第22話

         ※


 真っ白い空間がある。壁も天井も見果てぬほど遠くにあり、ひたすらに真っ白い床が続ている。その空間の、一際明るい部分の中央で、ダリ・マドゥーが葉月を人質に取っている。俺に相対するように立ち、葉月のこめかみに拳銃を押しつけている。

 俺は慌てて拳銃を抜こうとしたが、それは叶わなかった。ホルスターを装備していないのだ。


「助けてくれ、佐山!」


 葉月の、悲鳴にも似た声が上がる。馬鹿な。彼女はそんな気の弱い人間ではなかったはずだ。

 そう思った直後、葉月の姿はぼんやりと霞み、消え去った。と思いきや、別な人間が現れた。憲明だった。やはりマドゥーに拳銃を突きつけられている。彼もまた、彼には似つかわしくない弱音を吐き、助けてくれと俺に迫る。


 俺はマドゥーに向かい、『放せ!』とか『お前だけを殺してやる!』とか喚いたようだ。『ようだ』というのは、自分で身体を動かしている実感がないからだ。いつか脳震盪を起こした時のように、意識と周囲の現実との間に、薄いベールがある。


 そうこうするうちに、憲明の姿は和也になり、エレナになり、そして――。


「か、母さん……」

「助けて、潤一!」


 母さん、どうしてこんなところに? もう殺されてしまったはずじゃ……?

 俺が恐慌状態に陥る淵に立たされていると、マドゥーが笑みを作った。邪悪で毒々しく、見ているだけで俺の精神を蝕んでいくような表情だ。


「止めろ……。止めてくれ!」


 対抗手段を持たない俺は、ひざまずいて懇願するしかなかった。土下座するように、両の掌を床に着く。その直後のこと。

 カチャリ、とリボルバーの撃鉄を上げる音がした。はっとして顔を上げると、マドゥーの銃口は俺に向けられていた。


 やられる。殺される。虫けらのように、呆気なく。親父の消息を掴めず、お袋の仇討ちもできないうちに。


「嫌だ、そんなの! 俺はまだ……まだ戦わなくちゃいけないんだ!」


 そう言い切った直後、ズドン、という轟音が響き、俺はのけ反るようにして、全身を後方に弾き飛ばされた。


         ※


「うわあああああああっ!」


 汗だくになって、俺は身を起こした。ブラケットを跳ね飛ばし、がばりと上半身をもたげる。


「がはっ! はあっ! はあっ、はあっ、はあ……」


 感覚的に、俺は自分が、アジトの自室のベッドに寝ていたことに気づいた。全身から嫌な汗が噴き出している。とりわけ額からの汗は、俺の瞼や鼻先を伝って滝のように流れていく。


「夢、か」


 俺は片手で顔の半分を覆い、しばし呼吸を整えた。マドゥーは死んだ。俺は生きている。皆も無事だが、親父が何をしようとしているのかが気がかりだ。次の作戦はいつ、どこで行われるのか。


 俺は大きなため息をついて、顔の汗を拭った。時刻は、午後十時三十分。十分睡眠は取れたと思う。気分は最悪だが。


 皆はどうしただろう? 銃器の点検を終えて、もう寝ついただろうか。

 そんなことを考えながら、枕元の小さな箪笥の上を見ると、ミネラルウォーターのボトルが置かれていた。ありがたい。


 俺はがぶがぶと一気飲みしてから、シャワーを浴びるべく廊下へのドアを開けた。

 後頭部を掻きながら、食堂兼会議室に踏み込む。何か食べるものが残っているといいのだが。


 しかし、そんな俺の態度は、あまりにも場違いだった。


「あ、あれ? 皆?」


 そこには、俺以外の戦闘員である葉月、憲明、和也が、テーブルを囲んで着席していた。

 何があったのだろう。誰かが死傷したのか、と瞬間的に思った。が、そんなわけはない。全員がここにいるのだから。


 すると、僅かに時間を置いて、葉月がくわっと目を見開いた。


「佐山!」


 素っ頓狂な声を上げながら、俺を見つめてくる。椅子から腰を上げかけたところを、憲明に止められた。


「ああ、すまない。驚かせたな、佐山」

「い、いや、俺は大丈夫だけど。何があったんだ?」

「二つほどネタがあってな、潤一」


 顔を戻し、憲明は俺と目を合わせた。というより、睨みつけてきた。俺の覚悟の度合いを確かめるかのように。


「一つ目は、さっきの作戦で、最後に和也がぶっ放した一発についてだ。冷静さを欠く危険な攻撃だったんじゃないかと、説教していたところだ」

「じゃ、じゃあ憲明、君はあのまま葉月が人質のままでよかった、っていうのかよ!?」


 和也が勢いよく、両の拳をテーブルに叩きつける。


「落ち着けよ、和也。お前が難しい判断に迫られていたのは、俺にも分かるよ。ここは、終わり良ければ総て良し、でいくしかないんじゃないか?」


 葉月は既に目を逸らし、テーブルの一点を見つめていたが、小さく頷いてみせた。

 それを見て、ぺたりと額に手を遣る俺。葉月はリーダーなのだから、気を強く持ってもらいたい。少なくとも、そんな怯えた小鹿のような態度を止めてほしいものだ。


 話題を変えた方がよさそうだな。いくら鈍感と言われた俺でも、そのくらい分かる。


「で、憲明。二つ目のネタって何だ?」

「ああ、エレナが音声ファイルを持ってきたんだ。今さっき帰っちまったんだが」

「エレナが?」


 大きく頷く憲明。もしかして、あのミネラルウォーターは彼女が置いていってくれたのだろうか。俺が呻き声を上げる様子を目にしていなければいいのだが。


「まあ、私たちもこれから聞くところだが」


 葉月がすっと立ち上がり、テーブルの隅に置かれた機材に手を伸ばした。

 一体何を聞かされるのか。嫌な唾が口内に滲み出てくる。ミネラルウォーターを飲んだ直後だというのに、俺の喉は渇きを訴えていた。が、そんな都合は呆気なく無視され、ノイズ混じりの音声が、容赦なく俺の耳朶を打ち始めた。


《そうか、マドゥーの奴、やられたか》

《ええ。あれだけの歴戦の猛者を、あんな子供たちが……》

《一概に子供とは言えまい。ティーンエイジャーだ》


 以前、寺で聞かされたのと同じ、親父の声。偉そうな方の男の声だ。


《三人ないしは四人を相手にするには、彼にとっても荷が重すぎたのでは?》

《まあそう責めるな。死人に口なし、というだろう。だったら命ある者がきちんとフォローしてやらなければな》


 その後、数秒の間があった。親父の話し相手が、声を潜める気配がする。


《よろしいのですか、佐山博士? あの計画を実行に移すというのは……》

《君だって、その計画に加担することで一山当てようという腹積もりだったのだろう? 今更躊躇うことはないはずだが。それとも、私の研究が信用ならない、と?》

《い、いえ! 決してそんなことは。ただ、自分が危惧しているのは、こうやって連中に聞こえるように通信を行っているということで……》

《おいおい、臆病風に吹かれたのかね、君は? こうして傍受させなければ、連中は動いてくれないんだぞ? 私に任せておけ。今回の取引の護衛は引き受けよう》


 そう言い切る形で、親父は口を閉ざした。

 それからは、親父の部下らしき男による『今回の取引』の説明が続いた。


 よくある麻薬の密輸入だった。決行日時は、明日の午後九時。場所は、ここからそう遠くない埠頭。

 しかし、一つ妙な点があった。


「おい、今何て言った?」

「待ってくれ。少し巻き戻す」


 片眉を上げて疑問を呈する憲明。その声に、葉月が応じて機材を操作する。


《これだけははっきりさせておきたいのですが、佐山博士》

《何かね?》

《本気ですか? 倉庫も何もないところで取引を行わせるとは。しかも、護衛は博士お一人で?》

《そうでなければ、実戦データが取れんだろう? クライアントをこれ以上待たせるわけにはいかん》


 葉月はそこで、一時停止をかけた。


「皆、これをどう見る?」

「決まってるじゃないか、こんなの!」


 ふん、と鼻を鳴らしたのは和也だ。


「僕たちを挑発してるんだよ! 舐めてるんだ。取引の日時も場所も教えておいて、しかも護衛が一人だけだって? ジュンのお父さんがどんな人か知らないけど、僕なら一発で足を撃ち抜くね。それからとっ捕まえていろいろ吐かせることだって――」

「どうかな」


 憲明が短く反論の意を表した。緩んだ和也の言葉に楔を打ち込むように。


「それは分からねえよ。なあ、潤一?」


 予想通りの成り行きに、俺は黙考を続けた。次の敵となる人物に最も身近なのは、この中では間違いなく俺なのだ。皆の視線が集まるのは当然のこと。


「俺の親父は、何の自信も根拠もなしに、こんな口調で話したりはしない。罠かも」

「それならその罠を突破して仕留めるまでだよ! 今までと同じようにやればいいんだ!」


 和也の脳内では、まだ楽観主義が横行しているらしい。それをぴしゃりと遮るようにして、葉月がこの場をまとめようと試みる。


「和也、そして皆、慎重にいこう。ただし、過度な警戒は不要だ。判断が鈍る」


『分かったな?』とでも言うように、葉月は和也を睨みつけた。渋々同意するように、和也は肩を竦めてみせる。


「よし、皆、作戦まで自由に待機してくれ。解散」


 そう言って、葉月は真っ先に席を立った。

 その横顔に、どこか思い詰めたものがあるように見えたのは気のせいだろうか。

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