第3話

 甘くむせかえるような白百合の香りを吸い込みながら、私は必死にこの状況を理解しようとしていた。


 ここは、王都ルウェイン? 私をからかって遊んでいるのかしら。でも、このユリの花束は何もないところから出てきたし……。


 私はリーンハルト様に手渡された白百合の花弁をそっとなぞってみる。香りも感触も本物だ。もしかすると、物凄く腕の良い手品師という線もあるだろうか。などと考えながら、何より私を混乱させたリーンハルト様の申し出について考えてみる。


 聞き間違いでなければ、リーンハルト様は私に求婚したのだろうか。いつかの舞踏会や夜会でお会いしていたかしら、と頭を悩ませる。王太子妃候補として、一度お会いしたお相手の顔を忘れるような無粋な真似はしないよう心掛けてきたので、一度お会いしたことのある人ならば、顔を見ればすぐに思い出せるのだが、やはり心当たりがない。


 何とお返事をすればいいのかしら、と逡巡しているとき、不意に部屋のドアが開かれ、長い黒髪をハーフアップに纏めた紫紺の瞳の女性が入室してきた。リーンハルト様より少し年上に見えたが、続く女性の言葉に私は自らの目を恥じた。


「兄さん! レイラさんの調子は――って、何、この状況!」


 リーンハルト様を兄と呼ぶということは、妹かそれに近しい年下の女性なのだろう。人の年齢を推し量ることに長けているつもりでいたが、女性の年齢を高く見積もってしまうことほど失礼なことは無い。


 女性は白百合の花束を持った私とリーンハルト様を見比べると、信じられないとでも言いたげな表情でリーンハルト様を睨んだ。


「……まさか、レイラさんが目覚めて早々にプロポーズしたりしてないでしょうね?」


「流石は我が妹、ちょうどいま申し込んだところなんだ」


 得意げに笑うリーンハルト様を前にして、リーンハルト様の妹君らしき女性は盛大な溜息をつく。


「……これだから兄さんは……。ごめんなさいね、レイラさん」


 女性は呆気に取られて二人の様子を窺っていた私に向き直ると、私の手からそっと白百合の花束を回収した。


「今のは忘れていいからね。目覚めたばっかりだっていうのに、本当に無神経な人で困っちゃう」


 どんな反応をしてよいのか分からず、私は曖昧な笑みを浮かべて女性を見上げた。


「初めましてレイラ嬢。私はシャルロッテ・ベスターっていうの。リーンハルト兄さんの妹よ。どうぞよろしく」


 はきはきとした話し方で自己紹介をすると、シャルロッテ様は私に手を差し出した。恐らく握手の意だろうと思い、私も右手を伸ばして彼女の手を握る。


「お初にお目にかかります。レイラ・アシュベリーと申します。……その、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 私はシャルロッテ様とリーンハルト様を見つめながら頭を下げる。見ず知らずの兄妹に世話になってしまった。お礼をしようにも、今の私は何も持っていない。


「それは全然かまわないのよ。でも、兄さんが無理やり連れてきたんじゃないかって心配で心配で……」


「酷いな、シャルロッテ。雨に打たれて弱っていたから保護したんだと説明したろう」


「そうだけど、きっとレイラさんの家族が心配しているわ。場所を教えてくれたら、私、レイラさんのお家に手紙を出してくるわよ」


 シャルロッテ様は親切にもそう言ってくださったが、私は曖昧な笑みを浮かべたまま首を横に振る。あの両親のことだ。私が出て行ったところで、厄介者が居なくなったとむしろ喜んでいるかもしれない。


「いいのです。私、家を出てきたので……」


「確かに着の身着のまま飛び出したというような様子だったね。一体何があったんだい?」


「一人で抱えているのも大変だわ。私たちに話してごらんなさいな」


 シャルロッテ様はリーンハルト様の隣に椅子を運ぶと、そこに腰を下ろして私の方へ向き直った。どうやらじっくり聞いてくれるつもりらしい。普段であれば見ず知らずの他人に家出の理由など明かすはずもないのだが、不思議なことにこの兄妹の前だとすらすらと言葉が出て来てしまう。





「……あんまりだわ」


 一通り事情を話終えると、シャルロッテ様は頭を抱えてそう呟いた。リーンハルト様に至っては、紫紺の瞳の奥に明らかな怒りを湛えている。


「あんまりよ! こんなことってあるかしら!? 王子様も妹さんもひどすぎるっ……」


 怒りに震えていたシャルロッテ様は、遂に一粒涙を流してしまった。まさか泣くほど感情移入をされていたとは思ってもみなかったので、驚いてしまう。


「シャ、シャルロッテ様……。そんな、もう、過ぎたことですし……」


「そんなことはない。レイラさんは深く傷ついたはずだ」


 リーンハルト様は紫紺の瞳で真っ直ぐに私を見ていた。その眼差しの強さに何だか戸惑ってしまう。確かに傷ついたけれど、もう、どうしようもないのだから。


「いいのです。この一か月間に涙が枯れるほど泣きましたし……怒り続けるのは疲れてしまいますもの」


 リーンハルト様にそう答えながら、私はベッドサイドに置かれていた旅行鞄をあけ、中から刺繍の入った白いレースのハンカチを取り出した。荷物は濡れていなくて良かった、と安心しながら私はハンカチをシャルロッテ様に差し出す。


「シャルロッテ様、良ければお使いください」


「っ……ありがとう」


 ぼろぼろと涙を流すシャルロッテ様に軽く微笑みかけながら、私は今後のことについて考えた。幻の王都がどこにあるのか分からないが、修道院へ入るにしても、もう少し休まなければ辿り着けないかもしれない。


 ここは、この兄妹に甘えさせていただこうか、と顔を上げたとき、リーンハルト様が先手を打った。


「とりあえず、修道院へ入るとというのは思い直してみてはどうだろう。確かに慎ましく暮らす彼女たちは素晴らしいけれども、どうしてもというのならもう少し年を重ねてからでも遅くはないだろうからね」


「……ですが、お話しましたように公爵家に戻るのだけは嫌なのです」


 両親のことは憎んでいるわけではないし、育ててくれた感謝もあるが、やはりもう一人で生きていたかった。殿下への想いはいずれ薄れていくにしても、貴族社会で私は一生好奇の目に晒されるだろう。考えるだけで気が重くなる。


「では、ここで共に暮らすのはどうだい? 結婚の話はとりあえず置いておいて、僕たちのこの屋敷で暮らせばいい。幸いにも部屋は余っているからね」


「そうよ! そうすればいいわ!」


 それは願ってもみない話だが、とんでもない迷惑をかけてしまうことになりそうだ。今の私には、お礼の一つも満足に出来ないのに。


「遠慮はいらないのよ、レイラさん。むしろ、兄さんのためにもここにいてほしいわ。……レイラさんが目覚めて早々プロポーズしちゃうような無神経な人だけれど、ずっとレイラさんのこと待っていたのよ」


「シャルロッテ」


「いいじゃない。本当のことでしょう?」


 リーンハルト様が、ずっと私を待っていた?


 物心もつかないほど幼い頃に出会っていたりするのだろうか。リーンハルト様のような怖いほど綺麗な男性は、一度見たら忘れそうにもないのに。


 疑問は深まるばかりだが、私はこの優しい兄妹に甘えさせていただくことにした。


「……では、しばらくお世話になります。ありがとうございます」


 頭を下げて感謝を述べると、シャルロッテ様は私の手を握ってはしゃいで見せた。私より年上のはずなのに、何だか可愛らしい人だ。


「ええ、ええ! こちらこそよろしくね、レイラさん」


 リーンハルト様はそんな私たちの様子をひどく優し気な表情で見守っていた。出会ったばかりだというのに、その穏やかな笑みを見ると胸の奥がきゅっと掴まれるような気がする。


 分からないことばかりだが、どうやら今日から私の幻の王都生活が始まるようだ。

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