6 優しい世界





「つかれたぁ」


 セナは、草原の上に座り込んだ。

 体力も大事だと、毎日走ることが日課になっているとはいえ、別に今は走りたてじゃない。

 ランニングと勉強と。そんな時間が積み重なって、休憩時間だから出てきた言葉だ。


 生活が一変して早一週間。

 ガルはセナを誘ったときの言葉通り、環境だけでなく教育を与えた。

 孤児院生活もハードモードだけど、こっちもこっちでハードモードが待っているような予感はしている。ただし、種類の異なるハードモードだから、比較のしようはない。


 それでも、こちらの道を選ぶ方が正解だと、一週間経って確信している。

 確固たる生きる術があるのは強い。

 たとえ、魔獣という黒い獣の脅威に立ち向かっていく道だとしても。その先には安泰が約束されている。ガルが言った。


『よ、セナ』

「ベアド」


 ぼんやりと前方を眺めていたら、横の方から優美な獣が歩いてきた。


「ガルさんは首都に行ったんでしょ? ベアドはいいの?」


 神出鬼没な獣の姿が今あることに、疑問が浮かんだのはそういうわけだ。

 ガルは今日、朝から首都に出掛けた。

 ちなみにここは首都から少ーし離れた地で、首都には魔獣やらと戦う機関『教会』の本部があるらしく。

 天使の力を使って戦っているのだから、その元が『教会』でもおかしくはない……か。

 想像している教会より、ずっと物騒なんだけど。

 とにかく、そこに属しているガルは出掛けたのだ。


『駆けつけようと思えばすぐに出来るからな。俺はいつもわざわざ側について回ってるわけじゃなくて、ガルが首都に行ってもこうしてここに残っているときがあるんだぞ』

「へぇ」


 そういうものなんだ。

 すぐに駆けつけられるって、どういう仕組みなんだろうか。さっぱりだ。

 歩いてきた聖獣は、ゆったりとセナの側に腰を下ろした。

 いつ見ても大きいなと思う。


『疲れたって聞こえたぞ』

「耳いいね」

『聖獣だからな』

「そういうものなの?」

『うーん、いい加減に言っただけだ』


 何だ。

 でも、動物の姿だから、耳が良くても意外感はない。


「ねぇベアド」

『ん?』

「聖獣って、みんな喋るの?」


 早一週間、慣れとは怖いもので、毎日話しかけられる内に雪豹が話しているという違和感が彼方へ消えていった。

 聖獣というのは、皆会話可能なんですか?


『喋れるぞ。相手は選ぶけどな』

「喋りたくない人とは喋らない?」

『そういうもんだな』


 そっか。それも人間とあまり変わらない。


「聖獣ってどうやって召喚するの?」

『それ俺に聞くのか?』

「ふと思って」

『うーん、俺は知らないんだよなぁ。喚ばれたから来ただけだし』


 ガルが帰ってきたら聞いてみろよ、と言われてその通りなので、素直に頷く。

 セナは思い付きの質問をやめて、黙った。

 無言で、前を見る。

 周りは、どこまでも、どこまでも広がる草原だ。


 ノアエデンという領地には、町がなかった。

 屋敷がある辺りを除けば、周りはそよ風に吹かれる草による一面の緑。

 領地と言うからには、家の庭のようにはいかず広すぎて、端っこがどこだかはまだ知らない。

 とりあえず、屋敷から離れれば離れるほど、精霊が住む場所になるのだと聞いた。

 ここは、人間が住むための土地ではなく、精霊が住むための土地なのだと。


 時間の流れなんてどこかにいってしまったような空気は、身を委ねると飲み込まれてしまう。


「……ベアド」


 動く気さえもなくなって、ずっとこの景色を見続けていても飽きないだろう。

 ぼんやりと、目で前方を眺める中、ぼんやり口を開く。


「つかぬことをお聞きしますが」

『何だ、急にまた改まった言葉遣いで』


 止めろよーとベアドが言う。

 前にもそう言われたから、セナはベアドに敬語を使っていない。

 ガルは使用人にもセナのような子どもにも敬語で、誰にでもあれなのだということで、ベアドは諦めたらしい。

 敬語に逆戻りしたセナは、 うん、と返事にならない返事をしつつ、続ける。


「……転生とか、生まれ変わりとか……前世、とか信じますか」


 あなた神様を信じていますか的なことを言ってしまった。

 自分は、確かに死んだ。

 でも、ここにいる。

 見慣れない容姿になって、冗談じゃない環境に置かれ、そして妙な世界だったとも知ったばかり。

 この身は、何なのだろう。ぼんやりと考える時間ができて、身の上を考える。


『当たり前だろ』


 当たり前?

 穏やかな空気に飲まれたとはいえ、言い始めてからは幾分か慎重に口にしたセナに返ってきたのがそんな言葉だった。

 前を見ていた目を、傍らの獣に移すと、当たり前だと言った獣が語る。


『セナは、知らないことの方が多いんだったな』


 じゃあ俺が教えてやるぞ、とちょっと講師めいた言い方をして、ベアドは話を続ける。


『この世のものっていうのは、全部魂を持ってるんだぞ。人間と俺達や精霊とは体と魂の在り方と関係がちょっと違うみたいだけどな。けど、共通のことがある。それが転生だ』

「転生」

『そう。死んだら体はなくなるが、魂は巡って、記憶は受け繋がないがまた生まれる。そういう仕組みだからな、信じてるも何もだ』

「……へぇ……」

『何だよ、セナが言い出したんだろ?』


 聖獣は笑った。

 じゃあ、と、セナは考える。

 ──わたしが死んで、また生まれた記憶がある状態だというのも信じられる余地はあるんだろうか。

 世界が全く違うということを除けば。


「……」

『おい、セナ』

「ぅぐ」


 お腹を押されて、妙な声が押し出された。


『あ、ごめんな』


 前肢でお腹を押したらしいベアドは、前肢をひょいと退けつつ、軽く謝った。

 急な重みに対して謝罪が軽い。


「以後お気をつけください……」

『うん』


 それで、何か呼んだ?

 お腹を擦り擦り尋ねると、ベアドは『急に黙られると気になるだろ』と言う。


『気になることがあるなら何でも言えよ。答えられることなら答えてやるぞ』

「……うん」


 今は、まだもう少し置いておこうと思う。その考え方があると分かっただけで、大きな収穫だ。


「ベアド、撫でていい?」

『んん? まあ、ガルと契約してからはガルにしか許してないんだが、いいぞ』


 ガルも撫で撫でするのか。

 ベアドが、唐突な願いも受け入れてくれたので、セナは大きな獣に手を伸ばす。

 触れる。

 真っ白い毛並みは、やっぱりふわっふわだった。ふわふわで、さらさらでもあって。

 これまでに触ったことのない極上の手触りだったけど、生き物を撫でていることに、飼い猫が懐かしくなる。

 白い猫を飼っていた。名前をギンジ。

 虚弱で、ろくに学校に行けなかったセナの側に誰よりもいてくれた猫だった。


「いい天気だね」


 よく澄んだ青空だった。

 雲一つなく、かといって夏空のようではなく、春の空のように穏やか。

 太陽の光も強すぎない。


『精霊や俺みたいな聖獣が力を及ばせて特別変えようと思わない限り、ずっとこうだぞ』

「どういうこと?」


 飼い猫を撫で撫でする感覚で大きな獣を撫で、他愛もない天候についてを呟いたところ、言い方に引っかかって手を止めた。

 変えようと思わない限り、ずっとこう、とは?


『ここは地上の楽園だ。外の普通の人間世界とは違うってことだ』


 最後の楽園、地上の最後の幻想的な空間。

 見上げると、思えば来てからずっと心地のよい晴れで、夜は見事な星空を広げる大空が広がっている。


「ベアドは、喚ばれる前は天上にいたんだよね?」


 天上から、聖獣を呼び出すのだと聞いた。

 精霊は大地にいる存在で、天使がいなくなった関係で、今では地上最後の楽園たるこの土地にしかいられないそうだが、聖獣は異なる。

 絵画に描かれていたように、天使の側に、つまり天上にいた。


『そうだ。召喚によって、今は地上に出てきてるだけだ。元々は天使のいる場所だけにいたからな』

「楽園は破綻したんでしょ?」

『破綻したが、なくなったわけじゃない。色褪せたまま、残ってる』

「残ってるの?」

『元の雰囲気なんて欠片もないあれが残っていると言えるなら、な』


 含みがある言い方が混ざった。声色も少し変わって、ベアドを見ると、その獣は目を遠くを見るような眼差しに変えていた。


『それでも俺達がいるべき場所はあそこだ。楽園はなくなっても天界がなくなったわけじゃないから、天界にいる。天使が愛した楽園の名残に』

「……天使がいなくなったとき、悲しかった?」

『もちろん悲しかったさ。今も喪失感はあり続ける。同時に、当時は怒りが大きかったな』

「何に、怒ってたの?」

『悪魔に』


 即答だった。


『悪魔が、天使を失わせたから』


 刹那のこと。

 質問が鍵となったように、優しい獣は、肉食獣に戻ったかのような雰囲気を纏った。

 鋭く、周囲に圧を与える雰囲気に、セナの体は硬直した。

 ──彼は、ペットではない。

 聖なる獣──獣なのだ。


「セナ!」

「ぐえっ」


 ベアドから目が離せず、固まっていたセナは強制的に動かされた。

 何かがタックルしてきたからだ。


「……エデ」

「うん!」


 タックルしてきた塊は、精霊なる存在の少女だった。


「セナ、セナ、こんにちは!」

「こんにちは。エデは今日も元気だね」

「うん! セナ、遊びましょ!」

「うわ」


 言うや、少女の姿をした精霊は飛びかかってきた。見た目のわりに、遊び方がワイルドですね。

 エデのストッパー役を果たしている少年ノエルの姿は見当たらない。

 草原に倒れ込むはめになりながらも、抵抗はしなかった。

 精霊というふわふわしたイメージのある存在のわりに、エデにはしっかりとした重さがある。周りに浮いている小さな精霊はイメージ通り、触れても分からないくらいふわふわしてるのに。

 とはいえ、エデはじゃれついてきているだけなので、可愛いものだ。

 妹という存在がいたら、こういう感じなのかなぁと考える余裕もある。

 今は、倒れ込んで見えた自然と見える空が綺麗だ。

 いい天気だ。

 こんなに気持ちよく、外で寝転がれる日が来るとは、前世からしても今世での孤児院の生活からも、思わなかった。

 だけれど、世の中、全てが全て良いものだけに囲まれるわけじゃない。

 健康な体と、良い環境を得たセナは、一生を草原で寝転がっていればいいのではなく、目指さなければならない先がある。


『セナ、もしも今してることが嫌になったら、普通に暮らせばいいと思うぞ』


 心でも読んだようなタイミングで言ったのは、ベアドだった。

 寝転んだまま見上げると、大きな獣からはいつの間にか肉食獣のような雰囲気は霧散していた。

 これまでも見てきた目が、セナを見下ろす。


「もしも、ね」


 誤解しないでもらいたいが、別に今嫌さは抱えていない。

 勉強と体力作りを始めてまだ一週間だから、疲れたなんて言葉が出てくるだけで、嫌ではない。体が疲弊しても、精神が怠くはならない。


「でも、『もしも』嫌になったとしてもそれは取引違反でしょ」


 ガルとの。

 セナが孤児院から連れ出されて、今、恵まれた住まいと教育を与えられているのはガルとの取引ありきだ。

 今していること、つまり教育の一切を拒否して『普通』に暮らすのは立派な違反だ。セナにそんな権利はない。

 だけれど、


『セナが嫌なら、ガルには上手いこと言ってやるさ。養子ならまた探せばいいだろ』


 聖なる獣は、大きな体でセナの体を取り囲んで、そんなことを言った。

 この聖獣、甘すぎないか。






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