第25話 憎むべき、親愛なる兄へ

 妹に一人で生きていく術を教えた。彼女はその後、自力で闇商人のトップにまで上り詰めた。道端で泣いていた少年にも、娼館で無理やり働かされていた少女にも、老い先短い老人にだって、教えてくれと願われれば色々な知識を教えてやった。知ることで未来は変わる。知識を得た人々の未来が少しだけ明るいものに変わっていくのを見ると、幸せな気持ちになった。


 けれど、知るということは、ある事実に気づくということでもある。今まで決して手が届かないと諦めていたものが、手に入るかもしれないと。


 方法さえ知ることができれば、もしかして。今まで考える前に諦めていたけれど、本当は。王都の人間たちに仕返しして、幸福を奪い取ることだって、出来るんじゃないか?


 みんながみんな、そう思ったわけではなかっただろう。中には王都の人々に仕返ししたいだとか、そういうことは抜きにして、彼らと同じくらいの幸福を得られればいいとだけ願った人々もいたに違いない。けれど、時に憎悪は優しさや思いやりなどより強く激しい感情となりうる。自分という存在に影響を与えるほどの強さで願ったのは、そんな憎悪を抱いた人間たちの方だった。


 もっと知りたい、もっと教えてくれ! どうすれば、壁の向こうの人間どもに復讐できる? その幸せを奪い取れる?


 自分、つまりダンタリオンという存在は、人々の知りたいという願いの集合体だ。人々の願いが闇に染まってしまえば、自分も黒く汚れていくほかない。


 やめて、やめてくれ。私は——俺は——人間を救いたいんだ。傷つけたいんじゃない。ダンタリオンという存在を、誰かを不幸にするためのものにしないで。


 そんな叫びは誰にも届かなかった。完全に融合したはずの、元々の肉体の持ち主である彼の意識が涙を流すのを感じる。スラムで絶望を抱えて生きてきた人々の憎悪が、妹思いの優しい兄だった彼の願いを踏みにじった。パリン、と何かが砕けるような、微かな音がして。


 そうしてダンタリオンは悪魔になった。それは気が遠くなるほど昔の話で、気がつけばかつての自分がどんな存在だったのかさえ、分からなくなっていた。


「今度こそあたし、知らなくちゃ。知って、今度はあたしがソルを助けなきゃ!」


 彼女が思い出させてくれるまでは。



※※※



「貴方は理解していると思うので、単刀直入に言いますね。貴方ではソルを取り戻すことはできません」


 ダンの容赦のない言葉を聞いて、キティは思わず殴りかかりそうになった。しかし、すぐに彼の真意に気づいて手を止める。


「ソルが聞いてくれるとしたらあたしの声じゃない。ベルの声だけだ。そういう意味か」

「その通りです。貴方は無知ですが、頭の回転は悪くなさそうで助かります。馬鹿に説明するのって大変なんですよ」


 いちいち引っかかる言葉選びをするダンにキティはイライラと頭をかき回した。本来ならこんな怪しい男を信用したりしないが、ソルを助ける手がかりは他になかったし、生き延びるのにいつも役立ってきた彼女の直感が大丈夫だと告げていた。


「じゃあここから出なくちゃいけないってことか」

「そうです。なるべく早くしないと、おそらくまずいことになるので」

「まずいこと?」


 首を傾げるキティに、ダンは焦った様子で早口に説明する。


「何日も貴方たちが帰ってこないものだから、ベルはきっと気が狂わんばかりに心配しているでしょう。必死に貴方たちを探すはず。そんなとき、彼は誰を頼ると思いますか?」

「そりゃあ、ニックに決まってる……あ!」


 その問いにキティは考えることなく即答した。そして声に出した瞬間、それが最悪の答えだと気づく。ダンはやれやれと首を振った。


「実はほぼ私のせいなんですが。もうニックは貴方たちを手助けしてはくれません。

 そもそも彼が情報屋をしていたのは王様のためです。《神様》に願いを捧げる子供たちを連れてきたり、邪魔者が西地区に入り込むのを防いだり、スラム中の情報は全て王様のために利用されていました。

 貴方たちを助けたのはそれとは関係ない理由のためですが、ベルが王様の願いの妨げになるとはっきりしている今、ニックは恐らく……」


 ことの重大さを理解して、キティはいてもたってもいられずその場で飛び跳ねる。


「早くここを出なきゃ!」

「その通りです。王様もニックも今は《神様》に気を取られて貴方のことなど気にもとめていませんから、簡単に出られるはずです。あらかじめ仕掛けてある魔法で足止めされるかもしれませんが、多少なら私にも破れますし問題はないでしょう。作戦を立てる時間がもったいないので、強行突破です」

「分かった、いくよ!」


 大した作戦もないまま、二人は教会の正面扉に向かって走り出したのだった。



※※※



「頼む」


 涙目で懇願するベルの頼みを、ランはこれ以上突っぱねることができなかった。隣でベルを心配そうに見つめていたブラッディが、ランに向かって頷いてみせる。


「……分かったわ。でも、忘れないで。貴方の身体はまだ万全には程遠いのよ」

「分かっている。当てもなく探そうとしても、私が倒れる方が先だろう。だから、情報屋に聞きにいく」


 それを聞いて、フードを外して真っ赤な髪と瞳を露わにしたままのブラッディがビクッと反応した。


「ブラッディ?」


 おかしな動きをしたブラッディにランが訝しげな眼差しを向ける。彼はしばし黙り込んでいたが、やがて胸元から一通の手紙を取り出した。


「それ、お兄さん宛の……」

「そう。ねえ、ベル。その情報屋、名前はなんて言ったっけ?」


 唐突な問いかけにベルは少し戸惑った表情を見せる。


「あいつの名前はニックだ。それがどうかしたか……?」

「もしかして、夜空みたいな紺色の髪だったりしない?」

「なぜそれを知っている?」

「目は僕の瞳と同じ赤?」


 そう聞かれた瞬間、突如ベルの頭の中でブラッディの問いかけと彼の母親の遺した手紙、そしてニックが一つの線で繋がった。


「まさか……!」

「そう。その、まさかだよ」


 信じられないと頭を押さえるベルと沈痛な面持ちで頷くブラッディ。ただ一人状況が理解できていないランが二人を交互に見て慌てていた。


「え? 何? どういうこと? 私にも分かるように教えてちょうだい!」


 あたふたするランを見て、ブラッディはため息をつく。彼女を落ち着かせるように両肩に優しく手を置くと、自嘲気味にある事実を告げた。


「つまりね。僕がスラムに来た理由、お母様の手紙の宛先のお兄ちゃんは、まあつまり、僕が殺したいほど憎んでいた相手ってわけだけど、それはその情報屋ってことさ」


 彼の手に握られた手紙の涙で滲んだ文字は、それでもかろうじて読める程度には残っている。そこには、愛するニック、と書かれていたのだった。

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