第10話 自意識ちゃん

「お前、なんで天文部なんだ?」


 掌が食い込むレジ袋によってうっ血して、このまま壊死して一生使い物にならないのではと錯覚を覚える。ぶっちゃけ泣きそうになるほど辛かった僕には、諏訪部先生の言葉はあまり耳に入らなかった。


「えっ……、なんで、すか……?」


「どうして天文部に来たんだよ?」


「ああ……、なるほど…………」


 ちなみに諏訪部先生が持っているのはお菓子の袋一つだけだった。大して僕はジュースの袋一つとお菓子の袋二つ。性差とか体格差を考慮してもあんまりだと思った。これが立場の差というやつか。


「大した理由はないです。十時さんに、頼まれたから……」


「それだけか?」


 先生は訝しんでいた訳ではないだろうが、僕に尋ね直した。確かにいろりさんと秘密の話し合いをするために閉鎖的空間を求めていたというのが一番だけれど、でもそれは天文部という選択肢しか取れなかった訳ではない。


 お金はかかってしまうけれどカラオケとかネットカフェとか、まあ色々と方法はあったのだ。丁度上手い話だから乗ったというだけで、僕たちが入部した理由の本質は十時さんの提案があったから。


「いろりさんも、同じ理由ですよ」


「ふうん、なら別にいいんだがな……」


「どうしてそんなことを?」


「……私が言うのも何だけど、天文部はお前らの高校生活を豊かにはしないぞ? 他の部活に入っておけばよかったとか後から思っても、……転部自体は出来るけど、他の部活に後から入るのはハードル高いし、既に人間関係は出来上がっちゃってるし、時間は帰ってこないんだぞ?」


 僕の顔を見上げながら、諏訪部先生は饒舌に言葉を繋いだ。

 ……つまり、諏訪部先生は僕たちの心配をしてくれるらしかった。

 天文部という空間で無為に青春を浪費してしまうことを、それでいいのかと確認してくれているらしかったのだ。


 なんというか。

 ぶっきらぼうで大雑把だけれど、そういうところはちゃんと優しいというか、生徒のことは考えてくれているんだなと変に感心した。だったら今の僕のみしみしと軋んでいる手のことを気にかけて欲しいと思わなくはなかったけれど。


「……だったら、先生が、ちゃんとした青春を経験できるようにさせてあげたらいいんじゃないですか?」


「やだよ、あたしは面倒だから」


「……はあ」


「生徒には高校生活を楽しんでもらいたい。そしてあたしは何の労力も払いたくない。これが叶えば、それはウィンウィンってやつだろ?」


「生徒のために労力を払うことが負けって考えているその思考がすでにルーズでは?」


 生徒思いだけど生徒のために大変な思いをしたくは無い。

 やはり、うん、その程度の距離感でいいのだと思った。


 学園ドラマみたいに教師が身を粉にして学校生活以外のすべてを犠牲にして生徒のために行動する、なんてのも、まあ、話としてはいいとは思う。空想としてはいいとは思う。

 だけれど、実際にそれをやられてしまうと、重い。少なくとも僕にとってはその気持ちは重すぎるし、それに答えるだけの度量もない。


 ぬるま湯だ。熱いお風呂を求めている人からも、水風呂を期待していた人からも好かれることのない、でも嫌われることもない、可も不可もない、そんな感じ。

 嫌われるわけでもなく、構われるわけでもなく、ほどほどの温度。どっちつかずで曖昧の位置。


 でもそれって、僕にはとても心地よかった。

 ……いろりさんもこんな気持ちだったのだろうか。


「……あの、先生」


「なんだ? 荷物なら持たないぞ」


「泣きそうです」


「みっともないぞ。そんな風に教鞭をとってやった記憶はない」


 そりゃあ一度も授業教えてもらったことはないし。

 だけれど、限界なものは限界だ。辛い。泣いちゃう。


「……しょうがないなあ。じゃあちょっとだけ休憩をとることを許してやる」


 それでも手伝ってはくれないらしかった。

 まあ休憩を貰えるだけ有難いと思おう。


「みんな待ってるから、あんまり遅くなっても悪いしな」


「歓迎会の直前に買い出しに行くのが計画ミスなんじゃないですか?」


「お前はお菓子をこんなにいっぱい買っておいて、手を出さずに翌日まで待てと言われて待てるのか?」


 待てるけど。


 結局全然動き出せない僕に諏訪部先生は怒って、怒っても動きだせない僕に渋い顔をして、「しょうがない」とこんな時のために余分に貰っていた袋にジュースを二本入れて諏訪部先生に持ってもらうことになった。

 それと先生の持っていたお菓子の袋を交換して、先生はジュース二本、僕はジュース三本とお菓子三袋という状況になった。


 だけれどというか、当たり前というか、それでも先生は僕の想像以上に体力がなかった。一〇メートルくらいで苦虫をかみつぶしたような凄い表情で先生の表情は固定されて、「くそ」「あーちくしょう」とか割とひどい物凄い暴言を吐きながら歩いていた。


 それでも生徒の前で見栄を張りたいのか、休憩を申し出ることはあっても僕にジュースを返すことはしなかった。

 そして僕も、「やっぱり僕が持ちます」と言うことは無かった。

 気持ちとしては男らしく見栄を張りたいというのはあったけど、現実問題として、ね……。


 結局学校に着いたのは、出発から四五分後。行きが一〇分、買い物が一〇分とすると帰りは二五分。行きの倍以上かかってしまったことになった。


*


「ぬるいわ、このジュース」


 僕たちの努力も虚しく、我らが部長様はそんな言葉で買い出しに行った僕たちをねぎらった。

 僕は苦笑、諏訪部先生は反論する気力もないようで、ソファに飲みこまれるようにして仰向けで倒れていた。


「諏訪部先生……何か飲みますか?」


「……オレンジジュース」


 一瞬うめき声かと思うような声色で、先生はそう答えた。動いたのは唇だけで、先生の身体はピクリとも動こうとしない。


「オレンジジュース二種類ありましたけど、どっちがいいですか?」


「両方……」


 僕は紙コップを二つ取ると、それぞれにオレンジジュースを注いで、そこにストローを刺してから先生に差し出した。

 だけれど先生は身体を動かそうとせず、口をパクパクと酸素を求める金魚のように動かすだけだった。


「早く……飲ませろよ」


「あ、ああ、そういうこと……」


 それだけじゃ分からないよ……。言葉が少ないのは嬉しいけれど、言葉がないのは困るのだ。

 僕はストローの飲み口を先生の方に向けてやって、それを開かれた唇の間にそっと差し込んだ。


 ゆっくりと、二つのピンク色が閉じられる。ぢゅーっと音を立てて勢いよくオレンジジュースを吸い込んだ。


 僕はその光景を何の気も無しに眺めていたのだけれど、一気にグラスの半分ぐらいを飲み干した先生が「ありがとうな」と僕の目を見て、その途端にダムが決壊したかのように恥ずかしさが湧きだしてきた。


「て、テーブルの上に置いておきますね」


 僕はそう言ってグラスを置くと、僕の慌てた様子に不思議そうな顔をした先生から逃げるように回れ右した。


「ひゃっ!?」


「うわっ!?」


 振り返るとすぐそこにはいろりさんがいて、最初に出会った時のように倒れそうになった。


「ご、ごめんね二幹くんっ」


「いや、ぶつからなくて良かったよ……」


 僕は一歩下がり、いろりさんも一歩後ろに。お互いに立ち位置を調整し終えてから、いろりさんが口を開いた。


「二幹くんと先生が買い出しに行ってくれたんでしょ? だからそのお礼を言おうと思って……」


「なんだ、そんなことか物部」


 オレンジジュースを飲んでいくらか回復したのか、いつの間にか先生はソファに座り直していた。


「お前は歓迎される側だからいいんだよ、そんなこと考えなくても」


「だけど、二幹くんは買い出しに行ってくれたのに、同じ一年の私が何もしてないってのも……」


 いろりさんは申し訳なさそうに目を伏せた。

 そんなこと気にしていたのか。いいのに、それくらい。

 だけれど、そこで気にしてしまういろりさんの気持ちも分かるけれど。


「でもほら。コイツ男だし」


 諏訪部先生は口に咥えたストローで僕を指し示す。

 このご時世では色々と問題ありそうな言葉だけれど、でもそれは事実。差別とかじゃなくて、ただの適材適所だ。

 体格で優れる男が力仕事を受け持つ。ただそれだけの話だ。

 まあ、僕個人としては肉体労働は不適だったけれど。


「でも、女性の先生だって行って下さったじゃないですか」


 だけれど、いろりさんの反論は正論だった。確かに、ならばどうして一番小っちゃい先生が買い出しに行ったのかという話になる。

 しかし諏訪部先生はそんな反論は予想で来ていたらしく、「あたしは年長者だからな」と堂々と言い返した。


「年長者が雑用を受け持つのは当たり前だろ」


 諏訪部先生のそれは、一見いい言葉だった。いや、良い言葉なのは確実だった。けれど実際はそんな「年上故の余裕と責務」の現れた行動ではないことを僕は知っていた。


 買い出しに率先して行ったのは部費でお菓子が帰るからだ。帰り道で「くそ、タダ菓子とはいえこれじゃ割に合わねえ」とか言ってたから間違いないだろう(その裏付けに先生の選んだお菓子は日持ちのする個包装のものが多く、残ったお菓子を私物気する満々だった)。


 だけれど、それでも率先して買い出しに出てくれたことは間違いない。僕に押し付ければいい重たい荷物を、自分も分担して運んでくれたことには間違いないのだ。


「……まあ現実的な話として、部費を使ってる以上はあたしが直接会計を済ませなきゃいけないんだよ。いや、生徒に金を預けてもダメじゃないだけどな、あんまりやると怒られるから…………」


「余計な事考えず、後輩ちゃんは素直に堂々とお菓子を楽しめばいいのよ」


 そう言葉を挟んだのは、マシュマロの袋を抱えた十時さんだった。口の周りがマシュマロの粉(あれって何の粉なんだろう)で真っ白になっているけれど、彼女に気にした様子はない。


「部長のわたしが何もしていないんだから、ヒラの後輩ちゃんは平然としてていいの」


「えっと……それは……」


 どういう返事を返せばいいか分からないです、といろりさんの顔には書いてあった。


「それに後輩ちゃんがあんまり申し訳なさそうにしてると、先輩さまは色々と居心地がわるいから」


 そして、十時さんは何が面白いのか、あはははと子供のように笑った。


*


 結局お菓子の半分も食べきれずに歓迎会はお開きになった。参加者たちの感想は「胸焼けがしそうだ」「太っちゃいます」「マシュマロでお腹いっぱい」とのこと。


「後片付けは僕がやります」と後輩らしく名乗り出たところ、「じゃあお願いね」「任せたぞ」と言って先輩と顧問はそそくさと帰ってしまった。顧問はともかく先輩は今日お菓子を食べる意外のことを何もしていなかった。


 自分から名乗り出てるからそれで構わないんだけど……なんだかな…………と紙コップをまとめ始めたところで、「私もやるよ」といろりさんが手伝ってくれた。


「ごめんね、何だか突き合わせちゃって」


「いえいえ。一人だけにやらせちゃう方が私としては嫌なのです」


 食べかけのスナック菓子はいろりさんのヘアゴムで蓋をして、ジュースは冷蔵庫に押し込んだ。それでも入りきらないジュースとお菓子のいくつかは僕といろりさんで持って帰ることにした。それくらいの報酬、頂戴しても罰は当たらないだろう。


「今日は楽しかった?」


「楽しかったよ!」いろりさんは即答した。「すっごい楽しかった」


「そっか。ならよかった」


 僕が企画した訳でもないし、どころか僕は何もしていないけれど。


「うん。またみんなで遊びたいな」


 いろりさんは箒でお菓子の食べかすを集めながら、随分とキラキラした目でそう言った。


「……クラスでよく喋ってる二人とはこういうことしないの? 打ち上げじゃなくても、学校帰りに遊びに言ったり……」


 そのいろりさんの様子が随分と上機嫌そうで、でも友達がいない訳じゃないいろりさんがそんなにはしゃいだ様子なのが不思議に思って、僕はついそう訊ねてしまった。


「二人って……フユとカリンのこと?」


「多分……そう」


「あの二人は……友達だし、遊んだりもするけど…………」


 途端にいろりさんはごにょごにょと口ごもって、上機嫌な様子はどこへやら、切なそうに目を伏せてしまった。

 やらかした、と思った。地雷を踏んでしまったと思った。


「あ、いや、別に仲良くないとかじゃないの。だけどあの二人は……私にすごい気を使ってくれるから…………」


「……気を使ってくれる?」


 いろりさんが何を言いたいのか、そのフユとカリンという友達がどういう存在なのか、いまいち僕には伝わってこなかった。


「……あの二人はね、中学校の頃から一緒なんだけど」僕が困った表情をしていたからか、いろりさんは掃除の手を止めずにぽつぽつと説明してくれた。「私の自殺のことを知ってるんですよ」


「ばれちゃったってこと?」


「って言うか、相談したんです。二幹くんにあの日言ったみたいなことを。そしたら凄い心配してくれた……っていうか、腫物みたいな扱いになってしまいまして」


「あー……」


「それからもずっと仲良くしてくれるんだけど、私が少しでも落ち込んでたりする素振りを見せると凄い気を使ってくれたり、優しくしてくれたり……それ自体は嬉しいんだけど。何ていうか、そういうのって」


 本当の友達じゃないよね。

 いろりさんは一際切なそうな表情で、唇を小さく動かした。


「あの二人がどうこうって訳じゃなくて、私がね。私の人格が、あの二人に気を使わせてしまってるの。友情ってそういうのじゃないよね。互いが本音で、気を使わず――そういうものじゃない? だからそれをさせれない――気を遣わせてしまう私が、あの二人を友達にできてないの」


「それは――少し極論な気もするけど」


「でも、間違っては無いでしょ? 私の「死にたい」っていう気持ちが二人に気を遣わせて、二人が私と一緒に居てくれるのは『私と友達だから』じゃなくて――もちろんそれはあるけど、それだけじゃなくて『私のことが心配だから』って理由が幾分か含まれてるの」


「友達だから、心配してる。それは何も間違ってないと思うけど」


「うん。だけど、それは段々と義務感になっちゃうんだよ。最初は行為とか善意とかから心配してくれてたんだろうけど、段々と義務感に変わっちゃうの。目を離したら死んじゃうから、気にかけてあげなきゃ自殺しちゃうかもしれないから、だから気を使う。そういう風に変わっちゃう――変わってるんだよ」


「…………」


 いろりさんのその主張は。

 やっぱり、極論だと僕には感じた。


 だけれどそれは極論であっても曲論ではなくて。

 つまり、極端なだけで間違った理論では無くて。

 だから、僕は彼女の主張を否定することはできなかった。


 分かった。いろりさんが、青春を経験したことない理由が――「青春を経験したことがない」と言った理由が。

 いろりさんの自意識が、邪魔しているのだ。友達と遊ぶ、駄弁る、同じ時を共有する――そして「楽しい」と思う――そして「いやでも」と思ってしまうのだ。「いやでも、これは私のことを気を使ってくれてるだけ――」。


 いろりさんが楽しくない理由は、それだ。経験しているのに、それを感じ取れない。感じ取れないというか、「楽しい」と思ってはいけないと思っている。


 自意識だ。僕がするべきことは、いろりさんに楽しい経験を指せるのではなく、その自意識を取り払わなければいけないのだ。やはり、方法は分からないけれど……。


「……ごめん、ネガティブなことを言っちゃって」


「いや、大丈夫。そういうのも含めて協力」


「それは『そういう立場だからしょうがない』って意味で、二幹くん個人としては大変だと思ってるでしょ? 私、反応に困ることばっかり言ってるし……」


 いろりさんは完全に手を止めて、でも箒の柄をぎゅっと握りしめて、ぼそぼそと目を伏せながら口を動かしている。

 ……どうやら、いろりさんのネガティブスイッチがオンになってしまったらしい。


 面倒とは思わない。大変……というのはあながち間違いじゃないけど、どちらかというと手こずっているという表現の方が正しいか。

 労力はあるけれど嫌じゃない、と言った感じ。


 僕はバッグの中から、さっきしまったばかりのジュースとお菓子を取り出すと、それをテーブルの上に置いた。そしていろりさんにソファに座るように促す。

 こうなったらゆっくりと腰を据えて話を聞かなければならない。いろりさんの主張を改めて聞くいい機会だし、それがいろりさんのストレスの発散にもなるだろう。


 だけれど、いろりさんはゆっくりと首を振って僕の誘いを断った。


「今日は帰ります」


 そう言って、鞄を持って僕に背を向けた。だけれど直ぐに振り返って、「掃除……」と箒を見つめていた。


「いいよ、あと少しだけだし僕がやっておくから」


「……ごめん」


「謝んなくていいのに」


「そうじゃなくて、私に協力してくれてるのに変なこと言って」


「だから謝らなくていいって」


「……ごめんね」


 そしていろりさんは、そのまま逃げるようにして去って行った。一人残された僕は、初めてソファに身体を沈めた。なかなかどうして快適で、このまま寝てしまえそうだった。


 掃除はなんだかやる気が出なくて、結局ずっとだらだらしていて、ようやっと取り掛かって終わったことには下校時刻ギリギリだった。

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