第32話 それでも、この最悪な世界を

 ニックは手紙を読み終えて、神妙な面持ちで考え込んだ。緋色の王様が捨てられた理由は分かったが、この真実をただ伝えることが、本当にあの人にとっての救いになるのだろうか?


「むしろ救いようのない真実だよな、これ……」


 頭を抱えるニックを見て、先ほどからずっとツッコミを入れたくて仕方がなかったブラッディはとうとう大声で叫んだ。


「あんたよくこの状況で冷静に手紙なんか読めたね!?」


 ネズミの群れに押し流されるような形で移動している今、平然とした顔をしているのはニックくらいだった。


 ランとキティは固く目を閉じて二人で世間話に花を咲かせていた。女の子の現実逃避の極みってこんな感じなのか、とブラッディはそんな二人を微妙な顔つきで見つめる。話の内容がネズミたちの駆ける足音にかき消されて聞こえないのが幸いだった。絶対ランに昔の恥ずかしい経験を暴露されている気がする。


 冷静につっこんでいるように見えて、雪崩に巻き込まれるような形で全力疾走するネズミの群れの上に乗って移動するというあまりにも非日常的な状況に、ブラッディ自身も現実逃避したくて仕方がないのを必死にこらえていた。


「仕方がないだろ、耐えてくれ。ほら、子供達だって楽しそうにしてるんだし」


 後ろを見やれば、ブラッディたちの後ろでネズミの群れに乗る子供達はきゃっきゃと楽しそうに笑っていた。途中、《きぼうさがし》をしていたという子供達も拾った結果、かなりの数の子供がいる。


「子供の頃に戻りたいよ……あんな風になんでも受け入れられる広い心を取り戻したい」


 ブラッディは遠い目をして呟いた。それから、ふと真剣な顔に戻ってニックに問いかける。


「で、手紙の内容はどうだったのさ」

「あー、えっとな……」


 ニックは手紙の内容を説明した。母からブラッディに向けての言葉を伝えれば、ブラッディの瞳が少し潤む。


「手紙書いてるときは正気だったんだ、あの人。僕のこと、ちゃんと僕だって分かってたんだね。そっか。そっか……」


 やっと母と息子の心が通じ合ったような気がして、ニックも胸が熱くなった。ここがネズミの群れの上でなければ、もう少しドラマチックなシーンになったはずだったのだが。


「母上は素晴らしい人だった。母としても、姉としても。けれど、たくさんのすれ違いが起きてしまったせいでこんなことになってしまったんだな……」


 ニックは悲しそうに眉をひそめる。母が悪人ではなかったことに安心したが、王様には悪いところなど一つもなかったのに、善意で黒い毛玉を助けたことが捨てられる原因になったと知れば、王様がどう思うか心配で仕方がなかった。


「あの人はどうすれば救われるんだろう。どうしたら、あの人の心を取り戻せる?」


 考え込むニックに、ブラッディがそういえば、と首をかしげる。


「ずっと不思議だったんだけどさ。なんでみんなあの人のこと、緋色の王様って呼ぶの? 誰もあの人の名前、呼ばないよね」

「そりゃ、誰もあの人の名前を知らないから。あの人は自分の名前を忘れてしまっているから、誰も呼んであげられないんだ」


 その答えを聞いて、ブラッディは変な顔をした。驚いたような、呆れたような、拍子抜けしたような。


「何それ。自分の名前を忘れるなんてこと、ある?」

「あの人はそれくらい心に傷を負ったんだよ。名前を呼んでくれる唯一の人に捨てられたと思ってるんだから」

「まあかわいそうだとは思うけど。僕、あの人の名前知ってるよ」


 今、そこに蝶が飛んでいたよ、くらいの軽さでブラッディが告げた言葉に、ニックはしばらく反応できなかった。


「……は?」

「いや、だから。僕、緋色の王様の名前、知ってるよ」


 ニックは冷静になろうと必死で頭を回転させるが、ネズミと子供たちと女の子たち、それぞれがうるさくて全く集中できない。諦めた彼は、叫ぶことでどうにか気持ちを鎮めようとした。


「はあああああああああああ!?」

「ちょっと、いきなり大声出さないでよお兄ちゃん!」


 長年知りたかった謎の答えが唐突に提示されようとしている。そのことに気づいたニックの心臓が大音量で鼓動を奏で始めた。


「え、なんでお前があの人の名前を知ってるんだよ!?」

「いや、だって、お母様はずっと僕を弟だと思ってたんだよ? 毎日毎日緋色の王様の名前で呼ばれてたんだからね、僕。だから知ってる」


 ブラッディにとってその名前は呪いでしかなかったが。母にとって、その名前は何より大切なものだったらしかった。


「お母様は、その名前を本当に大切に呼ぶんだよ。宝物みたいに大事にしてた。いつも、その名前の意味を僕に語り聞かせるの。貴方は私の大切な弟なのよって」


 そしてブラッディは、緋色の王様の本当の名前と、その名に込められた思いを語る。それを聞いて、ニックはこの先何をすればいいのか分かったような気がした。


「ああ、そっか。あの人は、ずっと……」


 そのとき、ずっと騒がしかった子供達がより一層大きな声を上げる。思わずニックが振り返れば、子供達が持っていた真っ白な毛玉がまばゆい光を放っていた。


「きらきら!」

「ぴかぴかだー!」


 その毛玉は光に包まれながら、どんどん形を変えていく。やがてそれは、翼の生えた人の形になって。


 光が弾けて消えた時、そこにいたのは見覚えのある金髪の男。真っ白な翼を生やして優しく微笑むその姿は、まるで天使のようにも見えた。


「グリュック……!」


 ブラッディがその名を呼べば、目を閉じていたランとキティも目を開いてグリュックの方を見た。


「よかった、消えてしまったのではなかったのね!」


 目の前で彼が消えるところを見ていたランが、安心したように声をかける。


「心配をかけたね。大丈夫。人が願い続けてくれる限り、私は消えないよ。さあ、みんな。心の準備はできてるかい? この悲劇を、終わらせに行こう」


 力強いその声は、輝かしい希望に満ちていて。みんなは一斉に頷いた。その瞬間だけは、自分たちがネズミの群れに乗っているということを誰も思い出さなかった。



※※※



「おいダン、あれ!」


 ベルは遠くの空に、《神様》と王様が見えてきたことに気づいた。声をかければ、ダンは言われなくても分かっています、と憎まれ口を叩く。


「ねえベル。貴方、なぜ自分がここにいるか分かっていますか?」

「え?」


 突然問いかけられて、ベルは戸惑った。


「ソルは私の言葉しか聞かないから、じゃないのか?」

「それはそうですけど、王様はニックの言葉しか聞かないでしょう。《神様》を止めるにはまず王様を止めなくてはならない。そう考えれば、ここに真っ先に到着すべきはニックだったのではないかと思いませんか?」

「……だが、お前が私を指名したんだろう」

「ええ。なぜだかわかりますか?」


 ベルは考える。自分がここにいる意味。それはきっと、自分にしかできないことがあるからだ。じゃあ、それは一体なんだ? ソルを取り戻すこと? それもあるが、おそらく別の何かがある。でも、他に自分にしかできないことなんてあるだろうか? 自分は得意なことなんてないし、できることといえば現実逃避くらいなもので……。


 そこでベルは目を見開いた。まさか。


「現実逃避……?」

「ご名答。この赤い流星群は、《神様》がこの世界からいなくなれば止まります。けれど、そう簡単にあれを消すことはできない。でも、貴方の力なら、簡単に別世界に行けますよね?」


 そう、その通りだ。今のこの状況は間違いなく現実逃避したくなるほど最悪だ。やろうと思えば、あの世界に《神様》も王様もどちらも連れ込むことはできるだろう。けれど。


「代償が重すぎる」


 ベルはなんとなく分かっていた。あの現実逃避をする力は、《逃避した現実がどれだけ深刻か》によって代償の大きさが決まる。逃避しなかった場合にどれだけ酷いことが起きていたかによって、かすり傷で済む場合もあれば死の一歩手前の重傷を負う場合もあるのだ。


 今、現実逃避をすれば、間違いなく。

 

「そう。それでも、貴方はこの最悪な世界を守りたいと願いますか?」


 それは究極の問いかけだった。ベルは、その答えを即答することができないまま、しばらく黙り込んでいたのだった。

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