第1話 魔女のみる夢 その十



 酒を飲みすぎてしまった。

 足元がおぼつかないほどではないが、悪酔いしていることは、龍郎自身にも自覚できた。

「酒癖の悪い助手なんて、めんどう見きれないなぁ」と文句を言う青蘭に支えられて、龍郎はバーをあとにした。


 そのあとのことは悪い夢だったようにしか思えない。


 廊下に出たとたん、青蘭の顔つきが変わった。厳しくなり、しきりとあたりを見まわす。


「どうかした?」

 龍郎がたずねると、しッと人差し指を朱唇にあてる。

「来る」

「えっ?」

「悪魔の匂いだ」


 時刻はいつのまにか零時をまわっていた。そのせいか、廊下は照明が落とされ、薄暗い。病人の枕元に置かれた吸い口のなかみのように、茶色く濁った光が弱々しく周囲を闇から切り離している。なんだか空気まで汚れて見えた。


 また来てしまった。“向こうの世界”に。現実と非現実のはざま。そのことは龍郎にも感じとれた。


(逃げたほうがいいんだろうか? でも、青蘭がいるから大丈夫だよな? 言われたとおりにしてさえいれば……)


 青蘭が戦う気なのかどうかがわからない。それによって、逃げるか向かっていくかが違う。


 しばらく立ちすくんでいると、どこからか音が聞こえてきた。ポクポクと床を打つ音。場違いになごやかなその響きは、馬——それもポニーか何かのひづめの音のように聞こえる。


(こんなホテルのまんなかに、ポニー?)


 音のするほうを見すえる。

 薄闇を透かし見るように目をこらしていると、廊下のむこうから、やっぱり馬が現れた。いや、ロバかもしれない。馬にしては耳が長い。サーカスのロバのように、赤い手綱や花で飾られている。ロバにしても小さく、とても可愛い。


「なんだ。ロバだ。でも、なんで、こんなとこにいるんだろう?」


 龍郎が安堵の吐息をついて、それにむかって近づこうとしたときだ。

 青蘭が龍郎の手をつかんで、いきなり走りだした。ロバがいるのとは反対の方向へ。エレベーターのほうだ。


「え? 青蘭?」

「ヤツは魔王だ!」

「えッ?」


 龍郎たちが走りだしたとたん、ロバも追ってきた。最初は小さな可愛いロバだったのに、だんだん見ているうちにその姿が大きくなる。サラブレッドほどの黒い馬になり、やがて、それさえも超えて、さらに大きく大きくなっていく。廊下をふさぐほどに巨大化し、口から炎を吹いた。


「うわッ!」

 思わず、龍郎は悲鳴をあげたが、熱くない。炎は冷たかった。


「なんだ、これ?」

「幻なんだ。異相が違う」

「えーと?」

「ヤツの本体じゃないんだ。本体は異次元にいて、影だけを転移させてるんだ」

「なら、捕まっても問題ないのか?」

「いや。馬の姿で現れるのは、魔王ガミジンだ。魔界のネクロマンサー。人の霊魂にふれることができる。たとえヤツが影でも、捕まれば魂を喰われて死んでしまう」

「戦わないのか?」

「僕は本体としか戦えない」


 つまり、逃げるしかないということだ。

 馬の姿をした悪魔は歯をガチガチ鳴らしながら、疾風のような速さで廊下をかけぬけてくる。

 龍郎は青蘭の手をひいて、必死で逃げた。どうにかエレベーターの前まで来る。しかし、上昇ボタンを押してもドアがひらかない。三階に止まっている。降下の矢印はついたが、まにあわない。すぐそこに魔王が迫っている。


「階段しかない!」


 青蘭は幻とは言え、炎を見て気分が悪いようだ。悪魔と対峙したとき、いつも見せる毅然とした態度ではない。顔色が青ざめていた。


(最悪、おれが盾になって、青蘭だけはなんとしても逃がそう)


 エレベーター横の細い廊下へ入り、階段へむかった。

 ふりむくと、馬の悪魔は追ってきていた。そのあいだも大きくなり続け、廊下をピッタリすきまなく、ふさいでしまっている。

 後戻りはできない。悪魔に追いつかれないうちに前へ進むしかない。


 メインになっている廊下にくらべ、横道の廊下は半分ほどしか幅がない。今の魔王のサイズなら、とても侵入できないはずだが、ムリヤリに体をねじまげて通ってくる。顔は長細いから馬のままだが、体はすっかり奇形の物体になっている。粘土で作った馬が細い筒に押しこまれて、もとの形を失ってしまったように、体はねじまがり、変なところから足が生えていた。肛門からは脱糞したように腸がはみだしている。


 龍郎はとにかく、さきへ進んだ。

 階段がある。非常階段のようだ。暗くて狭い。


「青蘭。しっかりしろ。おまえのことは、おれが守るから」

「ここはアイツの作った結界のなかのようなものだ。この世界から出ないと」

「どっちに行けばいい?」

「わからない」


 しかたないので、とりあえず上にのぼっていく。


 高らかな蹄の音は、もはや聞こえない。粘土状の物体となった馬のなれのはては、四本の足のいずれも床に接していない。それでも、異様な速さで迫ってくる。


 つづれ織りの階段をジグザグに走っていくと、踊り場のあたりで、馬の首が前方からとびだしてきた。手すりを乗りこえて、頭部だけつきだしてきたのだ。目の前でガチガチと歯が噛みあい、興奮してたらした魔王のヨダレが泡になって飛んできた。


(もうダメだ。喰われる! 青蘭だけは……青蘭だけは助けないと!)


 龍郎は青蘭を背中にかばい、右手をかざした。苦痛の玉の埋没した右手を。

 光が発した。

 あたり一帯を染めあげる聖なる白い光——


 気がつくと、魔王の姿は消えていた。

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