再起のとき

悪夢から目を覚ますと、そこはあの地蔵堂であった。

ここは、と飛鳥が起き上がれば、ずきりと肋が痛む。その痛みが、あの光景が夢ではないことを思い起こさせる。発熱もしているのか、どこか浮かされたような思考で自分の体を省みれば、胴には添え木が当てられ、さらしが巻かれていた。纏っていた浅葱の着物は、掛け布団代わりに体を覆っていたようで、膝の上にひらりと落ちている。


横を見れば、忠松が寄り添うようにして眠っている。側には水桶と手ぬぐいが置かれている。


「そこの小僧ともども、拙が手当てを施した。医の道は仁、と申す故。」


不意に、背後から声がする。振り返れば、地蔵のすぐ側に、杖を付いた男が座っていた。白く濁った目からは、盲人であることが見て取れる。

何者だ、と飛鳥は大声を上げようとして、肋の痛みに阻まれた。


「無理に喋りなさるな。は知っておる。」


「間者、か。」


どうとでも捉えるがよい、と男が嘯く。飛鳥は、此度の内乱に際して、周辺諸国が放った密使であると予想を立てた。


「あれから、どれだけ経った。」


「ちょうど一両日だ。安心召されよ、友井家党首は無事であられる。」


あの戦闘の後、すぐに気を失った飛鳥は、それを聞いて安堵する。

だが同時に、きょうだい同然の男を喪ったことを思い出し、表情には影が落ちていた。顔を覆うようにして俯いた飛鳥の姿に、男はただ悼むように沈黙する。着物に、雫が一つ、零れ落ちる。


暫しの沈黙を破ったのは、闖入者。地蔵堂の障子が音もなく開くと、黒装束を纏った女が踏み入ってくる。

飛鳥が顔を上げて見やれば、見知った顔……新発田の私兵の一人であった。


「起きておられましたか。」


女がそう微笑みかけると、飛鳥は小さく頷く。女は飛鳥の隣に座り込むと、脇に抱えた桐箱を置いて、頭を下げた。


「助け出した人質はみな、無事に尼ヵ谷本城まで送り届けました。これも飛鳥様の助力あってのこと。」


「しかし、私、は……。」


そう言い淀む飛鳥を、女は目で制する。すべては覚悟の上、と無言で語りかける女に、飛鳥はただ、黙り込む他なかった。


「……それで、動きは。」


友井家はともかくとしても、人質解放の知らせがあれば他家に動きがあってもおかしくはない。飛鳥の問いに、女は少しばかり表情を曇らせた。


「未だ、何も。」


「拙の他にも、あの戦いを見ておった者が居る。其れ故であろう。」


正眼しょうげんどの、と、女が小さく呟く。男――正眼は、向き直ることも無く、語り続ける。


「魔人とも呼ぶべきあの女だ。が相手では、もはや尋常の人間では太刀打ちできぬ。むしろ、あの力を求めて康人勢に与する者もあるであろう。」


正眼の言葉に、二人は薊の姿を思い返す。常人とは思えぬ胆力に、凄まじいまでの生命力。そして、恐るべき妖剣。


「そうなれば、事は尼ヵ谷だけに収まらぬ。下手を打てば、世は乱世に逆戻りだ。」


「……誰かが、魔人を討たねば。」


静かに、飛鳥が呟く。しかしながら、その道があまりに険しいことをその場の誰もが理解していた。


「何者なのですか、あの女は。」


「……私にとっては、ただの昔なじみだよ。仕える国は違えど、徳雪やひたき様と同じにな。」


薊は、嘗て尼ヵ谷の私塾に籍を置く剣生であった。友好国の剣生同士、よわいも近かった彼らは、時にいがみ合いながらも共に剣の腕を磨く、友人とも呼べる間柄であった。

……そう、五年前の、あの日までは。


「何もかも、変わってしまった。きっと私のせいなのだろう。」


そう言って、膝もとの着物を握り締める。悔恨の表情を浮かべる飛鳥に、女は少しばかり複雑な表情を浮かべて、そっと肩に手を寄せた。


「飛鳥様、変わらぬ物もありましょう。」


そう言って、脇に置いた桐箱を、そっと飛鳥へ差し出す。これは、と飛鳥が訊ねれば、女は少しだけ微笑んで、そっと桐箱の蓋を開けた。


「私の、剣生服……。」


それは、あの雷雨の日。飛鳥が残していった紺の水兵服。丁寧に畳まれたそれを手に取れば、所々に何度も寸法を直した痕が見て取れた。


「お二人が、手ずから仕立て直したものです。あなたが何時戻られてもよいように、と。」


女の言葉に、布を握る飛鳥の手に、自然と力がこもる。やがて飛鳥は剣生服を胸に掻き抱くと、嗚咽を上げて肩を震わせる。


暫し、再びの沈黙が地蔵堂を包む。やがて、すんすんと鼻を鳴らす音が止めば、飛鳥は顔を上げてごしごしと顔を拭った。


「そうだ、泣いてばかりも居られない。今度こそ、ひたき様を助け出さねば。」


情けないところを見せた、と飛鳥が微笑めば、見守る二人はただ静かに頷いた。


「そう、忠松殿を起こしても構いませんか。」


ややあって、女が二人にそう訊ねる。飛鳥が不思議そうに見つめると、女が答える。


「松鶴組の棟梁が、しきりに書状の行方を気にしておられたのです。」


「ああ、あの血判状か。」


飛鳥はその言葉に納得すると、わざわざ起こすこともあるまい、と忠松の懐を探る。やや、皺の付いた書状を取り出すと、飛鳥は女にそれを手渡した。


「確かに。これも責任を持ってお届けしましょう。」


そう言って懐に書状をしまう女を、正眼が手で制する。ぬらりと立ち上がった正眼が書状のほど近くまで近寄ると、しきりに鼻を鳴らして書状を覗き込んだ。


「これは、明礬、か。」


そう言うと、正眼は書状を開き、懐から取り出した火打ち器らいたあでそれを炙りだした。


「正眼殿、何を。」


「何を、と言われても拙には見えぬ。だが、貴君らには見えるだろう。一体、何ぞ浮かんでおる。」


そう言って、正眼は火打ち器をぱちりと閉じる。

――再度広げた書状には、先ほどまでは見られなかった文様が浮かんでいた。


「これは、見取り図、か……っ。」


「成る程、人質共も、ただ死ぬつもりは無かったわけだ。」


それは、山城の設計者自から記した、克明な見取り図であった。ああっ、と女が声を上げる。見取り図の一階部分に、小さく抜け道と記された、細い通路が外まで繋がっている。

それは正しく、康人勢の虚を付くための、逆転の切り札。人質たちが忠松に託したのは、決死の覚悟ではなく、勝利の光明であった。


「……でかした、でかしたぞ、忠松っ。」


「うぇ、ええぇっ。」


飛鳥が感極まったと言う風に、寝ている忠松に抱きついて、頭を撫でる。

書状を守り抜いた功労者はと言えば、突然に押し寄せる柔らかな感触に、再び目を白黒させるばかりであった。

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