第29話 帰る場所ー緊張ー

 河上さん夫婦に言われて、少しだけ気持ちが楽になった。布団に入る前に、亮太にメッセージを送った。生存報告は最低限しなければならない。それはつい先日、自分が彼に言った事だ。


『今、知り合いのご夫婦の家に居ます。明日はそのまま出勤して泊まり。明後日には帰ります』


 暫くすると、スマホがブルッと振動した。見ると、亮太からだ。反応が早いので、ずっと待っていたのかもしれない。


『連絡してくれて、ありがとう』


 分かったとか気をつけろとか、そう言う言葉を想像していただけに、ありがとうは思いもよらなかった。まるで、生きていてくれてありがとうと言われたようだ。

 私は不覚にも涙を流してしまった。


(目が腫れるから泣きたくなかったのに、亮太のバカッ)


 その夜は私らしくなく、殆ど眠る事ができなかった。


 * * *


 翌日、私は河上さんと出勤した。


「森川、けっこう腫れたな」

「はぁ。最悪ですよぉ、もうこの年齢になると戻りが遅いのに」

「もう曲がり切ってしまったってやつか」

「河上さん、デリカシーなさすぎですよっ」

「あ、悪ぃ」


 河上さんはそう言ってガハハと笑った。


「伝説の社内アナウンスするくせにっ」

「息子しか育ててないから、娘の気持ちは分からないんだって。許せよ」


 そうは言っても、河上さんは私にとても気を使ってくれていたって知っている。だから、早く元気にならなくては。


 制服に着替えて帽子をいつもより深く被る。出来るだけ腫れた目を目立たないようにするために。

 駅の構内を、若いカップルが通り過ぎる度に、亮太とあの娘じゃないかと見てしまう。妙に人生を悟った振りをした私より、素直に気持ちを出せる彼女の方が似合っているのではないかと思ってしまう。


(ダメダメ! 仕事、仕事っ)


 そんな時、久しぶりに耳鳴りがなった。


「うっ、来た……なに?」


 右耳を手で押さえ辺りに集中する。何か聞こえないか、何か見えないか。でも、耳鳴り以外は何も感じることができない。


「あれ? ただの耳鳴りだったの。なにそれっ」


 かなり拍子抜けした。もしかして、私の能力って消えてしまったのだろうか。

 結局その日は何も起きなかった。起きない方がいいに決まっている。なのに、なぜか妙な胸騒ぎがして落ち着かない。

 そのせいか釣り銭を間違えたり、改札に立ってお客様とぶつかったりと、まるで新人に戻ったようだ。一日、調子が上がらないままだった。

 夜になると酔っ払いに絡まれ、からかわれながら、グタグタな状態で終電を見送った。


「はぁぁ」

「森川さん、珍しいですね」

「ん?」

「そんなヨレヨレな先輩、初めて見たかも」


 結城ちゃんが私を心配している。いつもは冗談を言って寝るけれど、その冗談も出てこなくてお休みを言うのでいっぱいいっぱいだった。


「やだ、先輩! 重症ですかっ」

「かもしれない」


 寝る準備をしてスマホを確認したけれど、誰からもメッセージはない。亮太は普段から、用もないのに連絡をくれる人ではない。

 でも、やっぱり何か欲しいなと我儘な自分がいた。



 *



 ウイーン…ズズズ、ウイーン…


「うわっ!あ、起きる時間か」


 寝坊や二度寝が許されない私達は特殊な目覚ましを使っている。時間が来ると枕が動き出し、ベッドがゆっくり揺れながら起き上がる。

 有り難いけど、迷惑なベッドだ。


 15分でメイクと着替えを済ませ、コーヒーを空っぽの胃に流し込む。


「よしっ!」


 シャッター組(駅のシャッター開ける当番)に挨拶をし、始発を迎える準備をした。キヨスクやコーヒーショップが開き始める。


 ―― キーンッ!


「痛った」


 今朝から派手に耳鳴りがなった。少しこめかみも痛む。指で押さえ辺りを確認する。


(あれ、誰かが走って来る!)


 ―― えっ、あの娘は確か、真希さん⁉︎


 カッカッカッと忙しげな足音を立て、ときどき後ろを振り返りながら、私の目の前を駆け抜けて行った。制服姿の私には気づいていない。そして、若い男性がすぐ後ろを追いかけていく。


「真希! 待ってくれ!」

「嫌っ」


 それでも男性の足には敵わなかった。男性が真希さんのバッグに手をかけると、二人はもつれるようにして転けた。それを見た私は、呆気に取られてその光景を突っ立ったまま見ていた。

 二人が起き上がるのを見て、私はようやく我に返り二人に駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


 真希さんは恥ずかしいのか顔を他所に向けたままで、男性は慌てて「大丈夫です」と返事をした。

 でも、男性のズボンの膝は転んだ拍子で破けていたし、真希さんに至っては掌と膝を擦りむいているのが分かった。


「お怪我をしていますよ。事務所で消毒だけでもした方がよいと思いますが……」

「え! 真希、怪我をしたのか。ごめん、ごめんな」

「人が増えますので、取り敢えずこちらへ」


 私は通勤ラッシュに巻き込まれないように、二人を応接室に通し、救急箱を取りに休憩室に戻った。


 あの二人はどういう関係なのだろう。男性は彼女の事をとても大切そうにしていた。それに、必死に何かを取り繕うとしていた。

 救急箱を手にした私は、再び応接室のドアを開けた。


「ごっ、ごめんなさい。ノックを忘れていました」

「あっいえ。こちらこそすみません」


 なんと、男性が真希さんを抱き締めていたのだ。やはりこの二人は、そう言う関係だったのだ。


(じゃあ亮太は? あれは何だったの?)


「消毒、しますね?」

「ありがとう、ございます」


 初めて彼女が口を開いた。一昨日とは違い、とても弱々しい声だ。そんな姿を見ると、寒さに震えるチワワが頭を過り、温めてあげないとって思ってしまう。


(私って本当にバカ……)


「あまり滲みないタイプですけど、痛かったごめんなさい」


 彼女から手当てをする事にした。そっとその白く細い指に触れた時、


 ――トクン(トクトク)、トクン(トクトク)


 彼女の心音が誰かの心音と重なって聞こえた。まるでそこに、二つあるかのように。

 この感じを前にどこかで感じた気がする。


(確か、ホームで女性が気分を悪くして。あっ、もしかして、真希さん妊娠してる⁉︎)


 今度は自分の心臓がドクンとうねるように鳴った。


(誰の赤ちゃん? この男の人の? それとも……!)


 情けないことに、治療をする指が震えた。それでも、冷静なもう一人の自分が弱気な私を叱咤する。


「真希さん。分かります? 私の事」


 気づいたらそんな風に話しかけていた。驚いて顔を上げた彼女は、私の顔を見てぽかんと口を開けた。


「りょう、ちゃんの……」

「はい。森川奏と申します」


 私の反応に彼女は唇を噛みしめ睨んできた。その態度に私は腹が立った。彼女から睨まれる筋合いはないし、亮太と別れる気も、譲る気もさらさらない。


「もうすぐ仕事が終わるんです。お時間いただけますか?」


 隣の男性は、私達の空気を察したのか黙ったままだ。真希さんはチラリと彼を見て、私の方に顔を向けると「もちろん!」と、威勢良く返事をした。


 確かめなければならない。

 目の前の男性との関係、そこにある新しい命、そして亮太の事を。

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