです?」

「妹みたいなものだからね。正直それはないかな」

「へぇ。確かに私も、弟や兄上に惚れはしなかったのです」

「まぁ人それぞれだろうけどね」

「ふむ……。ではハルトは、ど、どうなのでしょうか」


 またしても赤面、またしても赤裸々。

 ララはぐいっと前のめりになると、オーステンの胸倉を掴んだ。

 が、掴まれても困るというものであった。

 なぜなら、青年は勇者ではないし、勇者は青年ではない。

 他人の考えを推し量ることなど、どこまでいって仮定であり仮象である。


 が、それでもオーステンは己が考えるかぎりの答えを返した。


「ララさんのこと? 妹みたいに思ってるんじゃないかな?」

「い、い、いもうとっ!?」


 ララ=リオライエンは激怒した。

 必ず眼前の朴念仁をしばき回さなければならないと決意した。


「お、お前、お前、で、デリカシーのというやつの欠片もないのです、です」

「傍から見ていると、レイエルさんとお似合いって感じだね」

「か、乾いた笑いすら出ませんです」

「フィーラさんは戦士って感じだし、エラミスタさんは冷たい感じだし」

「わ、私は、妹みたいな感じだし、いひひ……」


 不気味な笑みと笑い声を漏らしてララが歯をカチカチと鳴らした。女性の精神はいまや風前のともしび、これ以上に痛めつけることは不本意であると、オーステンは己の不作法と意地悪さを恥じたが、幸いなことに、ララはすぐに復活した。


「と、というか、一応言っておくですけど、ハルトの方が年下なのです」

「え!? あ、でもそうか、考えてみれば可能性は全然あったな」

「し、しかも、そ、その年下の子に、私は命を救われてしまったのです」

「それで一目惚れしたんだ」


 と、オーステンが言うと、ララは不愉快そうに眉根をよせた。


「違うのです。私をそんなに、や、安い女だと思わないでほしいのです。貴族の家に生まれたのです、命なんて数えられないくらいに救われてきたし、この魔法の力で救ってきたのです。そんなことは、わ、私にはなにも特別なことではないのです!」


 なるほど。それはオーステンにも納得のいかない話ではなかった。


 この世界において、この国において、貴族とは非常に重い責任をもっている。この世界で公的なものにその身を委ねるということは、全命をもって民草を救わなければならない、ということ。そこでは、命のやりとりなど当たり前極まりない。


 無論、高位の貴族である以上、そして貴重な魔法使いである以上、その命はなるべくして重くなり、優先的に守られることはあるだろう。救われることはあるだろう。だが、たかが命を救われたくらいで心酔するような貴族などありえないのだ。


 精々、多少の礼と、恩義を感じるばかり。たとえララが夢見がちな女性であったとしても、貴族の矜持がある以上、そこに恋愛感情などが入りこむ余地はない。そうすることは戦いへの侮辱であり、命を散らしたものを、冒涜する行いである。


 それが普通。

 それが当たり前。

 それが、強さ。

 

 これは残酷さでもあったが、それ以上に、彼らの誇りでもあった。

 ゆえに、ララは、ハルトに救われたから、愛するのではない。


「じゃあ、どうして?」と、オーステンは問うた。

「な、仲間を。私が助けられない人を、助けてくれたのです」と、ララは言った。


 オーステンは思い出す。ララは元々、国の魔法士隊に所属していたと、ハルトは言っていたではないか。であれば、仲間とはその隊の同僚たちのことであろう。おそらくそれも貴族である。なれば、そこにも矜持があり、誇りがある。誰かに助けられることが、必ずしも素晴らしい幸運というわけではない。かもしれない。


 じゃあ、


「特別な人を救われたとかそういうこと?」

「せ、戦場で、黒獣との戦いの場では、私たちは守られる存在では、ないのです。オーステンは知らないでしょうが、黒蛇が取りついた獣たちとの戦いでは、兵士というのは捨て駒のように扱われるのです。そ、そこには、余裕なんてないのです」


 特別さではなく、やはり貴族も兵士も捨て駒で、それはだがしかし当然で。


「だ、だから特別だとか特別じゃないとか、そんなことを思う余地すらなく、私や私の仲間は死ぬのです。そ、そのことになにも特別さはなくて、ただ当たり前のことなのです。なのに、ハルトはそうじゃなくて、な、仲間を助けてくれたのです」


 なるほど。

 分からなくもない話ではあった。


 おそらく、ララにとってはそもそも、自分たちが救われてよい、守られてよいなどということが、それ自体が埒外の考えであったのだ。だからその摂理をぶち壊して、誰も不幸にならない戦い方を見せつけたハルトに、彼女はやられてしまった。


「わ、私はいままでに、私の仲間を、戦友たちを助けられたことはなかったのです。貴族である私を守ったり、民を守ることは何度もやりやられてきました。だけど、私や民のために命を投げ捨てる仲間たちを、救ってくれる人は、いなかった、です」

「でもハルトくんはそうした。それができたんだね」

「はい、なのです。ハルトは、誰も犠牲にしないで敵を倒してしまいましたのです」

 

 しかし、とオーステンは思った。


「それは力があったからじゃないのかい。ハルトくんにはそうできるだけの力があって、他の人にはたまたまその力がなかっただけ。そこに彼だけの特別な何かがあるとしたら、それは単に、勇者としての力だ、ってことになるんじゃないかな」


 そう言うと、ララは歯ぎしりしながら頭を抱えた。

 器用な奴だが、おふざけでやっているわけではなさそうだった。

 女性のちいさな身体から、苛立ちまじりの憤怒が漏れる。


「オーステン、ほ、ほんとにいらつく男なのです……」

「でもそうじゃないか。僕はそういうの、すごく気になる男なんだよ」


 そう、オーステンはすごくその点が気にかかった。

 他人の色恋沙汰などどうでもいいと言えばそうなのだが、道理には心を惹かれる。

 勇者が竜と成るその理由が気にかかるように、オーステンには気にかかる。


 しかし、ララもまた、ただ苛立ちをあらわすだけの人間ではなかった。


「じゃあ聞くですけど、お、オーステンはアイナ=レシュカがなぜ好きなのです?」

「な、なぜそれを!!」

「見張り番のときにライドのおっさんが言ってたです」

「なんてこった」

「そもそも、さっき下手くそな物真似をしてたです」

「なんてこった」


 思わぬ反撃に青年は歯ぎしりしながら、頭を抱えた。


「で、オーステンが歌姫を好きであることに彼女だけの特別さが、あるですか?」

「……声と顔」

「わ、私が魔法で声と顔を変えれば、好きになるですか?」

「……心がきれいで、頑張っているところ」

「が、頑張っている人は世界中にたくさんいるですよ」

「……仕草とか! 口調とか! 僕に元気をくれることとか!」

「そ、そんなのいくらでも真似できるです!」

「真似なんてしょせん真似事だっ!!」


 思わず叫ぶが、ララの舌はもう止まらない。今までの自問自答が形になったのか、それともオーステンへの苛立ちが爆発したのか、あるいは、もっと漠然とした勇者ハルトへの思いというものが堰を切ったのか、その舌鋒は鋭く放たれる。


「それじゃあ、ら、ライドはどうして、サリアという人を好きになったです?」

「えっとそれは、サリアさんが強くて、馬が合って、特別で」

「で、でもそんな人は世界にいくらでも、い、いそうですけれども?」

「いるか!」

「い、いるです。勇者だってハルトだけじゃない。い、今までに何人だって……!」

「そんなの全否定じゃないか!」

「お、オーステンの疑問を解消するためにはし、仕方のないことです! こ、これは、あなたが言い出したことなのです。あなたが、歌姫も勇者も否定したのです!」


 がつん、とオーステンの心臓が殴られて、そして血を一気に送り出した。


「があああああ!! うるさいな! このチビ令嬢!」

「けらけらけら! よ、ようやく本性がでたのです! このアイドル馬鹿!!」

「好きなものを好きだと思っていて、何が悪い!」

「ご、合意しましたね! 好きは好きなのです! 特別なんて後付けなのです!」

「くっ、くそ。合意だ合意。それでも、アイナ様は僕には特別なんだ!!」


 はぁはぁと無駄に息を切らしながら、ララとオーステンは見つめ合い、そしてがっしりと握手をした。ララの手が包み込まれるようになるが、この二人の間に恋愛関係はありえない。オーステンはこれにてようやく、初めての女友達を作った。


 と、そのとき、オーステンの首筋になにか冷たいものがつきつけられた。

 振り返ることはできないが、振り返らなくても分かることはある。

 それは背後から聞こえる、パチパチという雷鳴はぜる音である。


 フィーラ。

 フィーラ=クレオンディーネがそこにいた。


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