第5話 波紋立つ

 俺はひどく緊張しながらスマホを開いた。相変わらず既読のつかないあいつとのラインを一瞥し、深くため息をつくと部活の方を開く。部活のラインには、凄まじい長文が届いている。荒れる心を押させながら読む。外では春一番が吹き荒れ、隙間風の音が時折届く。

「緊急連絡があります。遅れてしまい申し訳ありません。セーフティスクイズの演出替えをします。」

奏先輩はこう綴っていた。演出替えは演劇の世界ではあまり珍しい事ではない。上演する側の条件(男女の人数や場所の都合)から、作品の一部を改変することだ。高校演劇を多少かじっているだけの俺でも何例か知っている。そして、今回のセーフティスクイズでは演出替えの理由は明白だろう。先輩のラインはさらに続く。

「今回の台本は、台本会議での決定段階では男子3人のため行けるかと思いましたが、幹彦の件があり、元々克己はスタッフ専門で基本的に舞台に上がらないので実質出られるのが健太と国之の二人になりました。よって、演出替えで、柿田の親友で捕手の今川を、名前を変えずに柿田と同じ中学から来たマネージャーとしようと思います。支え合う役割は変わりませんし、作者の方へのお願いの手紙は昨日既に出しました。代替の台本ももう演出部で用意してあります。ひとまず、作者の柳田さんの許可が取れるまでは、それに関わらないシーンを中心にキャストを回します。大変だと思いますがよろしくお願いします。」

ここでラインは終わっていた。俺は驚愕で固まり、ついで疲れで思わずため息をついた。自分は演出替えされた作品を見たことはあっても携わったことはない。まだ見ぬ挑戦に思わず身震いがした。役が決まったわけではないが、俺は今川の親友の柿田役を密かに希望している。そのため、変更を踏まえた準備はしておいた方がいいだろう。おそらく非常に多くのことが変わる。スタッフ面であまり演出替えに関与しないと思われる道具に属していたのがせめてもの救いだった。俺は手早く小道具リストと大道具の設計図を完成させると、変更されるという台本を手に取った。中身を見ると心なしか少し目眩がした。キャスト回しで台本を読んではいたものの、今川のセリフは柿田に次いで非常に多く、これをすべて変えるというのは非常に難しい作業に思われた。演出部は大丈夫だろうか。あの場では了解と言ったものの俺は全く了解、理解などできておらず混乱していた。春一番はますます強まり、家の柱が時々ギシギシと揺れた。

 突然、幹彦と話がしたくなった。多分、思った以上に急激な脳への負荷でおかしくなっているんだろう。さっきからの目眩は収まらないし、なんだか気持ちも悪い。自分でも叶わない望みであることはわかっていた。ラインはクリスマス公演後から既読もつかないことを考えると恐らくブロックされているのだろう。理由はわからないが、俺はあいつに拒絶されている。でも話したい。話して、俺にとって幹彦がどんなに大切かを教えてやりたい。遠くへ行くなら応援の一言や二言言ってやりたい。そんな欲求に駆られ、俺は思わず電話をかけた。長い電子音。吹き荒れる春一番の音も、このときばかりは霞んでいた。無理かと思った刹那、電子音が呼出音に変わった。いつの間にか更に意識が研ぎ澄まされ、周りは無音と化した。

 しかし、いくら待っても救いの手は受話器を取りに来なかった。呼出音が虚しく消え、世界に音が戻ってくる。俺は頭に刺すような痛みを感じ、目の前が暗くなった。俺は今まであまり人に拒絶されたことは無かった。これが初めてだ。ましてやあれだけ仲の良かった人に。とにかく、台本を少しでも読んでおこうと、俺はひたすらにページをめくった。幹彦のことは個人の問題、演出替えのことは部活のみんなの問題だと割り切り、少しでも事実を忘れたかった。外の激しい風の音にパラパラという音が時折混じる。どうやら春の嵐のようだ。雨まで降るなんて聞いてない。俺は昨日の夜との自分の変わりように驚いた。つくづく人間はすごい。昨日と今日で全く反対方向を向けるのだから。台本を満足がいくまで読み切り、俺は明日から迫りくるであろう厳しい現実と戦うためにとにかく寝ることにした。外ではまだ嵐が吹き荒れている。俺はまた夢を見た。すぐ目の前にいる、でもこっちのことは一切気づかない幹彦に声をかけ続ける夢だった。夢の中でも呼出音は鳴り続けていた。

 翌日の朝。演出替えという前代未聞の戦いが、キャスト回しの続きから始まる。にも関わらず、目覚めは最悪だった。眠りが浅かったのかまだ意識はおぼつかないし、まぶたも腫れている。朝食を食べようとしたが吐き気がして入らなかった。とにかく、学校へ行こう。雨は止んでいたが空は今にも雨が降りそうにどんよりと曇っていた。

 今日は3月29日、新歓の初演まで残るは約20日。残り期間に割と余裕はあるが、このままで完成できるとは思えない。こんなに部活が疎く思えることがあっただろうか。皮肉なことに授業はいつになく集中して受けられた。不安で陰鬱な気分で部活を迎えた。最初のミーティングで、俺は出来上がった小道具リストを配り、バットなどは基本的に野球部に借りるとして、それを除いた小道具の募集をかけた。演出部からも今川を捕手ではなくマネージャーとしたときの台本が配られた。今川を除いたシーンはほとんど無く、実質ほとんど作業の日だった。俺もメガホンやチラシなどの細かな道具や大道具作りをしたりと忙しかった。

「ここはどういうことですか? 今川がここで柿田と握手をする理由がわからないのですが。心情変化などを説明してもらえませんか? 」

一度、演出部で書いた台本について由香里先輩が演出部に問いただすのを見かけた。演出の奏先輩と助演出の同輩二人は困ったような面持ちで話し込んでいたが、何とか明確に答えが出たようだ。様々な問題を孕みつつ、時間はどんどん過ぎていった。特に気に掛けずに、精々演出部はやっぱり大変だなと思う程度で作業を続けた。しかし、この時演出部はある重大な決断を下していたのだ。それに俺はこの後すぐに気付かされることになる。

「集合! 」

いつもの由香里先輩の号令も心なしか掠れて聞こえた。集まるみんなにも疲労の色が伺える。そんな中、演出の奏先輩が爆弾を投下した。

「演出部からです。演出替えについて、今川のキャストは固まりつつあるんですが台本がイマイチ上手くはまらなくて。そこで、皆さんからアイデアを募集したいです。力不足で申し訳ないんですが、よろしくお願いします。」

はっきり言って、これは大きな賭けだと思った。演出部以外にもアイデアを頼む。それはつまり実質的に生徒創作になるということだ。創作と名のつく通り、既成にくらべると本来大幅に時間がかかる。いくらあと20日以上あるとは言え、中々厳しいようにも思えた。

「問題のシーンは台本の8ページ……」

「ちょっと待て。」

奏先輩の言葉を鋭く遮ったのは克己先輩だった。

「ちゃんと作者の許可取ったのか? まだ完璧にオッケーをもらった訳じゃないならよした方がいいと思うぞ。」

多少棘のある言い方ではあるが、正鵠を得ていた。確かにそのとおりだ。奏先輩は手紙を「出した」だけでまだ返ってきてはいない。奏先輩は、呆気にとられた顔で言葉を紡ぐ。

「その通り…まだ確かに許可をもらった訳ではない。でも、オーケーが来たらすぐに始められるように準備してるんだよ。」

「それすらもらえなかったらどうする? もしセリフを変える云々以前に今川の変更さえ許可されなかったら、俺達のこの時間は無駄になるんだぞ? 」

奏先輩ほどの人が許可のことを失念していたのは驚きだった。押し黙ってしまう奏先輩。克己先輩も奏先輩の次の言葉を待つように黙って奏先輩を見据える。部室を居心地の悪い沈黙が支配した。俺は咄嗟にある考えが浮かんだ。

「あの、健太先輩はできないですかね? 」

俺は思わずそれを口に出す。もしかしたらできないだろうか。健太先輩はいろいろな役をこなせるユーティリティーだ。

「いえ、無理です。確かに健太はいろんな役ができます。健太も国之も、メインキャラである江東監督か柿田になることは決まってるんです。それに、今川と江東監督が共演するシーンもあるうえ、それを差し引いてもメインキャラ二人を兼ねるのは負担的にも現実的ではありません。」

確かにそうだ。考えが甘く、早とちりしすぎた。奏先輩が言葉を切ると同時に、さらに重さの密度を増した空気が部室に立ちこめた。長い時間が流れた後、この沈黙を破ったのは清水先生だった。

「取りあえず、この事は一旦保留にしよう。今回の作者の柳田さんは、台本を書く上手さだけじゃなくて、対応の誠実さでも有名なんだ。明日には返事も帰ってくるだろうから。オーケーをもらえたら、奏の言うようにしてみんなで作っていこう。駄目だったら、克己、頼むぞ。みんなに気づかせてくれてありがとう。」

それを破ったのは清水先生だった。彼の言葉に促され、二人は半ばしぶしぶではあるが落ち着いたようだ。俺もひとまず肩の力を抜いた。

 色々あったミーティングが終わり、先行きの悪さと不安を感じたが、とにかく部活が終わったから帰ることにする。薄暗くなってきた職員室の前には奏先輩と克己先輩の鞄が置いてあった。どうやら先生と話し込んでいるようだ。心の中でお疲れ様でしたと言ってから帰途につく。今日は他の演劇部員と一緒に帰ることができた。俺含め総勢7人の集団だ。しかし、俺はその中で1人息苦しさを感じた。きっと今日ほど一人で帰りたかったことは無い。ほぼ真っ暗な街に7人の靴音がこだましていく。

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