第一章4話 『水無ヶ谷家の朝』

 ーーーージリジリと肌を焼かれる嫌な感覚に、少年は目を覚ました。


「ーーーー」


 ぼやけた視界には、見慣れた白い天井が広がっている。


「ーーーー」


 しばらくの間その光景を眺めていると、徐々に頭にかかっていた靄が晴れ、意識が覚醒していくのを感じた。


 そして、直前に体感した、あの肌を焼かれる熱苦しさを思い出し、寝起き特有のゆっくりとした動きで、着ている寝間着の首元を引っ張る。


 中を覗き込むと、そこには、当たり前のように、彼自身の腹部があった。


 年相応の少年らしく、程よく肉のついた、しかし少し不健康そうな白い肌。

 その何処にも、記憶にある熱に晒されたような外傷は見受けられない。


 それから、きっちり胸の辺りまで掛かっていた薄手の布団を引っ剥がし、腹部以外、腕や脚の状態も確認する。


 だがしかし、やはり何処にも火傷だったり、あるいは擦過傷だったりは見つからなかった。


「………夢か」


 乱れた寝間着を整えながら、彼はぼそりと呟く。

 そして、そこでようやく、彼は数分前に体感した異様な感覚が、自身が見た夢によるものだと確信する。


 そんなこと、わざわざ確認しなくともわかるだろうと、自分で自分に突っ込みたくなる気持ちはある。


 あるのだけれど、それでも自分の目で実際に確かめないと安心出来ないほど、先に見た夢はーーーー先に体験した夢は、妙なリアリティがあったのだ。


 それこそ、現実としか思えないほどの。

 未だに感覚が消えずに残っているほどの。


「……でも、また同じ夢……」


 そうぼやく彼の横顔には、諦念の色が濃く出ていた。


 ここのところ、毎日全く同じ夢を見ている。


 夢の舞台は、比較的大きなショッピングモールだろうか。

 彼が一人でモール内を歩いていると、瞬く間に辺り一面が火の海になり、数秒後には建物内全てを燃え上げていく。

 逃げようとしても、彼の周囲は炎で埋め尽くされていて、少しも動くことが出来ない。


「ーーーーー」


 そして、猛烈な熱量に侵されながら、呼吸も忘れて立ち往生している彼の視界に、ふと二つの人影が映るのだ。


 濃煙の中、ぼやけて見えるのは、長身の男性と、小さな女の子と思しきシルエット。

 目を凝らして、それが誰なのか、その正体を確認しようとした瞬間ーーーー毎度、突如として勢いを増した炎によって、目が覚める。


 初めのうちは、目が覚めた瞬間に悲鳴を上げたものだけれどーーーーそして、真っ先に自身の身体をくまなく調べたものだけれど、全く同じタイミングで意識が覚醒することに気づいた今では、すっかり落ち着いて目が覚めるようになっていた。


 だが、夢の中なのにまるで現実の出来事のように感じられるリアリティは決して拭い切れるものではなく、身体を確認する行為は今でもやめられないでいる。


 リアリティ。

 

 視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚ーーー五感の全てが入り込み、自分が完全に夢の世界に迷い込んだ、そんな感覚。


 起きてから大分時間が経った今でも、はっきりと覚えている。


 轟々と燃え盛る炎の音を、耳が。

 苦くて苦しい灰の味を、舌が。

 辺り一帯の炎の熱さを、肌が。

 物が焼け焦げる嫌な臭いを、鼻が。


 そしてーーーー顔もわからない、二人の男女の姿を、両の目が。


 はっきりと覚えている。


 だから、側から見ていたら何をやっているのか理解出来ないような彼の奇行は、今や彼の毎朝のルーチンワークと化していた。


「……よし」


 今日も現実の自分に異常がないことを確認すると、彼は枕元に置かれたスマートフォンを手に取った。


 時刻を確認すると、ちょうど五時半に差し掛かったところだった。


 それから、時計アプリを起動し、六時にセットしていたアラームを解除する。


 これでまた今日も、予定の時刻よりも三十分も早く起きてしまった。


「………アラーム、設定するのやめようかな」


 厄介な悪夢で強制的に目が覚める毎朝には、無機質なアラームはもう必要ない機能かもしれない。


 そんなことを思いながら、欠伸も出ないままに、彼はベッドから下りた。


 そのまま、部屋の中、二箇所あるカーテンを全開にする。


 途端、今まで遮られていた暖かな日差しが入り込み、薄暗かった部屋を明るく照らした。


「……良い天気だなぁ」


 その日は、彼のテンションとは裏腹に、外は清々しい春の陽気だった。




*****




 自室を出て一階のリビングに下りると、そこには母親がいた。


 ソファに座って、何やらテレビを観ている。


「あら、おはよう」


「うん、おはよう」


 階段を下りる足音でわかったのだろう、首を巡らせて朝の挨拶をしてきた。


 素っ気なく返事をする彼を視界に入れると、母親は目を丸くして、


「今日も早起き?」


「ああ、うん。何か目、覚めちゃって」


「それ、昨日も一昨日も聞いたわよ」


 瞬間、彼を見る母親に、『疑惑』の色が宿る。


「そうだっけ?」


 本当は自覚しているけれど、ここはすっとぼけておく。

 母親の方も、少し訝しんだ目を向けてきただけで、それ以上深く追及してくることはなかった。


 彼から視線を外し、再びテレビに向き直る。

 そのまま、彼女を包んでいた『疑惑』も霧散していった。


 その淡白さに、少し救われた気分になる。

 まさか、毎晩火災に遭う夢を見ているなんて言えるわけがない。


 ーーーこの家では、特に。


 ちょっと舌を回せば早朝勉強なんて言い訳も立つんだろうけれど、生憎、そんな勤勉な嘘がつけるほど彼は人間ができてはいなかった。


「………」


 平日の早い時間帯独特の静けさを感じながら、母親の隣に腰掛ける。


 テレビでは、朝のニュース番組が流れていた。

 この家では、毎朝観るチャンネルは決まっている。

 この時間に起こされるようになってから、お馴染みになってしまったアナウンサーの落ち着いた声が耳に届いた。


「……さて、じゃあそろそろ朝ご飯用意しますかね」


 彼が座ったと同時に立ち上がった母親は、そんなことを言いながらキッチンの方へと歩いていった。


 程なくして、ウインナーが焼ける良い匂いが鼻孔をくすぐり、寝起きで空っぽになっていたお腹を、程良い具合に刺激してくる。


 ちょうどそのタイミングで、彼の腹の虫が盛大に鳴った。


 キッチンから、くすっと軽い笑い声が聞こえてくる。


 それを若干気恥ずかしく思いながら、だらだらとテレビを眺めていると、予定していた起床時刻の六時になった。


 ニュース番組内で、「六時になりました。ニュースをお伝えします」と、アナウンサーが真面目な顔で言っている。


 それから、今朝入ったばかりのニュースを、アナウンサーはスラスラと読み上げ始めた。


 彼の目には、何だかその光景が滑稽に映って、思わずふっと鼻で笑ってしまった。


 それはそうだろう。

『倦怠』なアナウンサーが、何事もなさそうに真剣な表情で喋っていたら、誰だって笑ってしまうに違いない。


 ーーーまあ、『誰だって』が理解されないところが、難しい部分ではあるのだが。


「この人も寝不足なのかな」なんて、そんな益体も無いことを考えていると、背後の階段を下りてくる足音が聞こえてきた。


 聞いているこちらがはっきりとわかるほど、その足音は倦怠に満ちている。

 それこそ、画面の中のアナウンサーを超えるくらいの気怠さだ。


「……おはよー」


「おう、おはよう」


 ソファの背もたれに寄りかかりながら、首だけを曲げて振り返り、数分前と同じように当たり障りのない朝の挨拶を交わす。


 しかし、今度の挨拶の相手は母親ではない。


「あ、お兄ちゃん起きてたんだ」


 まだ眠たげな声でそう言ってきた少女ーーーー妹のつぐみは、そのまま隣に座ってきた。


「ふぁ〜………お兄ちゃん、最近早起きじゃない?」


 大きな欠伸を隠すこともなく、座るなり、鶫が怪訝な表情を向けてくる。

 そんな彼女からは、先の母親と同じように、『疑惑』の色が出ていた。


「何かに目覚めたの?」


 寝起きの頭で何やら上手いことを言ってくるが、悪夢を見て起きちゃったなんて理由では少々きまりが悪い。

 そんな情けない理由を教えた暁には、「子供か」と馬鹿にされるのが関の山だ。

 それは、兄の沽券にかかわる問題である。


 だから、ここは適当に話を逸らすことにした。


「なあ、鶫」


「何? お兄ちゃん」


「『妹の鶫』って表現ってさ、気をつけないと、鳥を妹として飼育しているヤバイ奴に思われるよな」


「寝惚けてるの?」


 妙な心配なんかせずとも、鼻で笑われてしまった。

 打って変わって、ビシバシと『呆れ』の色が出ている。


「いや、僕は真面目に訊いてるんだ」


「ふーん」


「で、どう思う?」


「どう思うって?」


「だから、その場合はどう言えば良いと思う?」


「んー。ならさ、『人間の妹の鶫』って言えば良いんじゃない?」


「それだと、人間じゃない妹もいるみたいに聞こえるだろ」


「それなら、もう妹ってのを取っ払って、『人間の鶫』は?」


「一気に狂気じみてきたな」


 人間の鶫って。

 擬人化しようと試みたものの、いまいち想像できなかった。


 なまじっか名前が実在する鳥の名前なので、何だかややこしいことになるけれど、目の前にいる少女は正真正銘、血の繋がった彼の妹である。


 人間の妹である。


「で、何で最近早起きなの?」


 結局最終的な結論は出せないままに、誤魔化せたと思っていた話題を、鶫は再度持ち出してきた。


 自分が早起きをするのはそんなに信じられないことなのだろうかと若干不服に思う彼だったが、まあ、今までどちらかと言うと遅寝遅起き生活を送っていたことを考えれば、彼女たちには、近頃の自分の姿は奇異に映るのだろう。


 仕方なく、適当に応えてやることにする。


「あー、あれだ。早起きは三文の徳って言うだろ?」


「うん」


「それが本当かどうか、身を挺して実証実験してるんだよ」


「凄い頭良さそうなこと言うじゃん」


 実証実験なる単語を聞いただけで頭が良さそうと思う辺り、鶫の頭の悪さを窺い知ることができるけれど、まあ、上手く丸め込まれてくれたので目を瞑るとしよう。


「……で、結果はどうだったの? 何か徳はあったの?」


「ああ、まあな」


「どんな?」


「お前より先に起きれたという優越感」


「徳小さっ」


 続けて、「ていうか器が小さっ」と言われてしまった。


 寝起きでぼぉーっとしている頭で、何の意味もない兄妹トークがひと段落したところで、やかんのお湯が沸く音が聞こえてきた。


 続いて、インスタントコーヒーの香ばしい香りが、キッチンを通り越してリビングにまで漂ってくる。


「朝ご飯できたから、早く食べちゃって」


 その母親からの呼びかけを受けて、二人は一斉にソファから立ち上がり、ダイニングテーブルへと移動する。


 四人掛けのダイニングテーブル。


 その一つに彼が腰掛けると、向かい側に鶫も座った。

 ちなみに、その隣が母親の席である。


 食卓には、目玉焼きに二本のウインナー、そして香ばしく焼かれたトースト一枚が並べられている。


 そこに、愛用のマグカップに注がれたインスタントコーヒーを添えれば、毎朝食プレートの完成だ。


『毎』と『My』が掛かっていることは、この際どうでも良い。


「「いただきます」」


 と、声と手を合わせて、いつも通りの朝食を食べ始める。


 コーヒーを一口飲んでから、焼きたてのトーストにマーガリンを塗っていると、ウインナーを頬張っていた鶫の目が、未だとろんと垂れ下がっているのに気がついた。


 さっきの会話は、眠そうな鶫の眠気覚ましになればと思っていた面もあったのだけれど、どうやら効果は芳しくなかったらしい。


「鶫、今朝は随分眠そうね」


 と、朝食に続けて、彼の分のお弁当を作っている母親が言った。

 今の彼女には、先程彼に向けてきた『疑惑』ではなく、単純な『疑問』があった。

 あとは、微量の『不安』と『心配』だろうか。


「んー、まあ、ちょっとねー」


 未だ脳味噌が正常に働いていないのか、半分閉じた目でそう答える鶫。

 取り敢えず返事をしただけっぽい印象だ。


「大方、夜更かしでもしてたんだろ」


「あら、そうなの?」


 彼の雑な指摘に、母親が同調した。


「えっと、うん。まあ、そんな感じ」


「勉強でもしてたの?」


 母親の予想も無理はない。

 今年で中学三年生になる鶫は、今や立派な受験生なのである。


「えーっと………うん。まあ、そんな感じ」


 先程と全く同じ返事なはずなのに、鶫の表情と口調には、何やら明確な違いが見て取れた。


 その何とも煮え切らない様子に、彼は一つの直感を得る。


 数秒間だけ思考を巡らせた後、


「嘘つけ。どうせ、夜中まで動画でも見てたんだろ」


「え?」


「そ、そんなわけないじゃん!」


 予想の外からの彼の指摘に小さく素っ頓狂な声を上げる母親に対して、鶫は狼狽えながら大声を張り上げた。


 重くなっていた瞼はかっと開かれ、客観的にも一瞬にして脳が覚醒したのがわかる。


 どうやら兄として、妹の眠気覚ましに見事に貢献できたようだ。


「ふーん、図星か」


「だ、だからそんなわけ………あ!」


 勝ち誇った笑みを浮かべる彼に対し、鶫はずびしっと指を向けると、


「お兄ちゃん、また視たでしょ!」


 と、犯罪者を糾弾するような厳しい目で言ってきた。


 側から見ればわけがわからない会話だと思うけれど、彼はそれを当然のこととして受け止めると、


「いや、視てねえよ」


 と、対照的に落ち着いた口調で返した。


「嘘だー、絶対視たよ。じゃなきゃわかるはずないもん」


「お前、それ認めてるようなもんだぞ」


「あ」


 やはりこの妹はお馬鹿さんなのかもしれない。

 まあ、それが今は仇となっているわけなのだが。


「お前のことなんか、別に視なくてもわかるわ」


「えー、何で?」


「お前すぐ顔に出るから」


 鶫は誤魔化すのが下手だ。

 嘘をつこうとしても、すぐに顔や態度に出る。

 昔からそうだが、ポーカーフェイスが苦手なのだろう。

 だから特別なことをしなくとも、鶫が『焦っている』というのは手に取るようにーーーー目に見えるようにわかる。


「じゃあ、何でずっと動画見てたことまでわかったの?」


「お前、ついに開き直ったな」


「いいから答えて」


「簡単な話だよ。本当はそこまでわかっていたわけじゃない」


 所謂、鎌掛けというやつだ。


「鎌掛け? ここに鎌なんてないけど?」


「別に実際にお前の首に鎌を掛けるわけじゃねえよ。僕は死神か」


「目は死神っぽいけど」


「いいから黙って聞け」


 母親の問いかけへの反応から、勉強が理由で鶫が夜更かしをしていたわけではないと悟った彼は、次に、勉強以外で鶫が夜更かしをしそうな理由を考えた。


 テレビ鑑賞、読書、友達と長電話、エトセトラエトセトラ………夜更かしの理由なんて挙げればキリがない。


 だがしかし、そこは腐っても兄妹。

 嫌でも目に付く日々の生活スタイルから、幾つか可能性がある理由を考えていき、そこからさらに自室で出来ることとなれば、大分候補は限られてくるのだ。


 と、そこで彼は、最近ハマっている動画だとか言って、ちょっとウザいくらいにスマホの画面を見せてきた、つい数日前の彼女を思い出した。


 それを手掛かりにして候補を絞っていき、最終的には、まずは一番可能性が高そうな動画鑑賞で釣ってみたという、説明しておきながら、自分でもあまりにお粗末だと思うオチである。


 そんな種とも言えない種を、掻い摘んで明かした彼を、当の鶫は、


「ほえー……」


 と、実年齢よりも大分幼く見える呆け面………否、間抜け面を晒しながら見つめていた。


 感心されるのは結構なことだけれど、この分じゃあ、その内妹が悪い奴に騙されないか、割と本気で心配である。


「何か凄いね、お兄ちゃん」


「別に凄くない。お前がわかり易過ぎるだけだ」


「いやいや、そうじゃなくて」


「そうじゃなくて?」


「私の夜更かしを暴くためだけに、朝からそんなに頭を使ってるところが、何か凄い………馬鹿だね」


 どうやら、お互いの解釈に齟齬があったようだ。

 それにしても、阿呆な妹に面と向かって馬鹿呼ばわりされるのは、なかなか心にくるものがある。

 そういう意味でも、本心を隠すことができない奴なのだ。

 思ったことがすぐに行動に出るタイプ、とでも言うのだろうか。


 そして、得てしてそんな子供は、偉大なる大人に目をつけられるのが世の常である。


「鶫」


 二人のやり取りを黙って聞いていた母親は、弁当を盛り付ける手を止めて、静かに言った。


「夜更かしはほどほどにしなさい」


 決して怒っているわけではなく、どちらかと言うと、それは窘めているような雰囲気だ。


「……はい」


 母親の大人の対応に、鶫は俯きながらも反省した様子で頷いた。


 その返事を聞き、母親は満足げに柔らかく微笑むと、


「あんまり遅くまで起きてると、お兄ちゃんくらいの身長で止まっちゃうからね」


「え、それは困る」


「ちょっと待って母さん。何で無闇に僕を傷つけた?」


 そこで、女性陣二人から生温かい笑い声が上がった。

 彼としては不本意な形で場の空気は弛緩し、平日の朝にもかかわらず、家内には緩やかな時間が流れ出す。


 いつもとメニューは変わらないはずなのだけれど、心なし今日の朝食は美味しく感じた。


 半熟の目玉焼きを綺麗に平らげ、バター香るトーストに齧り付く。サクッと小気味良い音がした。


 残りをささっと平らげ、最後にコーヒーを一気に流し込む。


「ごちそうさま」


 それから、使った食器を流し台に重ね、その足でいそいそと準備を始めた。


 今日は平日ーーーー高校生の彼には、当たり前だが学校があるのだ。


 歯を磨き、顔を洗う。

 その後は二階の自室に引っ込み、制服に着替える。

 入学当初は慣れなかったネクタイも、一年以上が経った今は、それなりに格好がつくようになった。


「………よし」


 身支度を整え終えると、筆箱くらいしか入っていないペラペラの鞄を引っ掴み、階下に下りていく。


 そろそろ学校に行く時間かと、壁に備え付けられた時計を確認したところで、洗い物を終えたらしい母親が、


「あ、行く前にやるの忘れないでね」


 と言ってきた。


「わかってるよ」


 大事な『何を』の部分が抜けている母親の呼びかけに応じると、彼はリビングの隣ーーー和室へと視線を向けた。


 来客への配慮として、視界を遮るように垂れ下がった暖簾のようなものをくぐって、室内に足を踏み入れる。


 広さにしては、四畳半の質素な和室だ。

 置かれているのは、昔はリビングで使っていた小型のテレビと、あとは中央の丸い木製テーブルの二つだけ。


 隣の家庭的な空気とは隔離された、無機質な空間。

 他に家具は何もない、殺風景な場所。


 ーーーいや、もう一つあった。

 這入って左側ーーーそこに、彼の胸くらいの高さの、立派な仏壇が備えられている。


「ーーーー」


 導かれるように、彼の足は自然とそこに向けられていた。

 ゆっくりとした動作で、前に置かれた、座り心地が良い座布団の上に正座する。


 それから線香に火をつけ、鈴を鳴らした。


 チーンと、心の奥底に沁み渡る厳かな音が、静かに響いては消えていく。


 そしてーーーーーー、


「じゃあ、行ってきますーーーー父さん」


 と、彼ーーーーー水無ヶ谷みながやたかは、目の前の遺影に手を合わせた。

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