ご相伴に与り、打ち明け話?

 保管棟から外に出ると、夕空は僕が飲んだワインより濃い紫色に染まって夜を兆していた。

「どうだ板倉さん、夕食を一緒に?」

 雄司さんからの好意的な誘い。

「板倉さんも一緒に食べましょう。日本人同士だから積もる話も多いと思うもの」

 木下さんはすでにその気で、何が食べたいですかと僕に訊いてくる。

 もてなそうとしてくれる人達を前に、辞退しなければならない理由でもない限り、誰が断れるだろうか? もちろん僕は誘いに快く応じることにした。

「それでは二階へ参りますか」

 保管棟の二階に雄司さんは親指を向けた。

「この建物の二階に、食事できる部屋があるんですか?」

「食事の部屋どころか、ここの二階はこのかと俺の本当の住まいだ。俺らは普段、ここで寝起きしてる」

 ということは、葡萄畑に来る前に雄司さんのいた建物は何なんだろう?

「さっき俺が居たのは、客の応接用に建てた離れだ」

「だから、あまり大きくなかったんですね」

「うん、まあそういうことだ」

 離れの説明はそこそこに済まして、僕を連れて親子は建物の裏手に回った。

裏手には樫材で組まれた外階段が二階の入り口にまで繋がっていて、その階段を上がってこれまた樫材のドアから中に入る。

 ドアの開けてすぐは日本風の玄関で、タイル張りの沓脱ぎがドイツ暮らしが続いていた僕にはとても懐かしかった。

 玄関を上がった右手の壁に、室内靴であるファブリックのスリッパが五組立てかけてある。

 このかさんが僕の履くスリッパを選んでくれて、五組の中でも最も少女趣味なふわふわした仕立てのピンクホワイトのスリッパだった。どこも擦り切れた部分がなかったのは、誰にも履かれないからではないかと、今にして気付く。

 二人の先導に着いていきリビングの敷居を跨ぐと、現代日本の模範になるような居住空間が目の前に現れた。

 銀色のシステムキッチンとメタリックシルバーの冷蔵庫、脚の長いダイニングテーブルにセットで買ったと思われる似通ったデザインの椅子、サイドボードの上にテレビと真向かいの五人座れるソファ、など不動産の物件紹介カタログに載っているような内観とさほども変わらない。

「どうですか、うちのリビングは?」

 雄司さんが誇らしげに僕に感想を求めてくる。

「すごいですね。日本の家みたいですね」

 モデルルームみたいという直接の表現を避ける言い方で、僕は答えた。

「ははは、日本に似せたのは実は理由があってだな」

 このか夕食作りは頼んだぞ、と雄司さんは言葉の途中絵娘のこのかさんに夕食の仕度を一任して僕の腕を掴み、

「さあ、俺の部屋に行きましょう」

 と半ば強引にリビングから遠ざけられた。

 リビングの右の斜向かいの部屋に僕は連れ込まれる。

 部屋の照明を点けてドアをしっかりと閉めてから、雄司さんはようやく僕の腕を放した。

「このかの料理が終わるまで、男同士語り合いましょうや」

 話す機会を待ちわびていたかのような、嬉々とした笑みと口調だ。

「何を語り合うんですか?」

 訝しく思い僕は、雄司さんに尋ねた。

「何でも構わん。俺に何か訊きたいことはあるか。取材で来たんだろ?」

「まあ、そうですけど。取材の質問に答えるのに、木下さんがいると都合が悪い事でもあるんですか?」

「少しな」

「えっ、あるんですか?」

 雄司さんは確と頷いた。

「あるよ。このかが生まれる前の話とかな」

「何があったんですか?」

「よくある、若気の至りってもんだよ。板倉さんもあるだろう?」

「僕は……」

 現在よりも若い時分の記憶を探ってみる。話のタネに出来るような失敗は、僕には見つからなかった。高校の模試でちょっとした失敗はあったけど。

「これといって覚えがありませんね。僕って中身の薄い人生を送ってるんですね」

 自分で言って、涙がほろりと零れそうだった。

 慰めるような目をして、雄司さんが僕の肩に手を置く。

「これから中身の濃い人生を送ればいいじゃねーか。失敗は後になってみないとわからないことだしな、今は失敗と思わずとも後年には失敗に含まれる出来事もあるもんだ」

 雄司さんの言葉で、僕は父親のような優しさに触れた気がした。

 言ってることは自体はそれほど月並みだけど、不思議と心に沁みてくる。

「板倉さんにだけは伝えておこうと思ってな」

 僕が問わずして、雄司さんは記憶の靄の奥にいる誰かを見定めようとするような目で、しんみりと打ち明ける。

「俺の失敗は、このかに母親の姿を見せられていないことだな」

 僕は息を呑んだ。このかさんは自分の母親を知らないのか。

「木下さんの生まれる前に事故とかで亡くなったんですか?」

 それ以上の驚愕を避けたいこの時の僕の心理が、悲劇だけれども小説などで使い古された事実を勝手に付け与えていた。

「いや、違う」 

雄司さんは確然と首を横に振った。

「このかの母親は俺も知らないんだ。どこの誰なのかも見当がつかない」

「どういうことですか、それ? 木下さんの母親が誰なのか特定できないということですか?」

「そうだ」

「でも雄司さんが父親なら、雄司さんが交際したことのある女性でその中で身体的関係を結んだ女性ですよね? それなら一人一人当ってもいずれは特定できるんじゃ?」

「それが俺は女性と交際した経験がないんだ。だからよ、娘なんて出来るはずないんだ。それなのに、このかは俺の事を実の父親だと思い込んでる」

「じゃあ一体、父親と母親は誰なんですか?」

「知らん。誰かが俺と偽っていたのか、母親の方が交際相手を俺だと思い込んでいたのか、今の父親である俺がこのかの出生に何も関わっていないんだ」

 雄司さんは理解しがたい顔つきで肩を竦めた。

 僕は聞いていけないことを聞いてしまった。話し出したのが雄司さんからだったとはいえ、木下さんの出生の謎を今日初めて会ったばかりの僕が知っていていいはずがない。

「赤の他人の僕が、木下さんの秘密を知っていてもいいんですか?」

 恐る恐る雄司さんに訊ねる。

 雄司さんは諦念を孕んだ口調で返す。

「俺も板倉さんと同じく他人だ。ただ父親だと思われてることだけが特別な他人に過ぎない」

「そんな、雄司さんが他人なわけありませんよ。きっとどこかで血の繋がりがありますよ」

「そうだと嬉しいけどな。けどな、親戚の誰に聞いてもこのかの両親らしい人は浮かび上がってこないんだ」

「じゃあ木下さんは両親が自ら現れない限り、他人に囲まれて生活していくってことですか?」

「板倉さん。あなたが良ければ、このかの支えになってやってくれないか?」

 僕の問いには答えず、真摯な表情で頼んできた。

「僕がですか?」

「板倉さんだからこそ頼むんだ。このかもあんたに好印象を持っているようだしな」

「あっ、そうなんですか。それは嬉しいな」

 誰に関係なく心証良く見てくれてるのは喜ばしい。

「嬉しいのか。それならば尚更、お願いしたい」

「僕に出来ることであれば、助けになりますよ。それで僕は何をすれば?」

「今のところはないな。それより、そろそろ夕食が出来上がってる頃合いだ。このかの手料理は絶品もんだぞ」

 心の底から誇るような口調で言った。

「それは楽しみですね」

 僕も口に入れた途端に旨味が広がっていく有様を想像しながら、気持ちが浮き立った。そして、二進も三進もいかない事態に陥るなどとは想定できるものではなかった。

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