第9話 シュレーディンガーと物質波

 凄まじい剣戟の音が響く中、岩平は山ノ手一番街を抜けて、ようやくリーゼルのいる正門前の丘へと追い付く。


「ハァハァ……なんつー早さだよアイツら……」


 丘の上で戦闘している二人を見ると、目にも止まらぬ速さで刃を交えている。とても人間業とは思えない。一体これのどこが『論争』だと言うのだろうか? ただの殺し合いにしか見ええない。


「おい! てめぇら、待ちやが……ムグッ!?」


 岩平が声を上げようとしたところで、背後の何者かに口を抑えられてしまう。


「んーッ! んーッ……!」


 岩平は冷や汗をかくが、後ろから聞こえてきた声はよく知ってる人の声だった。


「馬鹿かお主! 演算者(オペレーター)がノコノコと……、殺されたいのか!?」


「なんだジジイか……」


 安堵したところで、岩平はさっきから段々と強くなってきている謎の頭痛の存在に気付く。その頭痛は偏頭痛のようで、ガンガンと響いてきてうっとおしい事この上なかった。


「つーか何か、さっきからすっげぇ頭が痛いんですけど……」


「当然じゃ。あの娘がバカみたいにお主の脳の計算資源(リソース)を使っておるからな。……とはいえ、相手があの『天才の代名詞』の男では無理もないが……」


 辺理爺さんは民家の陰に身を潜め、物理学者(フィジシャン)たちの戦いを眺めながら言う。


「儂でもあの男相手では、敵うかどうか分からん。ここは少し観察して作戦を立てるべきじゃ」


 とりあえず岩平は、そう言う爺さんに同意して様子を見る事にした。爺さんと同じように隠れて、敵の動きを伺ってみる。






 どれだけの斬撃をいなしただろうか。無尽蔵に高速移動をする相手に対応するリーゼルの息遣いは荒くなってきていて、スタミナはもう限界に近付いてきていた。


「……やるね。光学計算を使った予測で無理矢理動きを合わせてくるか……」


 ボロボロになりながらも戦うリーゼルを前に、アルベルトは一応の敬意を見せて、光線弓を構える。


「だがこれで――――終わりだよ」


 これで決着を付けるつもりなのだろう。アルベルトの身体がこれまでで一番眩く輝きだす。


 ―ここだ!!!!


 ―いくら速くても、直線状の動きしか出来ない奴にこの技は避けられない!!!!


 光速―――――それは、万物のトップスピードである。何人たりともこの約30万キロメートルを超える事は出来ない。リーゼルだって、光学計算技術を習得していなければ、瞬殺されていただろう。相手の軌道を先に計算して動かなければ、刃を受け止める事さえ出来ない。だがそれが故に、そこに勝機はあった。


「シュレディンガー方程式―――『物質波(マター・ウェーブ)』!!!!」


 リーゼルは確率振幅をこじ開け、自分の血液を量子化させる。それは、量子効果を最大限にまで引き出した血液の物質波だった。その特大の物質波は、槍斧の斬撃として大量に放たれる。この物質波を喰らおうものなら、物体の『存在確率』そのものが脅かされ、消滅してしまうだろう。


 このタイミングなら、この技を避ける事は出来ないと考えたリーゼルは渾身の力で槍斧を振り降ろす。それがリーゼルの策だった。アルベルトは自分の身体を光に変換している間は、軌道の変更が出来ないという特性があると思われた為である。


「ローレンツ変換――――『放・射・光』(シンクロトロン・ラジエーション)!!!!!!」


 しかし、アルベルトは全く動じずに、返しで最大級の光の斬撃を放つ。それは世にも鮮やかな七色の光(スター・ボウ)だった。轟音をあげながら放たれたその斬撃は、リーゼルがありったけの力を込めた物質波を容赦なく呑み込んで掻き消し、輻射圧で上空へとハネ飛ばしてゆく。ここ一番の大技をあっさりと吹き飛ばされた彼女は、目の前のあまりの光景に呆気に取られるしかなかった。


「残念だよ。君はやはり―――あの頃からちっとも成長していない」


 次にアルベルトの声が聞こえたのは、リーゼルの後方にある学校の変電設備の電柱上からだった。


「くっ……!!!!」


 一瞬、反応の遅れたリーゼルは、斬撃を受け止めるのが間に合わず―――――――――


「あ…………」


 刹那の出来事だった。気付けばリーゼルの左手首から先が無くなっていた。足元には血まみれの左手が転がり、左手首からは鮮血が噴水のように噴き出す。


「キャアアァアアアアアアアアッ!!!!!! 手が!!!! 手がぁあああああああああーッ!!!!!!」


 遅れて来た激痛に、彼女は左腕を抑えながらのたうち回る。


「……憐れな娘だ。君はこの世にいちゃいけない存在なんだよ。せめて僕が楽にしてあげる」


 リーゼルは血だまりの中にうずくまる。それを見たアルベルトは憐みの目で彼女へと近づいて行った。


「ねぇ……どうしてよ……。どうしてそれ程の力を持ちながら、なんで母さんを捨てたの……?」


 彼女のその涙声を聞いた途端、アルベルトの足がはたと止まった。


「ねぇ答えてよ…………。どぉしてアタシを捨てたのよぉっ!!! 『父さんっ』!!!!!!!」


 彼女の涙ながらの叫びが夜の街にむなしく響く。それは、彼女が生前決して満たされる事の無かった『願い』だった。






「父さんだと……? まさかあの子は……」


 その様子を見てた辺理爺さんは、何かに気付いたようにうち震える声を上げる。


「アインシュタインと妻ミレヴァとの書簡上でしか確認されていない伝説の存在……、わずか二歳で捨てられたとかいう幻の隠し子…………。あのアインシュタインの実の娘―――――――――『リーゼル・アインシュタイン』!!!!!」


 しかし、その言葉を聞いてる者は誰もいなかった。何故なら、激情にかられた岩平が既にリーゼルの前へと飛び出していたからである。


「って……、馬鹿かアイツ!? 物理学書すら持たずに飛び出すなんて!?」


 辺理爺さんがそう言った時には、もう岩平には何も聞こえていなかった……。

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