第16話  6

 長い話に耳を傾けて、もらい泣きまでさせられた良壱はようやく事務所に戻り、デスクに肘を突いてしきりに首を捻っている。いつもなら向こうから戻るとすぐに布団に入って眠るのだが、今回ばかりは嫌な予感が頭から離れないのだ。

「マタチョンボカ」

「うるさい! 少し黙ってろ。おまえはどこでそんな言葉を覚えたんだ」

 感情を逆撫でするような甲高い声に、良壱はキッとした顔でバタやんを睨みつける。

「ハイ、ハイ」

 バタやんはそういうと、くるりと背中を向けて餌箱を突っつきはじめた。

 良壱は余計なことばかり喋るバタやんを黙らせるのに、ケージに黒い布を被せた。いつもバタやんが眠りやすいように夜になるとかけてやる布だ。

 邪魔者がいなくなった良壱は、相変わらずスマホを手にして何度も同じ動作を繰り返している。吉野の奥さんに会って依頼品を渡して帰る間際に証拠の写真を撮ったのだが、帰って来て確認しようとしたところ、写真にはベンチしか写ってなかった。何度見ても同じだった。まあこのようなことは過去にも何度かあったので、契約するときには必ずその旨を伝えることにしているので、それほど心配することはないのだが、吉野本人ガそれを許してくれるかどうかだった。

 

 それから三日が経ち、吉野のこともすっかり忘れ、昼飯を食べに行こうと思って事務所を出た。いつもはカギをかけないのだが、なぜかきょうに限ってかけて出ようと思った。

 すると正面からから黒塗りの高級車が走ってくるのが見えた。スピードを落とし、事務所の前でゆっくり停まると、助手席の男が車から降りて来た。黒い上下にサングラスをかけている。良壱は見ぬ振りをして足早に歩き出した。

「宅配屋さんだね?」

 肩越しに声をかけてきた声は聞き覚えのあるものだった。

「はあ」

 良壱が振り向いて返事をすると、男はゆっくりと近づいて来た。そのとき、サングラスをしているものの、あのときの男に間違いないと確信した。

「ちょっとうちの親分があんたに話したいことがあるといってらっしゃるんだが……」

(やっぱりあの件が尾を引いてるに違いない)

 良壱の鼓動が急に烈しくなり、いまにも心臓が口から跳び出しそうだった。

「そ、そうですか」

 この連中に、事前に説明をしてあるといったところで、おそらく通用しないだろう。良壱は半ば腹を括った。

 すると男は車に戻り、後部ドアを開けながら深々と頭を下げた。悠然と車を降りて来たのは縁なしのメガネをかけ、黒い羽織を着た和服姿の吉野だった。顎の髭が光に反射して銀色に見えた。右手のステッキで路面を叩きながらこちらに向かって来る。

「やあ、この間は世話になったね。きょうはあんたにちょっと話があって来たんだが、いいかな」

 相変わらず慇懃な物言いが凄みを利かす。

「はあ」

 まったくいつもの良壱ではなくなっている。

「ここでは何だから、お宅の事務所ではどうかな」

「いいですけど……」

 良壱は踵を返すと、ポケットの事務所のカギを探しながら、これから起きようとする出来事を想像しようとするが何も浮かんで来なかった。

 良壱がドアノブに手をかけたとき、買い物帰りの近所の主婦が自転車で走って来るのが見えた。ところが近くまで来たとき、周囲の異様な雰囲気を察したのか、ブレーキの金属音と共に自転車を降りた主婦は、目を合わさないようにして足早に過ぎて行った。

「こんなイスしかありませんが」

 良壱は丸イスを吉野の前に勧めた。

「ああ」

 おそらくこんな場所に足を踏み入れたことのない吉野は、物珍しげに事務所をぐるりとひと眺めすると、坐ったことのない丸イスにどかりと腰を降ろした。

 良壱がいまいちばん神経を遣っているのはバタやんだった。またいらないことをいいはしないかとひやひやしているのだ。幸いバタやんは向こうをむいて無心に羽根の手入れをしている。

「で、お話というのは?」

 黙って吉野と顔を突き合わしているわけにもいかず、薄々察しはついていたが口火を切って訊いてみた。

「――この前のわしが依頼した件なんだが」

「あれはどうしようもないんです。証拠の写真は必ず撮るようにしているのですが、たまにあのような結果になることがあるんです」

 黙って良壱の話を聞いていた吉野は、ふいに左手の指を二本立てた。すると入り口のところに立っていた男が、風のように近づくと吉野の指にタバコを挟んだ。間髪を容れず反対の手でライターを鳴らした。

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