第7話

 ――

 何度も試みているうちに、良壱はひとつの法則を見つけ出した。その法則というのは、まず部屋を真っ暗にする。次に部屋の隅に坐り、目を瞑って無我の境地に入る。するとこれまでに見たことも聞いたこともない世界に行くことができるのだ。

 以来良壱は毎日夜になると部屋の隅に坐って実験をした。その結果、いつも成功するとは限らないので、成功率八割というところだが、かなりの確率でトリップすることができる。何とかすればかなりの確率でに行くことができるようになる、それもロケットよりも早く……。


 に行くようになって、良壱がこれまでに見た光景というのは全部で三ヶ所ある。

 ひとつは最初に見た花畑で、ふたつ目は黄色くて小さな花が咲く草原の真ん中を、Sの字を描いてせせらぎが流れている。もうひとつは深山幽谷の崖の上で、そこから見る畳々たる山々は霞に包まれていまにも吸い込まれそうな場所だった。

 何度も何度も繰り返しているうちに、これまで誰一人会ったことがなかったのに、そのときはじめて人の姿を見た。コーヒー色の中折れ帽を被り、ステッキを手にした老人だった。その人物は花畑にある白いベンチに腰掛け、じっと前方を見詰めている。

 良壱はしばらくその場に佇んで老人を見ていた。このところ家に引き篭りがちだったこともあって、人と話をしたい衝動に駆られた良壱はしずしずと白いベンチに近づく。そして老人に恐るおそる話しかけた。

「こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 老人は掠れた声で返事をしたが、良壱のほうを一瞥しただけであとは一点を見詰めたまま微動だにしない。

 良壱はこれ以上声をかけたら迷惑かもと思いつつ、それでも他の言葉を探した。

「いい天気ですね?」

 やっと思いついた言葉がこれだった。

「ん?」

 老人は良壱の言葉に微妙な反応を示した。それが何なのかはまったく良壱には理解できなかった。

「あんた、この世界の人じゃないね?」

 老人は恬淡として良壱のことを探ろうとしている。だが、別にやましいことのない良壱は素直に返事をした。

「はい」

「あんたは、ここがどういう場所か知って来ているのかな?」

 老人の話し方は、これまで耳にしたことのある僧侶のそれに近いものがあった。

「正直なところ、僕にはまったくわかりません。ここがどういう場所なのか教えて頂けませんか?」

 良壱は心底この場所がどこにあって、どういう場所なのか知りたかった。

「ここはな、よく耳にしたことのある、あの世という場所なんじゃよ。人間は死を迎えると誰もがここに連れて来られるんじゃ」

 老人は相変わらず冷静な物言いで話す。

「ということは、お爺さんも……」

「ああそうじゃ。わしはここに来てまだ日が浅い……そうだなぁ、かれこれ二十日というところだろうか。でもまだ下界に未練があってな、こうしてときどきここに来て偲んでいるんじゃよ」

「何か心残りでもあるんでしょうか? もし僕でできることがあれば、お力になりますが……」

 良壱は口から出まかせではなく、本心でそう思っていった。

「そうか……ではひとつあんたに頼んでみようか」

「はい、何でもいってください。でもさっきもいいましたが、できることとできないことがありますから」

「なあに簡単なことさ。わしの家に行って、わしが使っていた万年筆を持って来て欲しい、ただそれだけのことじゃ」

「万年筆ですか?」

「ああ、わしの葬式のとき家内が棺桶に入れるのを忘れてしまってね。その万年筆がわしのいちばんのお気に入りだった。あれがないお陰で、こっちに来ても何も書く気になれんのじゃよ。もしできるんじゃったら取ってきて欲しい」

 老人ははじめてまともに良壱の顔を見た。

「わかりました。努力はしてみますが、もしだめだったらそのときはごめんなさい」

「わかってるよ。正直わしだって諦めていたことだから、そこまであんたを責めることはせんよ」

 良壱は、老人から名前と住所を聞くと、早速その場を離れた。

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