第16話 ターニングポイント

 ぼーっと、考えていた。

 授業中、眠気を堪えながら、ぼぉーっと。


 考えるのは勿論、いろりさんのこと。物部いろりさんのことだ。


 彼女は、自殺がしたい。でも、その自殺の動機が彼女には分からない。

 死にたい。でもそれが分からず死にたくない。だから僕は、彼女と一緒にその動機を探すことになった。


 だけれど、ふと気づいてしまった――最初から知っていた。

 自分はいろりさんに対して、何も力になれていない。


 そもそもの依頼に無茶があったと言えば、そうだ。死にたい理由を探してくれ? あまりにも荒唐無稽で――漠然としすぎだ。


 だから僕は、最初の条件で『力になれないかもしれないから期待しないでくれ』といったのだけれど――けれど。


 しかし今の僕らは、無為に日々を過ごしている気がする。その理由を探す目途も当てもないのだからしょうがないのかもしれないけれど、進捗を何も感じない。


 そもそもが間違っていたという気がしないでもない。というか、間違っているとすればそこだ。つまり僕の『自分では思いもしない、経験もしてこなかったようなことの中にその理由はある』という案。そしてそこから『青春を経験してこなかった』といういろりさんの告白。


 そこから舵取りが変な方向へと向かってしまい、結果今の無為に日々を過ごすことに繋がってしまっているのだ。


 繰り返すけれど、そもそもの依頼が無茶なのだ。そしてその依頼を受けてからまだ一ヶ月も経っていない。早々易々と達成できる目標ではない。

 それは分かっている。分かっている。分かってる。


 でも僕の中で焦燥感、「これでいいのか」という気持ちが段々と膨らんできている。

 いろりさんはずっと脅迫的な死の欲求に苦しんできたのだ。それを救える状況に居ながら、こんな無為に日々を過ごしていていいのか?


 ――――そもそも『救う』とは、どういうことだ?


 いろりさんを死へと導く事か?

 死にたいという欲求を霧散させることか?


 死の欲求に苦しんでいる。なら、それを解消させることが目的だろう。

 その方法の一つが、欲求を満たす。つまり自殺に導く。

 でも、そうじゃない――つまり満たさずに霧散させるという方法もあるのではないか。


……というか、その方が『正しい』――よりすぐれた解決法なのではないか?


 ああ――――ああ。

 分からなくなってきた。頭が痛い、痛い、痛い――。


「ねえ、野渡……くん」


 誰かが僕の名前を呼ぶ。その言葉で僕の意識が現世へ戻る。

 ……誰だ? 瞼を開ける一瞬の間に思考が巡る。僕はこの声から初めて名前を呼ばれる。知らないイントネーションで僕の名前を呼ぶこの声は、誰だ?


「ごめん、起こしちゃって」


 僕の前の席に座って僕を呼んだのは、気の強そうな女の子。むすっとしたような顔で、さして悪びれてないような表情でそう言った。

 この女の子、どこかで見覚えが――ああ、いろりさんと仲のいい女子の背の高い方だ。名前は確か……。


「カリン、さん……?」


「そう、猫宮花梨。よく知ってたね」


 猫宮花梨。初めて聞いた。いや――彼女の名前も最初のホームルームで聞いたことがあるはずなのだけれど、僕のデータベースには記録されていなかった。


「……猫宮さんこそ、よく僕の名前を知ってるね」


「いろりがよく出すからね」


「なるほど……」


「うん」


 気まずい沈黙。

 僕はとりあえず体を起こし、大きく伸びをした。目元を擦る。幸いなことに目ヤニは殆ど付いていなかった。


 ふと、というか今更というか。

 教室には僕と猫宮さんの二人しかいなかった。

 何故? 軽い混乱。時計が視界の隅に入る。短針は三。長針は十。帰りのホームルームが終わってからある程度時間が経っている。


 ……放課後か。最後に記憶があるのは五限目最後。だけれど僕の机は綺麗に片されている。ぼんやりと心はどこかに行ったまま、しかし身体はちゃんと一生徒としての行動を全うしていたらしかった。


「……それで、なんの用、かな?」


「いろりのこと」


 端的に、猫宮さんがそう言った。

 というか。猫宮さんが僕に話しかけるだなんていろりさん絡みに決まってるじゃないか。まさかずっと寝たままの僕を気遣って声を掛けてくれた、という訳でもあるまい。

 そんなこと分かり切っていたはずなのに、僕の頭はどうやらまだ覚醒しきっていないらしい。


「だよね。いろりさんのことだよね」


「うん。どこか場所移さない?」


「じゃあ……部室とかどうかな?」


「部室って、そっちの?」


「うん」僕は猫宮さんが何部なのかを知らない。


「……人はいないの? 先輩とか」


「うん。いても、少しの間なら出ていてもらえると思う」


「……」猫宮さんは少し考えるそぶりを見せてから、「じゃあそうする」と僕の案を受け入れた。


 一緒に移動する間、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。

 猫宮さんはずっとむすっとした表情で――もっと言えば不機嫌そうに僕の後ろを付いて来るだけで、僕はそんな彼女に声を掛ける勇気がなかったのだ。

 だけれど、それでよかった。もう僕たちに会話は必要なかった。


 部室には幸いなことに誰もいなかった。部室に足を踏み入れると、猫宮さんは少し眉を上げて部室の中を見渡した。

「そこ、どうぞ」とソファを指すと、「どうも」。こちらを警戒するようなゆっくりな動作で腰を下ろした。


「イチゴミルク、飲む?」


「いらない」


 きっぱり。おかしいな、この部の女子は殆どこれでどうにかなるのだけれども。


「そんなことより本題」猫宮さんは僕をじろりと睨みつけた。「野渡くん、最近いろりと仲良いよね」


「うん」僕は覚悟を決めて、ボロ椅子に座った。「そうだけど」


「どうして?」


「……えっと」


 どうしてと言われても、仲が良くなったからとしか言えないのだけれど……。


「……今のはあたしの利き方が悪かったわね」コホンと咳払いをして、猫宮さんは聞き直す。「何がきっかけで仲良くなったの?」


「……たまたま会ったんだよ、屋上で。そして話して――」


「仲良くなった? 意気投合した? 悪いけど、あたしにはそうは思えない」


「どうしてさ」


「共通の話題がないから」


「君は僕のことを知らないじゃないか」


「でもいろりのことは知ってる」


「でも僕のことは知らない。僕といろりさんに共通の何某があったかもしれないじゃないか」


「じゃあ何? 具体的にはなんだったの?」


「……そんなもの無いけどさ」


「…………ふん」


 猫宮さんは怒るでも呆れるでもなく、ただ不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……」


「……」


「…………聞いたんでしょ、いろりから」


「うん」


「どこまで?」


「……多分、全部」


「そっか」


「うん」


「……」


「……」


「いろりがあたしたち――あたしとフユに心を開いてないのは知ってる。その理由も知ってる」


「……一応聞かせて」


「え?」


「いろりさんが、猫宮さんたちに心を開いてない理由」


「……あたしたちが同情とか気遣いでいろりと一緒に居ると、あの子はそう思っているのよ」


「そっか。やっぱり」


「うん。でも、野渡くんにはどうしてだか心を開いてる」


「そんなこと」


「あるのよ。いろりはあなたに心を開いてる」


「……」


「野渡くんと一緒に居るのが楽しい、野渡くんと一緒に居ると心が落ち着く。最近はそんなことばっかり言ってる」


「……そうなんだ」


「ねえ、野渡くん」


「うん」


「あなた、いろりに何を言ったの?」


「……予想は付いてるんでしょ」


「教えて」


「……死にたいって言われて」


「うん」


「それは僕には止める権利がない、だから好きにすればいいじゃないかな――そんな感じのことを言ったよ」


「うん」


「……そしたら、いろりさん、なんだか変に感銘を受けたというか……僕の言葉に琴線に触れるところがあったみたいで」


「うん」


「お願いされたよ。自殺を協力してくれって」


「…………それでなんて言ったの?」


「引き受けた」


「……」


「……」


「……」


「……」


「…………確認だけど」


「うん」


「いろりの、自殺を、手伝ってるのね? 野渡くんは」


「うん」


*


 ぱあん、と。

 何かが弾ける音がして。

 遅れて痛みがやってきて。

 そして思考が大きく揺れる。


 突然の平手を、当然避けること何できず、僕の首は勢いのまま右下を向いていた。

 痛みよりも、困惑の方が強かった。突然の衝撃。何が、起こった?

 突然のことに驚いて――でも現状は直ぐに理解が出来た。


 僕はやや遅れてやってきた、熱と共に頬の奥から湧き出るようなじんじんする痛みを感じながら――ああ、いろりさんはいい友達を持っているな。ぶたれた自分のことをどこか他人事に感じながら、そんなことを考えていた。


「……どうして、止めなかったの?」


 猫宮さんは、いつの間にかソファから立って、僕の正面に立っていた。

 そしてゆっくりとそう言った。

 ゆっくりと、震える声で、そう言った。


「いろりさんが、生きるのを辛そうにしていたから」


「だから、死なせてあげることにしたの?」


「そうだよ」


「……生きさせようとは、思わなかったの?」


「だって、いろりさんは死にたいって言ってたから」


「…………確かにそれがいろりの頼みだったのかもしれないけど」


「うん」


「でも、あたしはいろりの友達だから」


「うん」


「あの子がどう思っていようと、あたしはいろりが大切だから」


「……うん」


「あたしはあなたが許せない」


「……それはもっともだと思うよ」


「野渡くんからすれば、理不尽に感じるかもしれない」


 ビンタされて顔を右下に逸らした体勢で涙をこらえていると、猫宮さんはそんな僕を見下ろしながら言った。


「野渡くんはいろりのお願いを聞いただけだから」


「……まあ」


「でも、あたしの気持ちも分かって欲しい。大切な友人を殺されようとしてるんだから」


「……分かってるよ。だから、こうしてビンタされて文句言ってない」


「うん」


 僕は痛む頬を――強がってなんでもないような振りをしながら、鼻の上の方の眉間の奥の方が熱を持っているのを感じながら、猫宮さんを改めてみた。


 彼女は、泣いていた。

 悲しいからか、怒っているからか、それは分からない。

 感情が強まって、感情が溢れて、それで涙がこぼれ出てしまっているという感じだった。


「ビンタしてごめん」


 今更彼女は、そんなことを誤ってくるのだった。


「いいよ別に」


「改めて言葉で聞いたらカッとしちゃって」


「いいって」


 猫宮さんは僕をビンタした。それはつまり、暴力だ。

 暴力はよくない。犯罪で決まってるとか、自分がされたくないことだからだとか、そういう理論とか説明だったものじゃなくて、暴力はダメなものなのだ。


 猫宮さんはそれを犯した。しかしそれは、私利私欲の為じゃない。自分の衝動の発散の為じゃない。


 つい、だ。

 つい、友人を死に誘おうとしている僕に、手を出してしまった。


 やはり暴力は、それが言い訳になるものではないだろう。ついカッとなって、なんてのは暴力事件の加害者の常とう句だ。


 でも、猫宮さんのそれを受けた僕は、それでも猫宮さんを非難する気は起きなかった。なんというか――違う。猫宮さんのはそういうのじゃない。

 暴力は暴力だ。そういうのじゃないということはどういうことだ。うん、うん、その通りだ。その通りなのだけれど、やはり違うのだ。


 こればっかりは説明できない――感覚的なもので、理論的に説明することはできない。

 ただ、猫宮さんの今の暴力は、悪意とか害意故のものではない。母が子供をしかる時のビンタは、体罰だけれど体罰じゃない。悪い暴力なのだけれど悪い暴力じゃない。それと一緒の類のものだ。


 それに。

 悪意の暴力をかざす者が、こんな涙を流すものか。


 僕は、猫宮さんに掛けるべき言葉を探して。

 そして――その音を聞いた。

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