情を取るのか理を取るか

宿六庵の、牛肉仕入

ゴクリッと、唾を飲む音がした。

 八徳にとって斜め前に立つ、”若”と呼び慕う庄助が鳴らした音。


(そんな、一世一代の大勝負というわけでもないだろうに‥‥‥)


 庄助の背中には、「これが最後の戦いになるかもしれない」と、緊張感と悲壮感が満ちていた。

 これが、彼の目の前に武器を構えた無頼漢どもがズラリと並んだら絵になったかもしれない。


 しかしそれが‥‥‥


「庄助様、お気を確かに。たかだか肉の買い付けではございませんか」

「そのたかだかの敷居が、とても高いんですよぉ綾乃さん。こちとら初の外国人居留地。エゲレス語だって話せないんですよぉ?」


 肉の買い付けで、顔色を青くさせるから、ナヨったらしさにため息をつかざるを得なかった。


「あぁいやだ。いやだいやだ。おとっつぁんが牛鍋屋なんて始めたいというから」


 牛鍋は、未だこの国に根付いていない食肉を主とした料理。

 当然ながら、肉を扱う業者も数はない。したがって、海外から肉牛が持ち込まれた神戸港から、横浜港に送られたものを購入、仕入れる。


 牛鍋屋を始めて数か月が経った宿六庵ではあるが、これまでは、やはり数少ない横浜の牛鍋屋同業他店から、肉を仕入していた。

 それが先日の寄り合いで、この仕入が持ち回り制になったらしかった。

 今回は宿六庵で仕入れた牛肉を、他の同業他店が買い付けに来る運びとなったというのが、今日、庄助たちが外国人居留地に赴いた理由だった。


「うぅ、周りの目も怖いし」

「若、安心しておくんなさい。ふてぇ野郎が絡んできたところで、この俺がガツンと返り討ちにしてやりまさぁ!」


 ビクビクとして、周囲に目配せする庄助の気持ちも、八徳には分からないでもなかった。

 依然、日本人の外国に対する敵意は強い。

 外国人居留地入り口前に立っているだけで、何かしらの用があるのだというのは、周囲の者にも見てわかるはず。

 もし「日本人の癖に、外国人と商いをするのか」など捉えられると、今の情勢的に、身の危険もないわけではなかった。


「庄助様、私がついていますから。仕入の事だけを考えてください」


(本当、強いな。姉さんは)


 ある程度、そういうところがわかってしまう八徳だから。ついてきた綾乃のセリフに白目を剥いて、絶句を禁じ得ない。


 なかなかどうして綾乃は、軟弱な庄助にはおあつらえ向きなしっかり者で物おじのしない性格だった。

 見た目は可愛らしい町娘。その実、庄助をグイグイ引っ張る力強さがあった。


(若と姐さんの性格が逆になりゃ、そりゃ、見ていて安心できる夫婦なんだが。いや、まだ夫婦ではないのか)


 フッと、笑い声がこぼれた。

 どうしてそんな綾乃が、庄助を慕うのか。そして、未だ夫婦になっていない許嫁の関係ながら、同居が許されている理由についてはよく分かっていなかった。

 だが面白いことに、若ことナヨッちぃ庄助は、何故か牛鍋に関わる事に関して、弱音を垂れながらも絶対に困難な場から退かないことを八得は知っていたから、ガクガクと膝を笑わせる庄助に近づき、勇気を注入するように彼の肩に手を置いた。


「若、聞いた話じゃ、外国人居留地の門番は、簡単な日本語を喋れるらしいでやす。他の同業他店の旦那衆が教えてくれた通り、『牛の肉、”びぃふ”』と伝えれば、外国人商人のところへと案内してくれるかと」

「そ、そうかい? そうだね!」


 エゲレス語を少しばかり話せる八徳なら、案内も、牛肉の買い付け、交渉も手伝えることはできた。


「お、おおお、お頼み申しますっ!」

「ハイ、ナンデスカ!?」

「ッツ!」

「若、大丈夫でやす。落ち着きになって」


 だが、今後のことを考えて、庄助が一人ででも牛肉の仕入が出来るようにと、ここは、心を鬼にし、八徳が口を挟むのは最低限の部分のみだった。


 今も、呼びかけに応じて門番の男が顔を出したことに、庄助が驚天動地しているのを認めながら、八得はほんの少しの支えを見せるだけだった。


「アイ! アイ! キャント! エゲレス!」

「Can't EGERESU?」


(エゲレスが出来ないってなってるんだが。若)


「エゲレス! アイキャント」

「庄助様、びぃふです! 神戸びぃふ!」

「オチツイテ! オチツイテ!」


 四苦八苦の様相を見せる庄助。対応に困る外国人門番。そして、綾乃が援護を見せる。


(頑張れ、頑張って! 若!)


 状況は混沌だ。それを目にしながらも、拳を握った八徳は、状況をジッと見つめるだけ。


「ドーカ、シマシタカ?」


 庄助と綾乃をどう扱ってよいのか。分からなさそうな外国人門番は明らかに焦っていた。そこに、甲高い声が一辻吹き抜けた。


「Calmn down. オチツイテ?」


(‥‥‥うげ)


 声の主の出現による反応は二つ。

 八徳は、苦々しい貌。

 牛鍋若旦那とその許嫁の娘は、目をぱちくりとさせ、息を飲んだ。


「なんと……優美な」


 思わず、綾乃がそう口にした。それに対して八徳は、「はぁ?」と耳を疑ったが。


「ワタシタチ English. ニホンゴ、マダワカラナイ。ユックリ」

 

 陶磁器のように白い肌。

 収穫前の稲穂を思わせる、整えられた金色の髪は、そよぐ風の中を気持ちよさそうに泳いでいた。

 姿を見せたのは、猛る炎より鮮やかで、流れる血よりも更に赤いドレスをまとった少女。

 日傘が印象的。

 日傘をさした出で立ちは、茶店で旦那衆にお呼ばれされた、悠然としてたおやかな芸者や、遊女を思わせた。


 それゆえか、先ほどは話が通じず興奮していた庄助と綾乃は、その姿に唖然の一方、昂りを削がれたことで落ち着きを取り戻した。


「オキャクサマ? ゴヨウ‥‥‥ハ?」

「あ、あの……」


 少女は、スゥっと、紅玉のような瞳で庄助の目を見つめた。心の中を、覗き通すように。

 

「オキャクサマ?」

「あ‥‥‥イッタ! え、えぇと、神戸びぃふを!」


(オイオイ、若‥‥‥)


「kobe biif. kobe‥‥‥Ah, Kobe Beef.ワカリマシタ。アンナイスル」


 見上げられ、その瞳に吸い込まれたかのように一瞬呆然とした表情を浮かべた庄助。

 顔なんて、照れたように赤らめ‥‥‥すぐに、腕の部分を、綾乃につねられたことで我を取り戻した。


 庄助の要望がわかって、指を鳴らした少女。

 一つ柔らかい笑みを浮かべると、綺麗な所作で踵を返した。


「あ、あの……どこへ」

「ついて行きやしょうや。あの異国の娘っ子に」

「は、八徳さん?」

「大丈夫でやす。きっと悪いようにはしないでしょうから」


 立ち去る少女に、どうしていいか分からない庄助。八徳はそんな彼に、ついて行くよう後押しした。


「そうかな。いや、そうね。いくら顔立ちや体のつくりが違っても、国が違っても人間同士。取って喰われることはないよねぇ?」

「がっ!」

「……安心してください庄助様。取って喰われることはありません。私が、お守りします」

「あ、姉さん!?」


 落ち着けたことが大きいのか、意を決し、少女の後に続こうと、一歩踏み出した庄助。


(取って喰われることはないだろうが、食いものにはされかねないんだよな。なんたって、アイツだから)


 彼の一言に、八徳は複雑な心内となった。

 彼が歩を進め出してから、足早に駆けつけ、彼の隣に並んだのは綾乃。チラッとその様子を伺った八徳は、ギョッと目を見開いた。


 不機嫌だった。綾乃は。あからさまに。


 たった一瞬。少女の紅い瞳に見つめられた時、庄助が一瞬でも見惚れてしまったことが面白くないらしい。


(あぁ、姉さん前にして何やってんだ若。姉さんに「守る」って言わせてどうする。もちっとシャキッとしてくれぇ?)


 明らかに、庄助にヤキモチを焼いている綾乃の、少女を見る眼差しと言ったら。不快感に満ち満ちていたから、その更に後について行く八徳も、気が気じゃなくなった。


「お‥‥‥い、やっぱわざとかお前?」


 庄助と綾乃の動向を放っておけない八徳は、彼ら二人の前の少女が、チラリと振り向いたときに見せた顔を認め、睨みつけた。


 間違いなく、おっかなびっくりで彼女について行く庄助と、庄助にヤキモチを焼く綾乃の様を楽しんでいたから。

 そうして、その彼女の目線は、二人より更に後ろを往く八徳に向けられた。口元を扇子で隠していた。


(いや、爆笑してんじゃねぇよヴァルピリーナ)


 ヴァルピリーナ。彼女が、偶然にも、外国人居留地入り口前で、アタフタしていた庄助たちに声をかけた声の主。


 持ち回り制の牛肉の仕入。

 本来ならば庄助たちは、同業他店がこれまで使っていた購入元の外国人食肉卸売業者の元へ行くはずだった。

 しかし状況はどうだろう。

 牛鍋屋業界がこれまで全く付き合いのない外国人の少女。庄助たちから見れば、一切の素性も知れぬヴァルピリーナに、庄助たちは、外国人居留地内に連れ込まれる流れとなってしまっていた。。

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