2話 不可解な事故

 愛奈は母さんが死んで以来、ずっとふさぎこんでいた。


 無理もない。

 愛奈と母さんは幼稚園の頃から一緒によくショッピングにも出かけるような仲で、小学校に上がってからも親子というより友達のような仲だった。同じ女だというのもあっただろうし、第一子である俺が男だったというのもあるだろう。


 母さんが亡くなったのは、二年前の寒い冬のこと。

 俺が中学の一年、愛奈が小学校の五年の頃だ。

 突然の事故だった。

 相手は七十代の老人。アクセルとブレーキを踏み間違えたというのが向こうの言い分だった。理由さえつければそれで済むと思っていたらしく、警察沙汰にするなんてとぶつぶつ言っていたのを覚えている。人ひとり死んでいるというのに、あまりの物言いに絶句した。処理はすべて父さんがやったが、それでも犯人の言い草は驚くべきものだった。

 病気やけがであったなら、まだなんとか自分の気持ちを整理できたかもしれない。

 それ以上に、愛奈の支えになってやれたかもしれない。


 愛奈は、現実を受け止めることができなかった……できなかったのだと思う。

 気が付いたときには、愛奈は部屋に閉じこもったまま出てこなくなった。何もかもが遅すぎたのだ。

 俺は自分を責めた。

 悲しいのは自分だけではなかった。愛奈が一番傷ついていたはずなのに、肝心なときに愛奈を支えるべき人間が打ちのめされていたのだ。

 そのことで父さんと何度か言い争いになったが、八つ当たりなのはわかっていた。


 事故の後始末が一段落し、少し早い一周忌が終わり、父さんが新しい妻――茜さんを迎えても、愛奈はふさぎこんだままだった。


 だからだろうか。

 愛奈の存在は少しずつ消えていっているようだった。それこそ最初から存在しなかったかのように。

 いや、むしろ俺自身がそう見られている。

 新しい母親なんて要らなかった。

 ただでさえ、本当の母親が亡くなり、妹は引きこもり。新しい母親とも関係がぎくしゃくしているとなれば、腫れ物に触るような態度を取られても仕方が無い。

 たった数日だというのに、誰もが俺たち家族の存在を忘れたようだった。


「おばさん、愛奈のこと何か知りませんか?」


 昔は愛奈のことをかわいがってくれた近所のおばさんも、俺がそう尋ねるとそそくさと目をそらした。


「ごめんなさいねえ、マナちゃんって……ええと、誰だったかしら……」

「……いえ、いいんです」


 彼女に悪意は無いのだと自分に必死に言い聞かせる。

 母さんが亡くなってからずっと、愛奈は家に閉じこもってしまった。だから二年近くは顔を合わせていないことになる。忘れてしまっても仕方がないが、それでももっと言うべきことはあるだろう。

 俺がいらだちを隠しもしなかったからだろう。おばさんは奇異な目で俺を見ると、こそこそと家の中へ入っていった。


 愛奈は存在しないことになってしまったのか。

 行方不明になったことで、本当にからっぽの存在になってしまったのか。


 その愛奈が外に出て俺を迎えに来た光景は、今も鮮明に焼き付いているというのに。


 ――「お兄ちゃん!」


 きっと俺を驚かせようとしたのだろう。

 帰り道、交差点の向こう側で手を振る姿に驚いた。そして本当に嬉しかった。

 何もかもが空虚だった俺の生活に、一筋の光が差したようだった。


 信号が青になるのを待って、走ってきた愛奈は――信号無視のトラックに轢かれ、そのまま姿が見えなくなった。

 ドン、という鈍い音は妙に遠く聞こえた。だが、今でもその音は自分の中に残っている。


 通行人の悲鳴が響いたが、とっさに何が起こったのかわからずぽかんとしていた。

 何人もの人々が事故を目撃していた。

 確かに女の子がトラックに撥ねられた、とその場のほとんどの人間が証言した。

 中には、そのまま逃げていったトラックのナンバープレートを記録してくれていた人もいた。

 真っ赤なナンバープレートが印象的で、よく覚えている。

 ハマニシ運送という運送会社の名前を覚えている人もいた。地元でもそこそこ有名な運送会社で、それに関しても一致していたはずだ。


 それなのに、地面に転がったはずの愛奈の姿はどこにもなかったのだ。


 当初はトラックに引っかかってそのまま引きずられたのかと、恐ろしい想像が頭に過った。

 何人かが声をあげながらトラックを追いかけてくれたが、スピードを緩めぬまま走っていったトラックは、あっという間に姿を消してしまった。追い切れなかったのだ。

 さすがに人の死体を引きずりながら走行していたら騒ぎにもなるだろう。

 それが無いということは、トラックに引っかかっているというのも考えにくい。でなければ警察の怠慢だ。


「確かに女の子が轢かれたわよね? どこへ行ったの?」


 連絡をしてくれた人はいたが、狐につままれたような顔をしていた。

 身内が近くにいるということで警察も来たが、誰もが困惑していた。


 まさか面識のない人々がこぞって悪戯を仕掛けるなんて考えられないし、とにかく調査だけはするけれど、期待はしないでほしいという返答だった。


 なにしろ、被害者も加害者も最初からいなかったかのように消えてしまったのだ。


 それ以来、愛奈は行方不明になった。


 ただでさえ重苦しかった家庭内の空気はますます沈痛なものになった。

 茜さんも父さんと一緒にいろいろと手続きをしてくれていたが、どこか冷ややかだった。彼女が継母だという事実も加わり、家庭内の問題にまで踏み込んでこられたのはさすがに怒りが沸いてきた。彼女の存在がどうであれ、愛奈が悪し様に言われるのには我慢ならなかった。


 もちろん俺だって、茜さんが警察とやりとりしてくれていることに感謝がないわけじゃない。父さんだって仕事があるし、ありがたいとは思っている。

 まがいなりにも一家の――少なくとも子を持つ父親の妻としての責務は果たそうとしてくれているのだ。

 それでも、それはそれだ。


 結局、警察は子供の家出のようなものとして処理することになった。


 ――まあ、家出だってしたくなるだろ。


 けれども愛奈が家出なんてするような人間じゃないというのは、俺が一番よく知っている。


 愛奈が家に籠もっている間、どんな気持ちだったのか。

 どんな気持ちで、父親の新しい妻と二人きりでいたのか。

 それを考えるだけでもやもやと心が曇る。


 もっと俺が年齢を重ねていて、一人前の男だったら。

 きっと、愛奈を連れて二人きりで生活できていたのだ。

 父さんも、茜さんと二人で新たな生活に踏み切れたに違いなかった。

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