寂しい夜に詠う歌

孝和

~プロローグ~ 雨の思い出


 雨が降ると、時に、昔のことを思い出す。


 子供の頃。

 その時、俺は泣いていた。

 雨の降りしきる、寒い夜だった。

 まだ小さい体を、自分でもわかるくらいに震わせて。

 声を殺して。

 それは、たぶん…漠然とした不安に駆り立てられながら。


 周りの色は、全部モノクロだった。

 頭の上を覆った空も。

 その空を切りつけ、線を引くように降る雨も。

 みな、足下の瓦礫と同じ、灰色に見えた。


 聞こえてくるのは、雨が路面を叩きつける音。

 けたたましい緊急車両のサイレン。

 周囲を駆ける、大勢の足音。

 あちこちで響く怒号。

 遠くで弾け続ける爆発音…


 そんな中、周りの人々の目に、俺の姿はどんなふうに映っていたのだろうか。

 いや、映ってなどいなかったのか。

 少なくとも、声をかけてくれた人は1人だけだった。


 …老師


 子供だった俺よりも、ほんの少ししか高くない背丈。

 その頃にはもう真っ白になって、伸び放題だった髪と髭。

 顔の皺の中に埋もれた、でも、優しい瞳。


 いつから俺の前に立っていたのか。

 いつから俺のことを見ていてくれたのか。

 いつから俺に傘を差し出してくれていたのか。

 気がついたときには、老師は自分は濡れネズミになって、俺へ降り注ぐ雨を遮ってくれていた。


『寒い夜だのぉ』


 問いかけでもない。

 同意を求めるでもない。

 でも、独り言でもない。

 俺の涙を止めるにじゅうぶんな、穏やかで、優しい声だった。


『こんな日は、ひとりでいるもんじゃぁないのぉ』


 俺を見ている目が細くなり、周りの皺と見分けがつかなくなった。

 でも、わずかに髭が揺れたから、たぶん微笑んだのだと、その時の俺でもわかった。


『ひとりは…寂しいのぉ…』


 その言葉で、不意に、薄れかけていた不安が、恐怖が、俺の胸に迫ってきた。

 そして、その時の俺の顔は、その心を十分すぎるくらいあらわしていたのだろう。

 老師は、続けた。


『坊主。寂しいときに詠う歌を、教えてやろうか?』


 歌。

 それまでの俺には縁のない、いや、知ってすらない言葉だった。

 その時の俺は…そんな「モノ」だった。


 それでもかまうことなく、老師は続けた。


『誰にでも詠える歌じゃぁない。

 でも、もしかしたら、坊主なら詠えるかもしれん』


 いつの間にか、老師は俺の隣に立って僕の肩を抱きしめてくれていた。

 夜の寒さから俺を守ろうとしてくれるかのように、暖めてくれるかのように。


『じゃぁ、詠うぞ?

 よーっく、聞いておけよ?』



 その瞬間だ … 俺は『』と出会った。

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