君の彼女でよかったとよ。

第3話

「ふぅ……」

　隣に松葉杖をもたれ掛けさせて、冷たい空気に似合わない日差しのなか伸びをする。聴こえてくるのは、雀の囀りと、遠くのエンジン音……。

　午後の一時は、先ほどからする耳障りなものさえしなければ、心地いいものだった。

（しゃーしかね）

　それは、やって来て直ぐ目にした壁打ち場からだった。

　あそこには平日の昼間、サボリと思われるサラリーマンが、ストレス発散とばかりにボールを打ったり、夕方は夕方で、子供がラケットを振る姿を見掛けたりする。

　そうして今も、誰かが壁打ちをしていた。

（ほんとに打ちよう……）

　寝起きのような面持ちで、目の端に収めてみた。先程から聞こえてくる音が余りにも正確で、確かめてみたくなってしまったのだ。

　ここに限ったことを言えば、私が最も上手いはずだった。けれど、その私でさえ、あれだけ安定して打ったことは一度もない。

　その理由は、あそこは無いよりはマシという程度の代物で、壁は凸凹、足場も小石や砂埃があって途切れないようにさせるので精一杯なのだ。だから、一定のあの音を保つ為には、ピンポイントのボールコントロールと安定した球威が自然と要求されてしまう。そして、そんなプロのようなことが出来る人間なんて、この辺りにはいないと思ってた。　

（凄か……）

　私は吸い込まれるようにして見ていた。テニスシューズにジーンズ、腕まくりしたオフホワイトのトレーナー。熱くなって脱いだんだろう、変色しているフェンスの網目にライトグリーンのパーカーと思われるものを突っ込んで打つ少年の姿があった。

　同じ年くらいだろうか。

　やや華奢に見える後ろ姿と、二ヶ月弱とはいえ、白くなってきた私と比べる必要がないほどに白い肌が際立っている。

（上手すぎるやろ）

　少年は、素振りをしているかのようだった。

　スタンスを決めたまま動くことなく、フォアハンドストロークのモーションをリズムよく繰り返している。

（なんなん、あれ……）

　理解の出来ない状況を目の当たりに、私は暫し茫然となった。　

　けれど、（――なに様なん!?）　

　私の心を掻き乱したもの。それは、青を基調とするラケットに張った黒いガットに引かれてある線だった。ステンシルマークと呼ばれるもので、バボラットというメーカーのダブルラインの横線。数量は別にしても、無償提供を受けられるモブプレーヤーではない証……。でも、もしかすると、テニスショップで塗ってもらったものかもしれない。ガット張りに出すと、サービスとして入れてくれる店舗もあるからだ。けれど、あの上手さからして、白い線が契約選手だっていうことを告げているようにも感じられる。

（契約、か……）

　ずっとヨネックスを愛用してきた私が、高校でレギュラーになったら契約するとメーカーの人から伝えられたのを思い出して、思わず上の歯が下唇に触れてしまう。

（でも、あれって……）

　よく見ると、少年の使っているラケットが最新のモデルじゃないことに気付く。あれは多分ひとつ前のモデル。それに、黒のシューズも同じメーカーだったけれど、あれもそうじゃないだろうか。

（契約しよったら、新しいのば支給されるけん、それ使うと思うんやけどね。もしかして切られたんかな？）

　成績不振。あるいは、素行不良……。

（タバコ、吸ってたとか？）

　試合会場とかで見かけたことがないフォームだと思うので、実は大したことないんじゃないかと答えを出そうとしてみたけれど、他県ないし九州以外の人かもと思い直して成績は除外して考えてみた。結果、喫煙している姿を想像してみたものの、後ろ姿ではイマイチしっくりこない。

「ん？」

　そんなことを考えながら見ていた私の視界で、少年はラケットヘッドを突き立て突然うずくまる。

（どげんしたと？）

　打ってもらえなかったボールが捲（めく）れ上がったフェンスを通り越して、角度を変えながらやってきた。

　けれどそんなことよりも、彼の方が気になり私は目が離せないでいた。

（大丈夫なんかね……）

　凝視する私は、次第に不安に駆られはじめる。

（行った方がよさそうやね）

　松葉杖の一本を引き寄せて、私は腰を浮かした、と同時に、頭を持ち上げた少年……。更に見守る私の視界で立ち上がると、大きく深呼吸する。

（大丈夫そうやね）

　ボールの行方を探し始めた少年。すると、「そこの君！　下からでも上からでもいいから、そのボール、こっちにお願い！」と、振り返り爽やかな声を送ってきた。

「――殺す」

　どうやら、彼の存在は、私を卑屈にさせるもののようだ。

　あそこへ立つことのない私。

　そんな私へ向けて、屈託のない笑顔でボールを寄越せと言う。

　心配した思いが掛け合わさり、負の感情が鬱蒼（うっそう）とする。

「自分で取らんね……」

　浮かしたままの腰を勢いよく持ち上げて、憎悪のこもった独り言を口しながらケンケンでボールに近づくと、松葉杖をクラブに見立ててブランコ目掛けて豪快にスイングしてやった――！　

「ゔっ!?」

　手前で思い切りダフッた私の手に強い衝撃が走る――。猶も恥ずかしいことに、黄色い物体は可愛く転がり、煉瓦の段差にぶつかるとフワリと宙に浮いて敢え無く砂場（バンカー）に捕まってしまった。

「……か、帰ろーっと」

　沸騰するような羞恥心から、もう一方の杖をイソイソと手にしてソソクサと私は立ち去った――。