天秤堂

 1


 瑞渓寺ずいけいじ顕海けんかい上人が天秤堂てんびんどうで入滅したのは戦世いくさよも終わりの頃。不可思議な動物が描かれた袈裟を纏い、南蛮由来の墨壺を携えて、心頭滅却の境地にて、終わらぬ読経、その末に悟りを啓いたという。それから三百余年が過ぎ、文明開化の嵐が吹こうとも、かの上人の即身仏はそこにあり、ありがたい本尊として恭敬を集め、永久なる眠りについている。

 

 と、それは高僧たちが説教に語る古伝であり、天秤堂の扉は鋳鉄の錠と鎖によって重く閉ざされ、あるはずの木乃伊ミイラを見た者などいるのかどうか。神秘は秘匿されているからこそ神秘であり、真実そこにあるものは黴臭いがらんどうなのではないかと、信心薄い人々は囁きあったものだった。


 §


 ある日、瑞渓寺の小坊主である小景しょうけいが作務の合間を見計らい、高僧の顕宝けんぽうに訪ねたことがある。


「和尚様。顕海上人は偉い、顕海上人は素晴らしい、とおっしゃいますが、ぼくは天秤堂の扉が開かれているところを見たことがありません。兄弟子の紅景こうけい豊葉ほうようも、だあれも見たことがないと言うのです。ならばどうして、顕海上人が入滅され、仏様に成られたなんてことを信じられましょう。ほんとうに上人は、あそこに今もおられるのですか」


 こんな罰当たりなことを言ったからには折檻されるかもしれない、と小景は身構えたが、顕宝はふんと鼻を鳴らせど、声を荒げるような事はなかった。高徳の人らしく、あくまでも柔らかく諭そうとする。


「これ、小景や。また、そのような生意気なことを。儂が嘘をついているとでも思うのか。お主らに、修行の大切さを説くための方便だとでも。確かに、他の寺にはそういうところもあるやも知れぬが、この瑞渓寺のそれは正真正銘、真実真正。天秤堂には、三百余年を経てもなお朽ちぬ、乾いた仏がおわすのだ」

「和尚様は、顕海上人の御遺体を見たことがあるのですか」

「ある」


 顕宝ははっきりとそう答えた。それが嘘か真か見抜くには、小景はまだまだ若すぎた。


「では、ぼくにも天秤堂のなかを見せてくれませんか」


 つまりは、若者ゆえの好奇心の発露だった。高僧以外の何者も覗くことを許されぬ、開かずのお堂。そこになにが在るにせよ、探りたい、確かめたい。もちろん、簡単に許されるとは思っていないが。

 顕宝は、小景の目をじっとのぞき込んだ。なにかを探るような、見定めるような、年波に濁った眼光で。長年の僧籍が老人にそのような表情を身につけさせたのか。なにを思っているのか、まるで読み取れない。小景は石の仏像に睨まれた心地になり、背に怖気を感じた。やはり訊かなければよかった、と思った。


「いずれ時が至れば、顕海上人の御遺体に目見えすることもできよう。だが、お主にはまだ早すぎる。その日まで、修行を怠らずに待つことじゃ」


 そうして、顕宝は犬に似た生き物が描かれた黒袈裟を翻し、木板の床を鳴らしながら去っていった。


 2


 またある日のこと。


 露見すれば高僧たちの閻魔の如き怒りを招くに違いない、罰当たりな計画を立てたのは、紅景だった。毎日、暁から宵までの厳しい修行によって、筋骨隆々のたくましい体躯へと育ったが、剃髪の剃り残しが青々とした頭のなかはまだまだ無邪気な少年で、世俗にあれば立派な餓鬼大将となっていたであろう青年だ。

 紅景と、その悪友である豊葉、それとふたりのお気に入りの弟弟子である小景は、瑞渓寺の本堂より奥の奥、六百段もの階段を登った先、鬱蒼と青葉を茂らす竹林に囲まれた霊殿である、天秤堂へと赴いた。


 三人は息を弾ませながら、藪の影に潜み、様子を伺った。

 天秤堂は、大きさこそ立派な東屋といった程度だが、金の装飾と見事な木彫り細工が施された中世寺社建築の遺産である。入滅に望む顕海上人が、自らの永遠の涅槃として設計したと言われ、瑞渓寺の他の伽藍とはかなり趣がことなる。一番の特徴と言えるのは、上から見れば完全な正方形に見える方形ほうぎょう屋根だ。全面がきらきらと金色に輝く様を見て、遥か砂漠の国にあるという金字塔とはこんなものであろうか、と小景は思った。


「いいか、小景。俺と豊葉が、門番の気を引きつけておく。お前はその間に、壁板の隙間を見つけるなり、縁の下の潜りこんで床を外すなりして、お堂を覗け。そいで、この写真機でなかの様子を写すんだ。わかったか」


 小景は興奮して、にんまり笑った。高僧たちが用いる翡翠の数珠より十倍も高価な最新の乾板写真機は、地元の大商の息子である豊葉のものだ。以前から、ふたりの兄弟子が楽しそうに弄っているのを見て、羨ましく思っていた。尤も、お寺では現像ができないから、街へ買い出しに行く隙でも狙わなければ、写真とはならないけれど。

 小景は小冒険に心を躍らせたが、不安もあった。天秤堂の門前に控える、門番のことだ。七尺に届こうかという鬼のような巨躯をしていて、獅子の仮面と編み笠で隠した素顔を見た者は、誰もいない。手には鋳鉄の大錫杖を構え、身じろぎもせず、真夜中だろうと吹雪の日だろうと、ずっとずっとそこに立ち、上人の眠りを守っている。天秤堂と同じく、瑞渓寺の不思議のひとつであるのだ。

 けれど勇敢なふたりの兄弟子は、一切の躊躇もすることなく、行動をはじめた。豊葉が投げた石つぶてが、門番の足下にごろりと転がった。門番は三人が潜む藪に向き直り、石像めいた鈍重さで歩きだした。


「ほら、今だ。お堂の裏手に回り込め」


 紅景と豊葉は、わざと笹の葉を揺らして大きな音を起こし、竹林の奥へと走って行く。小景は音を立てぬよう抜き足差し足で小走りして、天秤堂へと向かう。門番は音を追って竹林に入り込み、視界から消えた。


 今だ。


 小景は心中で気合いを入れると、藪から飛びだし、お堂の軒下へと入った。計画の序段は、成功である。


 小景は、金字塔を改めて見上げた。これほど近くで天秤堂を見るのは、初めてのことだ。壁や柱、虹梁に施された装飾が、ここでははっきりと見える。

 なんとも不可思議で、それでいて不気味な細工である。壁の浮き彫りには、多くの異形が描かれている。それは確かに、身体や手足は人であるのだが、ひとつの部位が違う。猫や犬、それに鳥――その頭部が、人間の首の代わりに胴と繋がっている。さらに奇妙なものでは、麻布のようなものを被り、脚だけを露わにした謎めいた生き物の姿もある。これらは一体なんであろうか。

 また、霊殿を支える柱にも、普通の寺社では決して見られないものがある。柱の一部が長方形に削り取られ、細かく小さな図柄が並んでいる。それは、鳥や四つ足の動物、犬や虫、男や女、それに船を象ったような記号であり、一面にずらりと刻み込まれている。もはや、絵というよりも、文字だ。

 未熟な小僧の身にあっても解る。これらは仏への信仰とはまったく異質な思索――その一端。曼荼羅に描かれた浄土とは、別の宇宙を顕したもの。


 異様な雰囲気に呑みこまれ、一時の忘我にあった小景は、自らの平手で顔を打って気付けをした。目的は、お堂を覗く隙間を見つけることだ。気圧されている場合ではない。しくじれば、兄弟子に馬鹿にされることだろう。

 小景はお堂の四隅を回って、どこか痛んだ壁板がないか探った。だが、ない。三百余年を経た年月の浸食による染みやくすみはあっても、損傷はまったく見当たらない。正面の大扉の前に立ち、鋳鉄の錠を検めてみる。引けど叩けど、まったく外れる気配はない。壁面から内部を伺うのは、不可能なようだ。

 ふと、小景はそれに気づいた。どこか甘く、痺れるようで、錆にも似た臭い――香の煙ではなく、供えられた食べ物でもなく、知らずに肌を粟立たせる、どうにも不快な臭いに。どうやらお堂のなかから漂ってくるらしいが、一体どこに隙間があるのか。


 縁の下だ。


 小景は確信して、お堂の軒下から飛び降りた。屈み込み、全き影のなかをのぞき込む。間違いない、臭いはここから流れてくる。

 写真機を壊さないように慎重に持ち替えて、縁の下へ這いずっていく。肌寒く、じめっとした暗闇。赤かったり青かったりする茸の類が土台にまとわりつき、カマドウマやゲジが辺りを走り回っている。

 小景は気味悪さを堪えようと、小声で経を唱えた。だが、暗さと蠢く蟲に耐えることができても、あの臭いは別だった。床下の臭気はもはや耐え難いほど濃密に香っている。この世のあらゆる不浄を煮詰めたかのように、強く、甘く、澱んで。これほどおぞましいものが、聖者の臥所にあってよいのだろうか。天下万民を地上の穢れより救済すべき、瑞渓寺の本尊の在処に。

 縁の下のちょうど中央辺りまで潜りこんだ小景は、頭上の床板を検めた。床上に通じる、跳ね板や隠し階段はない。力を込めて叩いたり蹴ったりしてみるが、どこも完璧に釘止めされているらしく、びくともしない。


 一カ所だけ、ほんの隙間が開いている箇所がある。臭気の源だ。内部の蝋燭だろうか。薄ぼんやりした明かりが零れてくる。けれど隙間は覗くには狭すぎて、とろりとした燈色の薄闇の他は、なにも見えない。

 小景は、無念か安堵か解らぬ溜息を吐いた。こうなれば、お堂を暴く計画は諦めざるを得ない。兄弟子たちはがっかりするだろうが、もう、それでもいい。もし何処かの床が外れて、ひとりきりでお堂に上がり込まなければならないとしたら――今となっては、考えるだけでも恐ろしい。異形の装飾とおぞましい臭気が、これまでに感じたことのない恐怖を催させ、小僧の小さな勇気を挫いてしまっていた。


 戻ろう。


 と、小景が縁の下から這い出ようとした――その時である。微かな、だが確かな――耳慣れぬ音が、耳の鼓を揺らした。床上から――天秤堂の、なかから。

 

 こり、こり、こり、こり……

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……


 なにかを削り取るような音と、水を啜るような音。

 すわ鼠か、と小景は思った。大物が、虫でも捕まえて囓っているのかしらん、と。

 だが、違う。音の合間に、もうひとつの別な響きがある。


 声、だ。


 小動物の鳴き声ではない。密やかに、繰りかえし、囁く、くぐもった言の葉の連なり。地の底で湧きあがる念仏じみた、低く、暗い、唱え言。小さな小さな穴の向こう。薄明かりに乗って、聞こえてくる。


 ……われ……ぼさつのてんびんを……いぬぼとけと、ときの……さばきにて……さればくらわん……とがびとの……


 小景は悲鳴を上げて、床下から飛びだした。そのまま振り返りもせず、一目散に竹林に駆け込み、すっ転びながら山を駆け下っていく。意気地も正面も失って、あまりの恐ろしさに赤ら顔を青く染めて。


 結局、三人の計画は失敗に終わった。ずいぶんな騒ぎを起こしたはずだが、幸いなことに、高僧たちには露見しなかった。ふたりの兄弟子は事情を聞いてから、弟分の臆病さに大笑いした。


 後になってから小景は、今日の出来事について、よくよく考えてみた。結果、得心できる結論を出した。あの時、幽霊か妖怪変化の呪詛の声を聞いたのかと思ったが、それは早合点だった。天秤堂は常に無人ではない。顕宝を始め、目見えの資格を持つ高僧たちは、天秤堂に出入りすることができる。だからあれは、いずれかの和尚様がお堂のなかで瞑想なり解脱の試みなりに耽っていて、漏れ出た声を聞いた。そうに違いない――と、自分を納得させた。

 そして、冒険に疲れ果てた小景は、煎餅布団にくるまって、泥のように眠った。

 

 その夜。


 誰も知らずの間に紅景が姿を消し、もう二度と戻らなかった。


 3


 それから半月余りが過ぎた日。


 小景と豊葉は修行者の作務として、本堂にある書庫の清掃に努めていた。

 あの日以来、ふたりは以前ほど連まなくなった。いつも間にいた、紅景がいなくなってしまったから。

 高僧たちは、紅景は修行に嫌気が差し、出奔したのだろうと言う。だが、もしそうだとして、親友であった豊葉になにも告げず消えるなど、あり得るのだろうか。小景には、信じられなかった。

 考え事が心中をぐるぐると巡り、身が入らない所作で書架の埃を払っていると、仏具の棚の方から、どしん、と音がした。目をそちらへ向けると、豊葉が棚から古臭い桐箱を下ろし、幾重にも捲かれた黒染めの紐を解いている。


「豊葉兄い。一体全体、なにをしているんだい」


 と、小景が訪ねれば、豊葉はにやにや笑いを顔に浮かべながら応える。


「こういう箱にはな、稀なお宝がしまわれてるもんなのさ。知ってるか。この瑞渓寺はな、戦世いくさよの頃には外国の商船と取引をしていて、その頃の珍品がまだ何処かにあるかも知れん、って話をさ」

「まさか、くすねるつもりじゃないだろうね」

「馬鹿なことを言うんじゃないよ。黄金の仏像か金剛の宝珠でも出てくれば、わからんがね」


 商家の息子だけはあり、金目のものがあれば拝んでおきたい性分なのだろう。小景は変に感心して、豊葉の太った指が埃を被った蓋を外すのをわくわくしながら見ていた。

 在ったのは、小汚い唐紙の包みである。それを一枚剥いて、二枚剥いて――露わになったものを目にして、小景はがっかり拍子抜けした。


「豊葉兄い。なんだい、そりゃあ」


 それは、いつの物とも知れぬ、年古りた巻物であった。青海波模様の装丁がぼろぼろに剥がれた大小が合わせて三巻。豊葉が紐解いて、くるくる広げてみれば、なにやら古めかしい文言が綴られているが、黒い染みと虫食いだらけで、あちこちが欠損している。こんな紙屑は、寺荒らしだって欲しがるとは思えない。


「おい、どうやらこれは、大昔の高僧が遺した手記のようだぞ。ほれ、ここ見ろい。六念院ろくねんいん建立の年、とある。顕海上人が入滅するよりも、前のモンだ」


 豊葉は意外な熱心さを発揮して、古書の解読に取り掛かった。読めない箇所は飛ばし飛ばし、指で文字をなぞっていく。読み物がなにより苦手な小景が、声に出して読み上げてくれ、と頼んだので、兄弟子はそのようにした。


 §


 六念院建立の年――南蛮より来たりし異人の商人、宵刻に本寺に至り……白きを過ぎ、亡者の如き蒼々とした面なれば……鉄匣より数多の秘宝、珍品を披露目にし、我は大いに感心すればこそ……仏殿の備えと粧飾……黒玉の球など買う……後にもこの商人、たびたび此処に往来す……


 かの蒼白なる異人の商人、稀なるものを携え、宵刻に来たる……それは黄金の鋳り物なれど、奇怪なる像の数々……鳥獣の頭を首に据えたヒトガタは、太古に亡びし異邦の神仏の似姿であると……


 この世には、真に奇妙なえにしが……蒼白なる異人の商人がもたらした品により、この瑞渓寺が教えは啓かれ……解脱の道は、近く……本山の売僧どもの怒りを買えど、曼荼羅の外なる拡がりこそ……仏の御心を、我は今こそ解し……


 黎明の祭祀書、黒き血……日照菩薩の天秤……咎の力は法によって……


 §


「なにをしておるのです」


 甲高い声が、書庫の埃っぽい空気を裂いた。小景と豊葉が驚きに眼を開いて戸の方を見れば、年少の高僧である純慶じゅんけいの姿が、外の明かりを背にして細い影を投げている。ふたりの近くに詰め寄りながら、


「また、お前たちですか。作務をほっぽり出して、一体なにを――」


 純慶は、豊葉の手元に目を止めて、口を噤んだ。無感情な面の眉元が、微かに歪むのを、小景は見た。


「――この棚にある箱を、修行僧が許しなく開くことは禁じられています。知らなかった、では済まぬ事ですよ」


 その声には怒りと、もうひとつなにか別の――焦燥めいた響きが混じっていた。かっ、と怒鳴るのを、堪えているような。

 豊葉は大慌てで巻物を箱に戻し、純慶の法衣の裾にしがみつく勢いで謝った。名役者だ、と小景は思いながら、兄弟子より遥かに劣る演技で頭を床にすりつけた。折檻は免れないかもしれない。


「此処の掃除は、後日別の者にやらせます。お前たちはもうよいので、廊下を磨くのを手伝いに行きなさい」


 意外なことに、純慶はふたりをあっけなく解放した。ふたりは奉行に平伏する罪人のように恐れ入った芝居をしながら、駆け足で書庫を抜けだした。小景が一目だけ振り返ったとき、高僧の黒袈裟に描かれた朱鷺が、こちらを睨めつけているように見え、言いしれぬ恐ろしさを覚えた。お前の行いを見ているぞ――そういわんばかりの冷え切った目に。


 その後、命ぜられた床磨きをしながら、小景は巻物に書かれていた内容を思いだし、吟味した。どこかで見たような、聞いたような、あの文言。


 そうだ。あの日、本尊を祀る霊殿で見た異形の装飾――それに、堂内から聞こえた不気味な声――あれを想起させる。鳥獣の頭のヒトガタ、菩薩の天秤――なにか、天秤堂と関わりのある文書だったのだろうか。


 そんな小景の思索は、作務の忙しさに紛れ、すぐに掻き消えた。戒律を破って寺を追い出されない為にも真面目になろう、と決意しながら。その日中は何事もなく更けていった。


 夜。


 豊葉が、いなくなった。


 4


 数年が過ぎ――小景は立派な青年へと成長した。以前のような不品行はなく、作務を任せれば掃除に炊事に耕作に、修行ならば写経に読経に瞑想にと、至極熱心に取り組んだ。この年が明ければ、位階を得るための試練を経て、いよいよ瑞渓寺の正式な僧となるだろう。


 だが、小景は知らなかった。いつの間にか、その資格を得ていたことに。この古寺のささやかな秘密に隠れた、犬と朱鷺の目によって、選ばれていたことに。


 その知らせは唐突に訪れた。

 ある朝、小景が目を醒ますと、封蝋の押された巻紙が枕元に置かれていた。目を擦りながら、なんだろう、と内容を検める。紙を広げた瞬間、怖気がぞっと背筋を奔り、眠気は彼方に去ってしまった。

 そこには、一文が書かれていた。いつか見た、あの謎めいた記号の羅列と共に。


『今宵、天秤堂を訪うべし。他言は許されぬ。この紙は炉に焼べ灰とすべし』


 朝餉の仕込みも終わり、修行僧たちが寝床に就こうかという時刻、小景は宿舎を出た。うっすらと蝋燭の灯火が染める本堂を横切り、山を登る六百階段へと向かう。当然、外を出歩いている者など、誰もいない。月の淡さだけを頼りに、道を辿り行く。

 早足で階段を昇っていくとき、小景はかつて天秤堂へ行った時の記憶を回想した。あの時、自分はまだ幼く、傍らには紅景がいて、豊葉がいた。自分を可愛がってくれたふたりの兄弟子は、誰にも告げず、何処かに去ってしまった。愚かだったが、確かに楽しかったあの頃。そういえば――と、小景は今になって気づいた。自分は今、あのふたりと同じ齢になったのだ、と。


 長い階段が過ぎ、虫も鳴かぬ竹林を過ぎると、ようやく、あの方形屋根が見えた。月光のもと、比類なき金色の美しさを放つそれは、むしろ魔性の御殿に思えた。研ぎ澄まされた嗅覚は、既にあの臭気を感じ始めている。


 霊殿の目前まで至った時、小景は門の前に立つみっつの影に気づいた。ひとつは、見紛いようもない獅子面の門番の巨躯。その両脇に控える痩せた姿は――高僧の顕宝と純慶だった。小景は内心の動揺を堪え、恭敬を表して目を伏せた。


「小景よ。よくぞ参った。かつての昔日、儂に語ったお主の望みが、ついに叶う時が来たぞ」


 臓腑を振るわすような、厳めしい老僧の声。


「お前は修行の末、立派に成長しました。そして、願えど叶わぬ素晴らしい栄誉を――目見えの資格を得たのです」


 鋭く空を切るような、甲高い若僧の声。


「今こそ、黎明にありし神仏の涅槃たる天秤堂の門をくぐり、万民の霊を問う顕海上人の御遺体に謁するのだ」


 心の臓が、どくんと跳ねた。ふたりの師の、理解の及ばぬ熱情にぎらついた瞳――ふたりの黒袈裟に描かれた犬と朱鷺の瞳が、ただ自分ひとりを見つめている。名状できぬ無形の恐怖と、かつての記憶が思い起こさせる鬼胎とが入り交じり、正気を濁らせていく。

 門番が錠を外し、鎖を千切り、封印は解かれた。堂の扉が開いていく。漏れ出る、おぞましい臭気。甘く、痺れるようで、錆にも似た――この世のあらゆる不浄を煮詰めたかのように、強く、甘く、澱んで。

 逃げることは叶わぬだろう。破門で済むかも、解らない。孤児の身なれば、俗世に居場所はない。選択肢は、与えられない。

 小景は、堂内に広がる闇と、その奥の薄ぼんやりした明かりを見つめながら足を進めた。右に険しい表情を結んだ顕宝、左に薄ら笑いを浮かべる純慶を過ぎ、犬頭の仏と鳥頭の仏が浮き彫りされた門をくぐった。

 

 後ろに扉が閉ざされた時、小景はもはや振り返らなかった。恐怖に克ったのではない。ただ、空間を覆う異形の美に魅入られ、忘我にあったのだ。


 たった二本の蜜の蝋燭がうっすらと照らすのは、奇怪な仏像。様々な場所に描かれていた、犬の仏と鳥の仏が銅によって形となり、堂の左右に佇んでいる。

 天井に描かれた曼荼羅は、どの宗派のものとも違う。日輪を背負ったハヤブサの如来が中央に座し、人ならざる頭の菩薩がそれを囲む。太陽の運行と星々の海を渡る船の図柄の拡がりが、圧倒的な宇宙観を顕している。

 そしてなによりも、堂の最奥に座す、ひときわ巨大な菩薩像。長い髪を垂らす美貌は、法力の強さを示しているのか――硬く引き締まり、慈愛はない。掲げた右手は、金色に輝くハヤブサの羽根を摘まんでいる。美しい――世にある菩薩で、これに比類するものなどあるのだろうか。

 ここにあるのは、確かに美だ。と、小景は思った。仏の世界を破戒し、もはや醜悪な異教へと変わり果てた、冒涜的な美。


 おぞましい臭いが、思索を途絶えさせた。閉ざされた空間に凝集された悪臭が肺を満たし、意識を朦朧とさせ、吐き気を催させる。小景は目的を思いだした。顕海上人に、目見えるのだ。

 だが、暗すぎるためだろうか。聖者の遺体と思しきものは、どこにも見当たらない。本来ならそれがあるであろう中央の台座にも、菩薩像が見下ろす祭壇にも、なにやら赤黒い染みはあれど、なにも、ない。


 小景は途方に暮れた。一体、顕宝と純慶は、自分になにをさせたいのか。やはり即身仏など、古伝の創作でしかないのか。ならば、目見えとはなんなのか。早く――ここから出たい。


 しばらくそうしていると、小景は、自分の目が暗闇に慣れてきたことに気づいた。先刻までははっきりと解らなかったものが、見える。台座を染めていた赤黒い染みは床全体にあり、仏像の面や柱にも消えかかった名残がある。供物のための台座には、なにかの皮革で装丁された書物と、稀な形をした墨壺。

 床に、転がっているものがある。黒くて、四角くて、透明な部分が蝋燭の光を反射している。それを拾い上げて、小景は戦慄を覚えた。自分はこれを見たことがある――いや、触ったことすらある。


 乾板写真機だ。


 兄弟子であった、豊葉の。何故、これがこんなところに。

 それを推理する余裕は、与えられなかった。闇の暗さを知った目が、堂の隅々に溢れるものを、小景に認識させた。有無を言わせず、否応なしに。


 空間の端に、仏像の足下に、祭壇の裏側に、無数のそれが転がっている。おぞましき臭気の源であり、霊殿の正体が、仏敵の住まう魔殿である証左が。


 赤黒い端くれがこびりついた、白いもの――無数の人骨が。


 胸郭が、椎骨が、骨盤が、手が、足が、髑髏がそこかしこに散乱し、腐食し、蛆が巣くっている。

 汚穢が、不浄が、罪悪の痕跡が澱み、常世の世界を成す。ここは、地獄よりもなお深い。


 小景は叫ぶことすら出来なかった。声を失い、へたり込む。現と悪夢が混濁し、狂気が正気を浸食する。脳髄が痺れる。もう如何なる分別も失い、ただ夢なら醒めよ、と願うしかない。

 そして、無情な静寂に取り残された時、微かな、だが確かな――いつか聞いた音が、耳の鼓を揺らした。

 

 こり、こり、こり、こり……

 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……


 なにかを削り取るような音と、水を啜るような音。

 音は正面から聞こえてくる。怒り顔の、血に染まった菩薩像の影から。見える、闇の奥に、その面が。それは骨を囓っていた。詰まった髄液を啜っていた。


 やがてそれは、影から這い出した。枯れ果てた指、闇を湛えた眼窩――幾百年も血を吸い続けた、身体を覆いつくす包帯と、鰐の頭と獅子の身体を持つものが描かれた袈裟。人ならぬ牙の生えた口吻は、ひたすらに呪詛を呟いている。密やかに、繰りかえし、囁く、くぐもった言の葉の連なりを。


 ……我……菩薩の天秤を……犬仏と、朱鷺の……裁きにて……然れば喰らわん……咎人の……


 自らの運命を知り、狂気に思考を委ねた小景は、果たしてあれは誰の骨であろう、と考えた。

 そして、座禅を組んで、時が至るのを待った。悟りにも似た、境地で。

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