第四の邂逅

  懐旧談が胸突き八丁のところで、結末を思い返して悲しみがぶり返してきたように、ジョッキに注がれたビールの液面に、老紳士は視線を落とした。

 よほど辛い出来事が話の最後に待っているのだと、如実に表している。

「無理することはないですよ、そこまで聞けただけで満足ですから」

 本心を言えば、お金を払ってでも続きを知りたいのだ。かといって本当にお金を差し上げたならば、老紳士は哀話を軽薄に換金されたような気がして、蔑みの目を向けて口を閉ざすだろう。

 ストーリーが紡がれるのはあくまで記憶を有する本人次第、というわけだ。

 店内をたゆたう典雅な管弦楽曲が、沈黙を紛らしてくれる。

「……すみません、黙ってしまいまして」

 老紳士はだんまりを詫びてから、悲しみを払拭する、もしくは打ち消すように、勢いよくビールを呷った。

 喉仏が唸るピストンのように上下して、大量に飲み下していく。

「かっはぁ」

 ビールを全て飲み干してジョッキをテーブルに叩きつけ、止めていた息を継いだ。

「一気飲み、身体に悪いです」

「存じておりますが、どうも酒の力を借りないと話せそうにないんです」

 途端に紅潮した頬を緩ませた。

「続きをお話しいたしましょう。長い身の上話もこれで終わりです」

 覚悟を決めた顔で、老紳士は結果の知れた終幕に向って口を開いた。


「相談と言って演奏旅行の決意を告げられた日から、約二か月が経っていました。

 グリジッドは旅に出ているのですから、当然自宅の電話には繋がりません。彼から連絡が入るまでは、二か月間音信不通でした。

 私がオペラ団体のオーケストラで定期公演会にむけての練習から帰ってきた夜の七時頃でした。

 一人寂しく夕食を食べている時置き電話が鳴り、受話器を取ると聞き覚えのない中年男性の声がしました。

『あの、木村義男さんで間違いありませんか?』

「ええ、間違いありませんよ。そちらは?」

『こちらは千葉県○○市の○○署、中谷というものです』

 私はドキリとしました。中谷という警官の所在は私が育った村のあった市なのです。そこも以前は村でしたが、町村合併で市に替わっていたのです。

「警察の方でしたか。それで私に何か?」

『死体の身元確認をしてもらいたいのです』

 一瞬、育ての両親の顔が浮かびました。軋轢があって里帰りなどろくすっぱして来なかった身ですから、来るときが来たかぐらいにしか思いませんでした。

「それで、私は何をすればいいのですか?」

 さほど動揺もなく、私は尋ねました。

『早急に来ていただきたい。時間が経つほど、身元確認が困難になりますので』

「わかりました。今から向かいますが、どこに行けば?」

『私のいる署まで来てください。そこからは案内しますので』

 詳しい署の場所を聞いた後、私は免許証などが入った鞄だけを持って自車で発ちました。

 二時間ほど車を走らせると指定された警察署に着きました。受付で名前を告げると、署内の奥から中肉中背の私服警官がこちらに急ぎ足で歩み寄ってきました。

「木村義男さんですね?」

「はい」

「○○署警部中谷です」

 中谷警部は形式的に挨拶した。

「遺体は先程、病死と断定されました。なので今は遺体安置所に安置されています」

「状況がわからないのですが?」

 両親の片方が死んで、実子ではないが戸籍上は息子である自分に連絡が届くのは当然なのだが、中谷さんの様子はやけに急いているように見て取れました。

「こちらへ」

 先導する中谷さんの後に続いて向かいました。途中で中谷さんの部下がついてきました。

 遺体安置所に入ると、ベッドのような台があり、長身の人が一人その台に仰向けで寝かされていました。

 私は血の気が引いて息を呑みました。思わず開いた口から意識が飛び出そうで、慌てて口を堅く閉じました。

「身元の確認を」

 中谷さんが事務的で念を押すように促しましたが、私はその必要はないという意思を伝えるため、目を閉じ首を項垂れ横に振りました。

 台に遺体となって寝かされていたのは、老衰でくたばった両親のいずれでもなく、リヒャルト・グリジッドさんでした。

 人間、受け止めきれない悲しみに直面すると、涙が出ないでものなのですね。私もその時に初めて知りました。

「リヒャルトさんは、市内の○○公園にある巨木の根元にもたれかかって亡くなっていました」

 中谷さんは私の顔色を窺いながら、悲痛な面持ちで述べる。

「そうですか」

「リヒャルトさんの物だと思われるスーツケースに、遺品が残っていました。その中に楽譜と一緒にあなた宛ての遺言の書かれた紙が見つかりました

「見てもいいですか?」

 私が許可を求めると、もちろんと言って中谷さんは部下に遺言を持ってくるよう指示する。部下がスーツケースを持って戻ってくると中谷さんが受け取り、留め金具を開けると私に橋渡ししました。

「一番上にあるのが、楽譜ファイルです」

 グリジッドさんから教わって音楽をやっている身だ。言われなくてもどれか判別できる、と警察の事務的な声に反感を抱きましたが、表所には出さないようにしてファイルを手に取り中を見ました。

 一ページ目には、『ラインの黄金』の楽譜と一枚折りの書簡。書簡を開くと、遺体からは想像できぬ達筆で文章がしたためられている。


『序夜

 私がヨシオと初めて出会った日、あなたはまだ少年で、私もとても若かった。ヨシオの青い瞳を見た時はとまどいました。

 あの時はどう話しかければいいのかわからず、すぐに立ちさってしまいました。

 変な男の人、ぐらいに思ったでしょう。とう時私は、西と東で分かれていた祖国ドイツと同じく敗せん国の日本が、どんなふうにすたれていたのか、知りたくて日本に来ていました。お金がなくて、たった一週間でドイツに帰ることになりましたが。ヨシオとの出会いが一番きおくに残っていました』


 これが遺言だとは思えませんでした。どう見ても回想録としか読めません。

 ファイルの二ページ目には、『ヴァルキューレ』の楽譜と同じく書簡。

 そこで私は、この楽譜ケースに収めれているのは、ワーグナー作の楽劇『ニーベルングの指環』全四部作の有名曲ではないかと推想しました。

 その推想が頭に浮かぶと、書簡の内容の大方が予測できました。

 二ページ目の書簡の文字に目を走らせました。


『二部

私とヨシオが次に出会ったのは、五年後のことでした。

 ヨシオには大変すくわれました。あの時もお金がなくてこまっていて、一日だけだけでも屋根のあるところで寝られてうれしかったです。

 工場長は今、何をしているのでしょか。死ぬ前にもう一度会ってお礼を言いたかったです。

 あの曲は『ドイツ人の歌』というドイツの伝統的な国家です。

 咄嗟の思い付きで演奏しましたが、私の胸の奥にある祖国への里心が奏でさせたのかもしれません』

 

 これもまた遺言とは似ても似つかない文面でした。

 ページを繰ると、案の定『ジークフリート』の楽譜と書簡が入っていました。


『三部

  私とヨシオが再会するのは、さる演奏レッスンの教室でした。

  ヨシオも年を取っておじさんの外見になっていましたが、目立つ青い瞳は健在で一目でヨシオとわかりました。

 この時は私も音楽の仕事で生計を立てていましたので、お金には困っていませんでした。

 しかし、ドイツに住んでいる父が母を残して亡くなった直後のことでしたので、手放しに再会を喜ぶことを避けました。ヨシオからしたら、冷淡と見えたかもしれない、ここで謝らせてもらいたい。

 ヨシオがヴィオラを選択してくれた時は、私は心の底から喜びました。過去に弾いた私のヴィオラを覚えていてくれたように思えましたから』


 グリジッドの言う通り、彼のヴィオラでの演奏が鮮烈に記憶に残っていたから、迷わずヴィオラを選んだんです。

 次のページには、やはり四部の『神々の黄昏』間奏曲『ジークフリート葬送行進曲』の楽譜と書簡が入っていました。


『四部

私はヨシオの気遣いを振り切り、演奏旅行へと旅立ちました。

  この時から自分の身体がガンの病魔が住み着いていることは知ってました。医師からも余命宣告をされるほど危とくでした。

  ヨシオに一緒に着いて行く、と言われた時、私は心の中で嬉しくて泣きそうでした。でも話をずらして気を逸らしました。往生の旅にヨシオを巻き込みたくはなかったんです。どうか許してください』


 私との出会いから別れまでを克明に書き綴った、思い出の手紙のような文だった。

 達筆な筆致の遺言の後に、死の直前に震えた手で書いたのであろう追記文が付記されていました。


『つい記

  ドイツのバイロイトのちかくにりょうしんがすんでいたいえとはかがある。わたしのなきあとはだれもくようできるひとがいない。おはかまいりといえのことをよしおにまかせた』

 

 弱々しい筆圧と小さく波打った文字が、グリジッドの命の名残を感じました。

 死の一瞬前まで両親のことを気に掛けているとは、私の胸に言いしれない切なさが込み上げてきました。

「お悔み申し上げます」

 楽譜と書簡を手にしたまま四、五分佇んでいた私に、木村さんが傷心に堪えないような声をかけてきました。

 私は臍を決めて、木村さんに尋ねました。

「この遺言、借りてもいいですか?」

「借りるも何も、遺産相続について書かれているわけじゃないですし、あなた宛てですから、大切に持っているべきですよ」

「わかりました」

 私は台の上で安らかな死相で仰臥しているグリジットさんに黙祷を捧げると、遺言を持って警察署を、そして日本を後にしました。

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