第17話 「圧縮刻印」<エンコード>

 その後もリーゼルは、午後の授業もついて行くとゴネていたが、この前図書館で借りて、岩平が全く読めなかった9冊の物理専門書を彼女に与えると、読みふけっておとなしくなったので、どうにか授業は受ける事ができた。


 そもそも、そこまでべったり張り付かなくても、辺理爺さんの結界とやらが敵の侵入を阻むので、すぐには入って来れないという話なのだからそこまで神経質になる必要はない気もするのだが……。


 案外、リーゼルがついて来たのは、家でお留守番するのが寂しいとかそういう理由なんじゃないかと岩平は思い始めていた。


「……で? 話ってなんだよジジイ」


 とにかく約束の用件を済ませていこうと、電気屋の店番が終わった後、放課後6時に辺理爺さんの待つ体育館裏へと赴く。こういう時、学校から距離の近いあの家は便利だなと思う。


「………お主、前回の戦いの時、物理学書を放り出して行ったよな。しかも、量子力学(クオンタム)と熱力学(サーモ)の二冊とも」


「ああ、そうだけど何か?」


 そう答えた次の瞬間、唐突にも辺理爺さんは目にも止まらぬ速さで岩平に向かって突きを繰り出す。腹パンである。どこか説教モードだとは気付いていた岩平だったが、いきなり来るとは思わなかった岩平はそれをまともに喰らってむせてしまった。


「げほゴホッ! 何すんだジジイ!?」


「左手の甲を見てみろ岩平。今、お前の持つ量子力学(クオンタム)の本を『圧縮』(エンコード)した。物理演算(シミュレート)の力を使う時は、必要なページ情報をその方程式の中から『解凍(デコード)』して使え。まぁ、それはちゃんと術式が使えるようになってからの話じゃが……」


 完全に折檻の類かと思ったが、どうやら違うらしい。慌てて左手の甲を見てみると、何やら方程式が入れ墨のように刻まれているのが見えた。意味は分からなかったが、その方程式の形には見覚えがあった。そう、リーゼルが物質波(マター・ウェーブ)を放つ時に展開していたシュレーディンガー方程式とか言うヤツである。


「これでもう、いくら忘れっぽいお主でも、本を忘れる事はあるまいよ。文字通り、『本を身に付けた』のじゃからな」


 どうやら、辺理爺さんは自分が量子力学(クオンタム)の本をどこかに置き忘れてしまって、リーゼルが戦いの時に術式が使えなくなってしまう危険があると考えたようだ。その対策の為に、岩平の身体そのものへと本の情報を刻印したらしい。                 


「式展開自体は、もうリーゼルが勝手にやってくれる。後はお主がその左手の方程式を通じて計算資源(リソース)を提供すればいい。これが現状、とりあえず取れる最善策じゃ」


「な、なるほど、そんな手が……」


 素直に関心する岩平。岩平も本を持ち歩くのはちょっと動き辛いので少し辟易していたのだ。それが改善されるとならば大歓迎である。


「じゃあ、その熱力学(サーモ)の本も同じようにできるのか?」


「残念ながら、コイツは今は後回しじゃ。現状では、量子力学と相性が悪いんでね。なんせ理論の適用範囲が違いすぎる。かたやミクロ領域と宇宙規模の違いだ。これでは上手く融合は出来ん」


 そこまで聞いて、岩平は少しがっかりした。おかげで持ち運ばねばならない本は一冊減ったものの、熱力学の本をもち運べばならない事は変わりがない。岩平としてはなるべく自分も戦いたいので、手ぶらの方がいいのである。


「……まぁ、もっとも、その中間を埋めて、ミクロとマクロを繋げる『統計力学(スタティスティクス)』のような本を入手できれば、話は別じゃがな」


「統計力学……ねぇ、どういう内容かはサッパリ想像できんが、あの『神』の説明で言っていた緑の本の事かな……」


「でもまぁ、ものは試しとは言うし……、『圧縮』(エンコード)できるかどうか試してみるかの?」


 その瞬間、辺理爺さんの唇の端が邪悪に歪むのが見えた。


 さっき、折檻では無いと言ったが前言撤回である。よく考えればさっきの腹パンには若干悪意が込もっていたような気がするし、そもそも、腕に刻印するのに何で腹を本気で殴る必要があるのかよくわからない。


「オブウゥゥゥゥゥッ!?」


 腹パンがただの嫌がらせだと気付いた時にはもう、岩平は二発目のボディーブローをきれいに喰らっていた。



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