9話 もうひとつの家

 一目散に商店街のほうへと走る。

 とにかく最初の目的だけは果たさないといけない。


 家に行く。


 俺の優先順位は愛奈が一番だ。あの人たちがどうなったってどうでもいい。自分の考えに妙に心が冷えたが、こんな罪悪感など捨ててしまえばいい。

 でも、俺の選択を聞いたら、愛奈はどう思うだろう――そんなことをつい考えてしまう。

 もはや俺には愛奈しかいない。


 愛奈さえ取り戻せればあとはどうでもいい。

 そしてもし、愛奈を連れて帰ることができたら――。


 そこまで考えて、ハッとして建物の影に隠れた。あのでかい影がのしりと道を渡っているのが見えた。そろそろと様子をうかがい、通り過ぎるのを待ってから進む。焦ってはいけない。

 せいぜいまだ数時間だと思っていた時間は、まるで早回しのように過ぎていく。

 俺の感覚がおかしいのか、それともこちらの世界がおかしいのか。


 それに、あの人影のようなもの。

 あいつらはふらふらと歩くだけで何もしないが、できるだけ接触しないほうがいい。ここの住人なのかもしれないが、あのでかいのとは何が違うのだろう。


 ……まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく先に進むことだ。

 あのでかいのが通っては隠れ、通っては隠れを繰り返し、少しずつ進んでいく。普段学校へ行くのに通る交差点まで出ると、着々と近づいていくのを感じた。ここも人はいない。


「愛奈! いるなら返事してくれ!」


 途中で声を張り上げたが、返事はなかった。

 住宅街の道を通り抜け、見覚えのある石垣の近くを通り、色のついていない信号機の横断歩道をそのまま突っ切る。

 そして角を曲がろうとして、慌ててもう一度隠れた。


 あいつがいた。


 ぬっ、と姿を現わしたそいつは、ずしん、と現実感が無いのに重量感だけをともなって道を歩いていった。

 あまりに慌てすぎて、どくどくと心臓が高鳴る。何度会っても慣れない。


「はっ……はっ……」


 思わず出た声を止めるために、口を手で塞ぐ。

 きょろり――とあいつがあたりを見回したのを感じた。だらだらと汗が出てくる。こんなにも心の中は冷え切っているのに、心臓の音だけをどくどくと感じられる。


 ――見るな、見るな、見るな!


 必死になって願う。

 あまりにバカみたいだが、今はそれしかできなかった。するうちに、相手はずしり、ずしりと脚を引きずって道を横切って行ってしまった。

 俺はそれでもまだ立ち上がることができなかった。

 ようやく口から手を離した時には、ひやりとした風が口元を撫でていった。


 どうにか家にたどり着くと、こそこそと隠れながらドアへと向かった。中に誰がいるとも知れない。

 そっとノブを回す。

 鍵は開いているようだ。


 ゆっくりと扉を開けると、見慣れた玄関が姿を現わした。そこからまっすぐに伸びた廊下は、家とまったく同じ配置でドアやカレンダーがかかっている。


 ――家の中も、同じなのか……。


「愛奈?」


 小さく呼びかける。

 返事はない。

 しんと静まりかえった家の中は、あの日の出来事を思い出すようだった。

 母さんの葬儀が終わって、家に帰ってきたあの日のことを。


 ……でも、今はそんなこと考えてる時じゃない。

 どうにも此処の景色は、あの日のことを思い出してしまう。俺は頭を振って、中へと入り込んだ。


「……愛奈?」


 そっと呼びかける。そのとき、カタンと居間のほうから音がするのに気付いた。

 ……あの人影がいる可能性もある。

 俺は極力足音を立てないように廊下を進む。そして、そっと居間の入り口から中をうかがう。少しずつ目で中の様子を確認する。

 とうとう目だけではどうにもならなくなり、覗き込んだ瞬間だった。


「うわっ!?」


 振り下ろされた棒のようなものを避けきれず、頭にくらう。

 覚悟はしたが、それが新聞紙のようなものだと気が付くのにそう時間はかからなかった。棒きれがそっと取り除かれると、そこでぽかんとした目があるのに気付いた。彼女はいつもと同じような調子で言った。


「お兄ちゃん……?」

「……愛奈!」

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