ニュートン先生、あんたは大バカだ

「知らない天井だ」


 言ってみたい台詞だったので言ってみた。あ、でもこれを言うと、『ここはどこ、私は誰』が言えなくなる。

 まあ、実際は私は舞坂咲で恐らくここが病院だっていうのはわかってるんだけどね。


「咲、目が覚めたのね!」

「いやー、よかったよかった。頭には異常はないとは聞いていたけど、どうなるかわからなかったからさー」

「えっと、どなたでしょう?」

「父さんと母さんだ! わかるか?」

「えっと、父親と母親ね。ああ、思い出した」


 左側にいるのが私の父親の舞坂とおる。右側にいるのが母親のみどりだ。そんな、ただちょっとふざけただけだよ。


「えっと、何があったんでしょう?」

「あなた、堤防から落ちたのよ。堤防の上からゴロゴロって。本当にくさっぱらだけのところでよかった」


 現状を確認する。両手とも動く。足は、左足にギプスをされていた。


「私、どうなったのかわかる?」

「主治医さんが言うには、特に異常はないらしい。ただ、左足にひびが入ってるらしくて、しばらくギプスをつけろって」

「よかった」


 腕を骨折してたら、ベース弾けなくなってたところだったから。麻希たちに迷惑かけるところだった。足なら何とかなる。それに、ひびだけでよかった。激しい運動はできなくても歩けそうだしね。


「ただ、頭の中はよくわからないって、話なんだけど、大丈夫?」

「うーん、頭の中がボヤッとしてるんだよね。堤防から落ちたって言われてもよく覚えてないんだ」

「一応、検査では頭に異常はなかったんだけど、記憶がどうなるかはわからないって。覚えてる?」

「よく覚えてない」


 頭を強く打ったらしい。記憶喪失きおくそうしつになっているのじゃないかと心配しているらしい。こればっかりは私が起きないとわからないからだそうだ。


「覚えてるのは、晩ご飯食べた後に作曲しようと思って、部屋にこもったような。そこから、私どうしたんだっけ?」

「本格的に混乱しているみたいですね」


 後ろから白衣の人が現れる。なるほど医者だろうか。というか、今日はいつなんだろうか。


「たぶん、咲が言ってるのは一昨日の晩御飯であってる? 流石に3日前ではないよね? メニューなんだった?」

「酢豚」


 昨日の晩御飯のメニュー程度なら覚えている。いや、1日経ってしまったのだろうか。一昨日って言ってたし。私の好きなパイナップル入りの酢豚だった。いや、パイナップルは好きだけど個人的には酢豚には合わないと思ってるんだ。

 閑話休題。


「それはあってるみたいだけど、そこから何か覚えてる?」

「ううん、その後のことはよく覚えてない。次の日に堤防から落ちて今日まで寝てたって認識でいい?」


 母親の質問に答える。まさか、丸1日眠ったままだとは思わなかった。というか、現在時刻はいつだろう? まさか深夜じゃないよね? あり得る。今いるところから窓の外は見えないし。


「夜だからもう少し眠ってなさい。朝起きたら検査まだ残ってるから」

「父さんと母さんもおやすみ」


 実際に夜だったらしい。



 *****



 和馬がやって来たのは朝方のことだった。


「咲、目が覚めたって聞いたけど、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。だから落ち着いてって」


 連絡を受けて走って行こうとしたけど面会時間に引っかかったから急いで登校前に来ましたって感じか。制服姿だし。


「足にひび入ってたらしいけど、骨折とかじゃないし大丈夫そう。ベースもバイオリンも問題なく弾けると思う」

「むち打ち症とかなってないか?」

「あー、大丈夫そう」


 確認してなかったけど、大丈夫みたいだ。もしそうならバイオリン弾くのしんどい。あ、ちなみにバイオリンは無事だったと親から聞きました。


「それで、昨日のことなんだけど……」

「あー、実はさ。体には特に問題はないって言われたんだけど、一昨日の晩くらいからの記憶があやふやでさ。記憶喪失ってやつ」

「え……」


 和馬がぽかんとした顔を見せる。記憶喪失って、すべての記憶を失うだけじゃないぞ。主に頭を打った前後のこと辺りを忘れることも多いらしい。小説とか少女漫画とかだと、人格すら変わることもあるみたいだけど。


「それじゃあ、その……」

「変なことしてないよね!?」


 若干食い気味になる。まあ、和馬はヘタレだし知っていることではあるけれど。


「へ、変なことってなんだ?」

「え、いや、まあ。例えば、私を襲ったとか……」


 和馬がちょっと固まる。完全に私のペースだった。


「あとは、その、こ、告白とか」

「それは!」

「信じてるから!」


 かぶせるように目をつぶって叫ぶ。というか、病人着って実は結構恥ずかしい。


「その、私、和馬のこと信頼してるから。和馬は私に変なことしないって」

「それは……」


 たった一枚、病院着しかつけていない薄い胸が痛む。後ろから槍で貫かれたように前の胸が。


「私、和馬のこと信頼しているから」

「っ! ああ、それじゃあまたな」


 全力の笑顔に和馬がそそくさと去っていった。その背中に少しやるせなさを感じる。ごめん、和馬と。


 ごめん、和馬。私、本当は全部、起こったこと全部覚えているんだ。



 *****



「はあ」


 ため息を吐き出す。

 信頼って嫌な言葉だ。たった一言、信頼している、それを相手に言うだけで、相手は身動きが取れなくなる。相手に信頼されていると思うと、そのレールから外れたら嫌われてしまうのではないか、そう思ってしまう。そうして、人を気づかないうちに檻に閉じ込めてしまう。本当に、嫌な言葉だ。

 胸が痛む。気胸じゃないのに。

 また、和馬を傷つけた。しかも、今度は嘘を吐いて。明らかに事実とは正反対の嘘を吐いて、和馬を遠ざけた。本当は覚えているのに、和馬の勇気を振り絞った告白をなかったことにして。必死に運んだミルクをひっくり返して。和馬のひきつった顔は泣きそうだったんじゃないだろうか。

 きっと、言葉のナイフは。言葉のナイフは投げられた人だけじゃなくて、投げた人も痛いんだ。同じだけの痛みを負うんだ。ニュートン先生、あんたは大バカだ。作用反作用の法則なんて発見しなければよかった。そんなものが存在しなければ、和馬を傷つけて私が傷つくこともなかったのに。発見されなければ、きっと私は罪悪感で胸が痛むこともなかったのに。


 和馬、心の中でしか謝れなくてごめん。許されることじゃないから許してとはいわない。だけどごめん。

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