救世は砂戯に似たり。 2



 そうして僕らは五年目を迎える。


 あの日から始まった漠村との衝突は止まるところを知らず、僕とユリシアはサミュラを駆ってあらゆる敵対する村落を襲った。もちろん、殺したわけじゃない。僕らには青銅の武器があり、すこし相対するだけでどんな敵も首を垂れる。


 ガドルグイン率いる陸の戦士たちも、それに負けじと支配領域を広げていった。嵐の季節がまた巡ってくる頃には、空原の半分はイールティアに恭順していて、砂漠のあちこちで広大な畑が開拓され、砂はすこしずつ緑に侵食されていった。


 僕はそのあいだに方位磁針(この世界でも地軸は存在するようだった)を作り、それを元に、枯死の空原を流れるすべての砂河の地図を完成させた。僕とユリシアは、ガドルグインや長老衆たちが僕たちを暗殺するのではないかと常に恐れていたから、僕らだけの逃亡ルートを見つけておく必要があったのだ。


 だが実際のところ、男たちにせよ、女たちにせよ、ガドルグインにせよ、この村の人々はみな、僕らに逆らおうとはしなかった。彼らは素朴であり、熱にうかされたように僕の言葉を信じていた。神託。神から使命を受ける者。多世界に救済をもたらす旅人。伝説は、僕が語らずともイールティアに浸透していた。


 そんなやり易さから、僕は、他村との戦争でさまざまな助言を与えるようになり、たまには、日本で見聞きした奇策を用いて勝利をもたらした。そしてその勝利の熱のひとつひとつが、僕という人間を更に勇者らしく、あるいは預言者らしく見せかけた。熱狂はいつしか炎となり、イールティアを駆り立てるようになった。


 こうした動乱が起きているあいだ、あの刃のような少女、アリシアはというと、めっきり僕の前に姿を現さなくなった。あの精錬の夜から、悪しき炎が僕に灯ったその夜から、少女は短剣を持ったまま、その姿を消したのだ。


 噂では、彼女はサミュラを連れて、空原中を泳ぎ回っているという。砂漠とその辺縁地帯を取り巻く、毒素の森。その見えない死の壁のどこかに穴(あるとしたらそれは神様の不手際だ)がないかを、彼女は探し続けているのだという。


 ユリシアいわく、少女は僕を信じているらしい。

 この僕と、いつかともに砂漠から抜け出すことを信じているらしい。


 その話をするとき、ユリシアはいつも嬉しそうな表情を浮かべる。


 己の血を分けた妹が、この世でたった一人の肉親が、叶いもしない夢を追い続け、ほかの女のものになった男にあこがれ続けることに、彼女は心底から喜びを感じているのだ。その喜びを抱えたまま、僕にしなだれかかってくるのだ。


 ユリシアは一度だけ僕に漏らしたことがある。

 彼女にとって妹がどのような存在であるかを。


 彼女は言った。


「アリシアは純真。疑うことを知らないで生まれてきたような、あの子に見つめられると、私はなんだか怖くなるのよ。この私が今まで信じてきたものにどれだけの価値があったのか、私が守ろうとしてきた村になんの意味があったのか」


 彼女が言いたいのはつまりこういうことだ。

 アリシアという人間は、村のことなどなんとも思っていない。


 どこかに自明な正しさがあるとして、北極星を見るように僕らがそれに従って生きるなら、きっとアリシアは誰よりも星に近い。僕やユリシアが星を見ながら、どんどん遠ざかっていくのは、目の前に崖があるからだ。


 だがあの少女はきっと、崖があることなど信じないだろう。

 空を見ながら生きる者にとって、地上のことなんてなんの価値もない。

 神にとっての人間がそうであるように。 


 だからこそ、彼女は美しい。


 だからこそ、彼女は強い。


 だからこそ、


「ねぇあなた」


 ユリシアは僕にもたれかかって、ぽつりと漏らす。


「アリシアに会いたい?」

「彼女は、今の僕には会いたくないだろう」

「私は、アリシアがどこにいるか知っているわ」


 彼女は、奇妙な微笑みを浮かべる。

 僕は、首を横に振った。


 ユリシアにも分かっているはずだ。今の僕が見せられるものは何もない。どんな技術もどんな知識もどんな武器もどんな未来も、アリシアを喜ばせることはできない。その少女が求めていたものは、この砂漠のなかにはないのだ。


 だが僕は、この砂漠のなかで生きていくことを決めたのだ。

 だから、会うつもりなどすこしもない。

 会う意味など、どこにもない。


 曖昧に笑う僕の頬に、ユリシアは手を添えて、

 そして口づけをした。


「ドラン。いけないわ」


 彼女が言った。

 それは僕の決意とは正反対の囁き。


「会って、そして、あなたが決めて」

「なにを決めるっていうんだ。」

「ドルマータの未来を」


 このときが初めてだった。

 ユリシアの瞳は、僕ではないずっと遠くを見ていた。





 少女の居場所を聞いた僕は、砂漠をサミュラで駆けていた。


 イールティアで砂走船が開発されてからというもの、砂のうえを駆ける獣はお役御免となった。この地域を支配するアラノア=イールティア(僕とユリシアの傀儡であるイールティアの長老だ)は、乗り手たちがサミュラを手放せば、村民全員の命を助けると誓い、その代わりに大人数が乗れる砂走船を与えたのだ。


 船は大人数を載せられるが、サミュラで襲えばひとたまりもない。だがそれでもほとんどの村が抵抗なくサミュラを手放して、カバの群れは砂の海へと沈んでいった。主人と別れた獣たちは、もう二度と姿を見せることはなかった。


 なんでも、精神力を食物とするサミュラの取り扱いはかなり難しいらしく、船で済むならそのほうが、という村も多かったようだ。まぁ少し寂しい気もするが。


「ドラニエル、久々の砂泳は気持ちがいいか?」


 僕は炎天下を泳ぐサミュラに声をかける。

 もちろん彼は答えない。


「これから彼女に会う。殺されなきゃいいがな」


 アリシア。

 僕をおいて旅に出た剣。

 僕に、素晴らしい世界を望んだ少女。


 ユリシアは言った。


「彼女はあなたを憎んでいる」と。

 

 それがどこまでの真実かは分からない。

 だが、たとえ嘘だとしても、会いに行く意味はあった。



 砂漠を一日ほど走れば、巨大な岩が見えてくる。僕と彼女らが出会った場所よりもずっと向こう、砂漠の北の果てだ。岩を越えた先には、やはり毒素の森がびっしりと広がっていて、人間が入ってこようとすることを拒んでいた。


「ドラン」


 鋭い声がした。


 岩のうえには、アリシアが立っていた。

 褐色の肌はますます日に焼けて、黒っぽくなっている。

 服はずたぼろで、岩の下を泳ぐサミュラも、どことなく弱弱しい。


「ユリシアに言われてきた。君が僕を呼んだんだね」

「そう。義兄さん。訊きたいことがあって、ここに呼んだ」


 少女は、いやもうそんな歳ではないのだろうが、その黒い瞳のなかに純粋な炎を隠したままの幼い少女は、あの頃と変わらない声で、淡々と僕に問いかけた。


「ドラン義兄さんは、どうして勇者になった?」


 勇者だって。

 まさかそんな問いをされるとは思わなかった。


 僕は答えに窮するが、すこし考えてすぐに思いつく。


「……僕はこの世界を救うためにこの世界にやってきた」

「救う?何から救う?」


 憎しみではなく純粋な疑問の気配がそこにはあった。

 アリシアは、僕に恨み言をいうために呼びつけたのではないらしい。

 僕は女神の言葉を反復するように答えた。


「不幸から」

「不幸?それはなに?」


 そんなことは僕も知らない。

 でも、当てはまるものはそう多くない。


「君たちイールティアの民は、何度も滅びかかっていた。飢えに、大嵐に、蟲に、他村の戦士たち、脅威となるものはいくらでもあった。それが僕の敵だよ」

「滅びないために剣や船を造った?」

「力がないと幸せは得られない。僕はイールティアを救って、そして世界を救う」


 僕がそう言った瞬間、彼女は眉間に皺を寄せた。


「救えない。そのやり方には出口がない」

「僕にはそうは思えないな」

「イールティアが空原を支配しても世界は救われない。救われるのはイールティアの人々だけ。ほとんどが飢えていて、たくさんの人が死ぬだけの世界になる」


 それは僕も考えたことがあった問題だ。だがもし仮にそうだとしても、空原の支配に意味がないわけじゃない。世界を救う前に死んでしまったら元も子もないし、イールティアが栄えれば、いずれは他の村だって発展するかもしれない。


 それに、この空原を制しても世界が救えないなら、

 もう救うべき世界なんてどこにもないことになってしまう。


「君の言うとおりなら、たぶん誰にも世界は救えないよ」

「あのとき、砂漠の外を私に見せると言った。それだけが世界を救う方法」

「なぜ、なぜ君にそんなことがわかる?」


 アリシアの淡々とした言葉には奇妙な確信が込められていた。

 だが、僕にはその確信の理由が分からない。


「義兄さんに言っても信じない」

「なら、僕は、僕の信じた方法で世界を救うことにする」

「その方法じゃ世界は滅びる。あなたの国はそのうち分裂して、あなたがもたらした力で争いをはじめる。そして数百年もすれば、また砂漠が広がりはじめる」

 

 少女は、すとり、と岩から飛び降りた。

 その腰から短剣が抜かれる。


 一番初めの剣。歪な刃はすこし黒ずんでいる。


「義兄さん、これはたくさんの蟲を殺してきた」

「そのお陰で僕たちは蟲を恐れなくて済むようになった」

「砂漠からもしも蟲が消えたら、どうなると思う?」


 アリシアはそう言いながら、剣を僕に突きつける。

 そのときはじめて、僕のなかに警戒心が沸き起こった。


「わからない」

「覚悟をしてここに来て。そう伝えた」


 少女は無言で短剣を振る。

 刃が僕の頬をかすった。

 あのときのように、一筋の血が流れだす。


 無意識の恐れが、足から力を奪う。

 僕は力なく尻もちをつき、少女は軽蔑するように見下した目を向けた。


「ドラン義兄さん、はやく質問に答えて」

「アリシア、蟲なんて知らない。僕は全知全能じゃない」

「そう。ドラン義兄さんは預言者でも勇者でもない。ただ、私たちの知らない技術をたくさん知っているだけ。本当は何の変哲もない普通の人間のくせに」


 なぜかアリシアにはお見通しのようだった。

 彼女の言うとおり、僕はこの世界でズルをした。


「それでも、村は幸せになった」

「幸せ?これから起きることが?この世界にないものはすべてを変えてしまう。蟲が狩りつくされたあとに来るものが、本当に幸せだと考えたことはあった?」


 少女は、短剣を僕の首にあてがった。


「ドランは間違えてる。そのうえ、ウソまで吐いてる」

「神託なら本当だよ。僕は、女神様ともちゃんと話をした」

「違う。そうじゃない、私はあなたの心が知りたい、」


 刃が押し付けられて、首から一筋の血が流れだす。

 血がアリシアの可憐な手からぽたぽたと落ちていく。

 この人生が終わったらきっと、その後はない。


「僕は、ここで終わりたくないだけなんだ」 

「命乞い?今さら?」

「あぁそうだ。もうやめてくれ」


 僕を見て、彼女は、呆れたようにため息を吐いた。

 首元の短剣はアリシアの腰に戻っていた。

 

「ドランは……本当にバカな人」彼女が言った。


 そういう彼女の瞳は、僕なんかとは比べ物にならないくらい理知的で、

 奥深い輝きに満ちていて、そしてやはり、冷ややかだった。 


「苦手な目だな。それは」


 僕は突き放すように言う。

 彼女が訝しげに眉を寄せる。


「君は何もかもすぐに理解しているくせに、僕の心のありようを許さない。ユリシアと違って、君には弱さがない。だから分からないんだ。村のことも僕のことも、理解はできても、正しいかどうかでしか判断できないんだ」


 僕の言葉を、論理に直している間、いくつもの表情が瞬いていった。

 そしてついに瞳は、涙を流した。

 

「私もあなたと同じ。ただ生き続けていたいだけ」

「そうかな。君はまるで空をたった一人で飛ぶ鳥のようだ。僕やユリシアのように地上を離れられない人間とは違う。君は、この砂原の世界が滅んでも、楽園で僕らだけが生きられればいいと思っているんだ」


 だがそうじゃない。

 僕たちの心はそれほど弱くはない。

 たとえどれだけ非情になろうとしても。


「ウソつき」

「想像もできないだろ。ロックを君が殺したとき、僕がどんなに悲しかったか」

「あのとき、本当に悲しんでいた?本当の本当に?」

「あぁ」


 ふん、と少女は鼻を鳴らした。

 そして、短剣を暗い空に向かって掲げる。

 まだ夜明けではない。黄金色は光らない。


 その薄汚れた剣身には、わずかな神々しさもなかった。

 少女は言った。


「ずっと預言者ごっこを続けるつもり?」

「いや、いつか君に追いつくよ。皆が毒素の森を越えられるようになれば、僕やユリシアだって楽園を目指す。そこでまた君に会えたら、と思う」

「ひどい夢。そんなもの素晴らしくもなんともない」


 アリシアはそう言って、僕に背を向けた。


「君は、僕を憎んでいるのか」

「ユリシアがそう言った?」

「あぁ」

「ドラン。姉さんは、私と同じで、私よりも強い炎。私と同じ神託を受けたのに、女神なんて信じなかった。あの人はドランの力だけを信じることにした」


 ユリシアが?

 炎?


 いや、待て、そのまえに神託ってなんだ。

 女神ってなんだ。

 頬が引きつる。

 なにか、とんでもない事実を僕は聞かされている。


「ちょっと待てアリシア、詳しく聞かせてほしい」

「聞いても、信じないかもしれないけど」


 と、そのときだった。

 地面から一本の節くれだったなにかが突き出した。

 砂塵が舞い上がり、僕らの視界は途絶える。


「アリシア!」


 返答はない。

 砂煙のなかで火花が上がる。

 アリシアが短剣で敵に斬りつけているのだ。


「硬い。ドラン、逃げて」


 そう彼女が言った次の瞬間には、二本目のなにかがつき上がっている。

 ゆらゆらとうごめく塔のような影。

 日に照らされて、僕にもそれがなにかようやく分かった。


 鋭く尖った蟹のような爪、ごつごつとした甲殻、棘、棘、棘。

 蟲だ。大型の蟲だ。


 爪は一薙ぎでアリシアの右足を斬り裂いた。体勢を崩した彼女が地面に倒れこむ。溢れる血は砂へと浸みこんでいき、止まる様子がない。僕はすぐに駆け寄ろうとしたが、それをアリシアが制した。あのときと同じように。


 爪はまた砂のなかへ隠れていく。大量のもぞもぞ、砂の蠢きがこの岩周辺を取り囲んでいた。ダメだ囲まれている。僕がひとりで突っ込んでも彼女を連れて逃げるのは無理だろう。せめてサミュラがいる。ドラニエルがいる。


 だが、僕のサミュラはもうすでに回遊に入っている。

 笛で呼んでも、いますぐには来ないかもしれない。


 彼女は呟く。


「つけられた?いや、誘き出された?サミュラの仕業?」

「アリシア、僕のサミュラを呼ぶ。それまで」

「無理。複数体いる。私たちが囮になるからドランは逃げて」

「分かってる!でも無理だ!君を置いて逃げられない!」


 しかしそのときにはすでに、アリシアの弱弱しいサミュラが僕の足下にいる。


「もういい。行って」


 サミュラは、滑るように動いて、僕を岩から遠ざけていく。小さくなっていく砂煙のなかで、巨大な爪が、何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、振り下ろされるのを僕は見た。そしてアリシアは、アリシアは、もういない。 


 僕は、僕は、僕は、

 引きつった頬がいつまでも戻らなかった。

 






 アリシアの言葉には気になるところがいくつもあった。


 女神に神託。

 まさか彼女たちも接触していたのか?

 だとすれば、それは何のために?

 

 僕はアリシアのサミュラに乗って、村へと、いや、ひとつの街と化しているイールティアへと帰還した。その足でアリシアを助けに戻るべきだとも思ったが、たとえ戻っても、もはやあそこには何もないに違いない。蟲は肉体を食べる。


 なら僕は何をするべきか。

 彼女の意思を継ぐつもりはもちろんない。


 だが、彼女の意思を、その行動の理由を知る必要はある。

 それが僕に関係する事柄なら、なおさらだ。


 僕は寝室に向かい、静かに、扉を開く。

 髪を梳いているユリシアがいる。

 僕は、その首に短剣をつけつけて、囁く。


「ユリシア。すべてを話せ」

「おかえりなさい、ドラン」


 そうして、女は今までに見たことのないような笑みを浮かべる。

 まるで口が裂けたような笑みを。





 僕は彼女を椅子に縛り付けて、尋問を始めた。


「女神を知っているな」

「あの子は話してしまったのね」


 ユリシアはやれやれと言った様子で首を振る。

 やはり彼女も、僕に隠し事をしていたのだ。


「蟲を送り込んだのは君か。僕とアリシアを殺すために」

「サミュラという生き物は蟲を追い立てることができるのよ。熟達した乗り手なら、遠く離れたサミュラにも、そんな命令を出すことができる」

「なぜ僕らを殺そうとした?」

「あなたを殺すつもりはなかったわ。蟲はあなたを

「なに?」


 襲わない。と彼女は言った。 

 だが、蟲を思うように操ることなどできない。

 であれば、彼女の言葉の真意は、


 僕の思考を先取りするように彼女は口を開いた。


「蟲は精神核を持つ生き物しか襲わないのよ。転生者であるあなたには精神核がないんだから、襲われないのは当たり前のことでしょう。じゃなきゃ、最初にあなたと出会ったとき、あなたが死んでいなかったことの説明がつかないわ」


 転生者という単語が出たことに、僕はなぜか安堵していた。

 彼女は僕が女神に送り込まれたことを知っている。

 ただの旅人ではないことを知っている。

 あるいは、もうずっと前から、知っていた。


「やはり、君は、僕のことを、」

「えぇ。堂島翔一。19歳。事故死したあとドルマータに転生。力を拒否し、幸せに暮らすことだけを目的に悠々自適な生活を送ることを望んだ……」


 ユリシア。

 やはり彼女は。


「この世界での名はドラン。ドルマータ唯一の異世界転生者」

「女神はずいぶんとお喋りだったんだな」

「私たちの神託ではそうだったわ」


 神託。私たち。

 それが本当なら今のこの状況はなんだ。

 あの女神の狙いはどこにある?

 僕を籠の中の蟲のように弄ぶことか?

 それとも、この世界を、本当に滅びから救うことか?


 だが彼女の言葉は、意外な方向に進んだ。


「私たちはこう聞いた。『世界の破壊者であるドランは、ドルマータに転生し、新しい知識を用いて、ありとあらゆる魔道具を生み出す。その魔道具によって空原で戦争が巻き起こり、大戦ののちには、死の砂漠だけが残ることになる』と」


 死の砂漠、世界の破壊者、魔道具。

 なかなか面白い話だ。

 正直、否定しようとも思わない。


「この僕が破壊者だっていうのか」

「それが世界の滅び。ドルマータとイールティアの終焉」

「女神か?君にそんなことを吹き込んだのは?」

「えぇ。あれはあれの思惑で動いているみたいね」


 あれの思惑。世界を救うために僕を送り込み、その僕を破壊者、世界の滅びともたらす者だと告発した女神の思惑など、分かるはずがない。だが、本当に世界を救いたいと願う奴は、少なくとも、こんな手は使わない。


「いつ神託を受けた?君はすぐに信じたのか?僕が破壊者だと?」

「神託はドランに会う前に受けたわ。あなたが異世界転生者だということもすぐに分かった。あなたが生きたまま食べたトカゲは、バジュラと言うのよ。村の人間が食べたら精神核を犯されてしまう。あとから、貴方にはバジュラの毒が効かないと分かったけど、あのときは、アリシアもすごく驚いていたのよ」


 ユリシアは大げさに驚いたふりをする。

 美しいその姿には、しかしもう、わざとらしさしか感じられない。

 これが本当のユリシア。

 僕を欺き、アリシアを死に追いやった人間だ。


「なぜ僕に手を貸した?」

 

 いや、その問いに答えなど必要ない。

 彼女たちの思惑は結局ひとつ。

 世界を救うために、僕の知識を求めたのだ。


「女神は言ったわ。世界はたしかにいずれ滅ぶと。あなたの知識があっても、救うことはできなくて、むしろ知識は、滅びを加速させてしまうだけだと。だけど、いつ世界が滅ぶのかだけは、あの女神は言わなかった」


 なるほど。

 ユリシアは気付いてしまったのだ。

 あの女神がどういう存在か。


「それなら、当然の話よね。かたちあるものはいつか必ず崩れてしまう。どんな世界にも永遠なんてありはしないわ。だったら、一瞬の繁栄、嵐のなかの雷光のような栄華を求めても、いいでしょう。この世界が滅びてしまうまでは、私とあなたでイールティアの王国を作りあげられる。いつか滅びるなんて、曖昧な予言だわ」


「僕は、そんなことは望んでいないかもしれない」


 僕は短剣を強く押し付けた。

 アリシアが僕にそうしたように、血がひたひたと地面に落ちる。

 だが、ユリシアは僕と違って、おびえた素振りを見せなかった。


「それでも、もうあなたは過ぎたる力を与えてしまった。砂走船も剣も、どんどん改良されていくでしょう。あなたの言葉を元にたくさんのものが作られるでしょう。今はまだなくとも、火を吹く筒だって、空を飛ぶ船だって、人工の石だって、あなたが夢みたものは、何もかもこの世界に産まれていくのよ」


 彼女の言うことは正しい。

 もう僕が望む望まないにかかわらず、世界は変わっていく。

 イールティアはどこまでも発展し、ドルマータは開拓される。

 砂漠は消え、蟲は消え、サミュラは消え、


 そしていつか、毒素の森だって。

 その果てだって消える。


「君は、どこへ行くつもりだ」

「私の望みはアリシアと同じよ。森のむこう、精神核を犯す毒を越えて、私とイールティアはいつか、楽園を手にするの。美しい森、なくならない水、黄金色の作物。神託が私たちに見せてくれた『その先の光景』が、私は見たい」


 いつかアリシアが言った言葉の意味を、僕はようやくちゃんと理解していた。

 彼女は、確かに知っていたのだ。空原の外側のことを。

 夢物語ではなく、神託によって垣間見ていたのだ。


 だが、だとすれば、


「なぜアリシアに手を貸さなかった?」

「今じゃないと思ったから。世界がいつ滅ぶかは分からない。だったら、それまでに空原を私たちのものにして、イールティアを栄えさせるべきだわ。そして十分に方法が固まってから、確実に、毒素の森を開拓すればいい」


 悪びれもしない彼女の言葉。

 それはとても合理的で、あの少女のように熱を帯びていない。

 ユリシアは、その柔らかな衣の下に氷を隠していた。

 だがその氷は、狂気的とも思えるほどに冷たく燃え盛っている。

 

「イールティアが栄えれば、他の村もいずれ発展するに違いないわ」

「なるほど。そして、君はいつかドルマータのすべての人を救うわけか」


 僕が呟く。

 ユリシアはくだらないとばかりに笑った。


「救済なんてあなたの口から出る言葉じゃないわ。だってどんなに綺麗ごとを並べたって、あなたの心は、精神核は、現実は、ここにはない。ドラン、あなたは、」

「黙れ」

「あなたは、勇者じゃない」


 そうだ。

 なんのことだ、などと言うつもりはない。

 それは僕にだってちゃんと分かっていたことだったから。


「女神に、言ったんでしょう?元の世界に帰りたいって。だからここには来たくないって。特別な力なんていらない、絶対にこの世界は救わないって。だから、あのあくどい女神は困って、あなたをドルマータに送ることにした」


 どうやらあの女神はすべてを語ったらしい。

 それはどうしようもなく、真実だった。


「女神は私にも言ったのよ。ドルマータは、救いのない世界だと。誰も完結させる気がなかった世界だと。滅びさえ与えられない世界だと、この私に言ったのよ」


 ひどい女神だ。

 まさか現地人に世界の構造的欠陥を教えてしまうなんて。

 どうしようもない手詰まりの世界だと告げてしまうなんて。

 

「ドラン」


 ユリシアが怒りと悲しみの入り混じった声で言った。


「あなたは、絶対に救えない世界に行きたいと望んだのよ」


 あぁそうだ。

 それの何が悪い。


「あなたは勇者になんかなる気もなかったけれど、女神にとってはそれで十分だったのね。どんな形であれ、世界を進め続ければ、きっといつか正解にたどり着けると信じてる。あの女神は、砂のなかの星粒ひとつを探すように、終わりなき世界にも終わりをもたらそうとしている。まるでままごとのように」


 僕のしていた箱庭遊び。

 それを彼女は批判していた。


「ユリシア、そこまで知っていて、それでも、毒素の森の外側を信じられるのか」

「だってそれでも現実なのだもの」


 ずっと彼女は無為な世界に、気付かないふりをしていた。

 ままごとのような生活に、冗談のような国造りに付き合っていた。

 僕の語る救いに、なんの意味もないことを承知で、

 本当ならとうに捨ててしまってもいい希望をまだ抱いていた。


 ユリシアは儚げに微笑む。


「ドラン。それでも、あなたが生きてきた世界と同じくらいに、この世界は私たちの現実なの。この世界には終わりがない。永遠の滅びも永遠の幸せもない。でもそれが精神核を持つ者にとっての、唯一の現実でしょう。だとしたら、救えない世界を救おうとする私たちだって、そんなに馬鹿じゃないと思わない?」


 僕らにとっての世界は、僕という人間の意識が続くという、そのほんの短いスパンのなかにしか存在しない。ユリシアたちにとっても世界は意識の続くスパンでしか存在しない。だがそれでも、ドルマータはこれからも長く続いていく。


 それを信じられるということ、

 それが、この世界で精神核を持つということだ。


「完結しない現実で、私たちにできることは幸せに暮らすことだけなのかもしれない。本当は、私たちのように世界の外なんて求めなくても、この世界の内側だけで、それだけでもう、寿命分の幸せは得られるのかもしれない」


 生きている世界にとって物語は終わらない。

 ハッピーエンドなどでは終わってくれない。

 世界が続くかぎり、いや、それはきっと続かざるをえないのだろうけど、

 終わらないかぎり、世界は当然のように終わらない。

 

 ましてや、が想定されていない世界なんて。

 自分が望む終わり方を、ただただ押し付けるしかない。

 独りよがりに満足するしかない。


 それ以外の方法なんて、どこにもない。

 この世界を越えないかぎりは。


 だがユリシアは優しく微笑んで、僕にウィンクをする。

 その身体は縛られてはいるが、どこか自由さを感じさせる素振りだった。


「ねぇドラン。でもそれじゃあ足りないでしょう?」


 彼女は、囁いた。


「私たちにとって、この肉体と精神の、快楽と欲望が、命のすべてでしょう?だったら行けるところまで行きたいでしょう?毒素の森のその先へ、完結しない世界のなかで生き抜いて、私たちだけの終わりを見せつけてやりたいでしょう?」


 彼女の笑みは邪悪でそして輝きに満ちている。

 炎だ。たしかに彼女も炎を持っていた。


「世界が救えなくてもいい。それでも、いけるところまで、生きましょうよ」


 あぁ、彼女はなんて魅力的なんだ。

 僕はそれを否定できない。


 僕は、この世界にきて、アリシアに剣を向けられて、あるいは、トカゲを食らおうとして、自分の肉体が簡単には死んでくれないことを知った。そしてユリシアと出会い、その生活のなかで、この世界で死んでもいいことを知った。


 それからは、すべてが上手く生きて、上手く死ぬための道のりだった。この世界の人々を(いやもっと恣意的だ)僕の眼に入る人々を、救って幸せにして、その悦に浸りながら、だらだらと生きていくこと。それが僕の答えだった。

 

 だがそれが答えだとして、僕にとっての正解であるとは限らない。


 あのとき、僕が剣を造ることを決意したとき、

 ただ生きていこうとしていただけの僕の心に、ひとつの火が燃えた。

 この滅びなき世界に、まだ存在しない結末を造り出したいという夢。

 その先に、まだ見ぬ世界が待っているんじゃないかという期待。


 元の世界に戻れなくても、幸せでなくなっても、

 僕は、このドルマータという現実を生きてみたいと、思ってしまったのだ。

 ならば、救いなどなくとも、僕はどこまでも歩き出せるはずだ。


 ユリシアはそう言っているのだ。


「あなたも、独りよがりの幸せを望みたい人間でしょう?」

「どうやらそうらしいね」

「女神が選んだのが分かる。あなたは、やっぱり勇者に向いているんだわ」


 ユリシアがようやく僕を認めた。

 その両目は、今はしっかりとこちらを向いている。

 いや、そうじゃない。彼女が遠のいていたのではない。

 僕が欺瞞のなかにいたのだ。


「アリシアは僕がウソを吐いていると言ったんだ。本心からは、君もアリシアもどうなっても構わないと思っていること。ここで抱いた感情に、なんの意味もないと分かっていること。本当は、たった一人で生きてしまっていること」 


 ユリシアは口元に笑みを浮かべて、目を閉じる。


「それは正しい。あなたも私もずっとこの世界で一人ぼっちだった。そしてこれからも一人で、そこには協力も愛情もない。ただ私たち、が佇んでいるだけ」


 涙は落ちない。

 それは彼女が後悔などしていないから。

 僕もそうだ。

 自分のことにしか真剣になれなくて、でもそのことで苦しんだりはしない。


 だが、


 最後に僕を助けた彼女のことが気にかかっていた。

 あの子は、自分が助からないから僕を助けたのだろうか。

 それとも、自分と僕を天秤にかけて、僕を助けたのだろうか。


 その答えは、僕には分からない。

 だが、ユリシアなら分かるはずだ。

 彼女なら、アリシアの心が分かるはずだ。


「ロックが死んだとき、君は、アリシアが彼を殺すことが分かっていたな」


 僕が問う。


「もしかしたらそうかもね」


 彼女は無感情に答える。


「君は保身のためにアリシアを止めなかったな」

「それが私が信じてきたものだもの」

「なら、アリシアがなぜ僕にサミュラを寄こしたか、それも分かるな」

「優しい妹をもって、誇りに思うわ」


 僕はたしかに独りよがりな幸せを求める。

 救えない世界を救いたいとウソを吐くのはもういらない。

 自分のしたいようにして、この世界の先へと行きたい。


 だが僕はユリシアほど強くない。


 この心はもっとずっと弱く、アリシアにも誰にもなれない。だから僕はあの砂のうえでアリシアを抱いたとき、心の片隅が冷えてしまったのだ。彼女を知ればしるほど、思うがままにふるまうことが恐ろしくなり、強い力に怯えてしまい、人を愛さないことを許せない、もう一人の自分の心に気付いてしまった。


 それはユリシアにはなく、僕にはあるものだ。

 僕と彼女は、似ている。

 だが、どうしようもなく何かが違う。


 どうしようもなく、僕のなかにはアリシアがいる。

 そして彼女の眼差しが、言葉が息づいている。

 あの鋼のうちに隠された熱が、優しさが、美しいきらめきが。


「ユリシア、君の幸せのなかには誰もいない」

「他人の心に思いを馳せるなんて、傲慢すぎると思わないかしら」

「そうかもしれない。だがその押しつけがましさを、僕は棄てきれない」


 僕は短剣を彼女から離した。


 問いかける。


「最後に教えてくれ。君は僕を愛していたのか?」

「いいえ。でも信じているわ」


 ユリシアはそう言う。


 なにを?

 とは、訊かなかった。





 その夜、僕はイールティアを出た。

 アリシアのサミュラに乗り、あの岩場へと向かう。


 信じれば、サミュラは求める場所へと導いてくれる。


 一日を走り続け、夜更けにようやく僕は、一本の短剣を見つける。

 砂のなかに埋もれた粗忽な剣は、持ち主を失っていた。

 血痕ひとつなく、アリシアの姿は砂のなかに消えていた。 


 だが僕は、カバにまたがって、砂漠のどこか遠く、

 誰もいない場所にいるアリシアを目指して、旅を始める。


 サミュラは、精神核を追うことができる。

 この砂の海のどこかに、取り残された少女を探し出すことができるのだ。

 僕はきっと、彼女の強靭で高潔な意志が、

 どこかの流砂に浮かんでいるに違いないと確信していた。


 しかし、アリシアが僕の前に現れることはなかった。







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