椿が枯れたら(12)

――ねえ、あたしと一緒に暮らしましょう


 彼女の声音は悲しげだった。知ってしまったチカさんの過去。それは普通の人間ならば想像だにできない、ある女性の壮絶な半生であった。

 僕はそんなチカさんを眺めることしかできない。

 実際は刹那(せつな)的だが、その何百倍もの長い沈黙が僕とチカさんの間に流れていた。


「セイヤくん……」


 彼女の深緑の吸い込まれそうな、だが優しい瞳からつうっと涙が流れる。


「……辛かったんですね。僕が思っていた以上に」


 僕は沈黙を断ち切った。


「かもしれないわね。……あなたは心配してくれてたんだ」


 チカさんは袖で涙をぬぐった。


「だってチカさん、僕らの恩人じゃないですか。優しくしてくれたし、居場所もくれた。命まで助けてくれた……」


 なぜか、僕の内側から何かがこみ上げてきた。顔が、いや体中が熱くなる。


「そんな人を心配しないなんて、あるわけないじゃないですか」

「……」


 チカさんは顔を下に向けながらも、ハンカチで目をこすっていた。


「それが……あなたを陥(おとしい)れるためだとしたら?」

「え?」


 まるで水滴が落ちるように、彼女の口から言葉が出た。


「あたしはもともとあなたが目的だった。今更言うまでもないけどね……」


 チカさんは口角を上げ、涙でぐしょぐしょになった顔を見せた。彼女の言葉に悲痛さが混じる。


「ずっと悲しかったのよ……! 愛した人は離れていくし、周りから気味悪がられるし……何度も何度も痛めつけても死ねないし……!」


 熱気を帯びていたチカさんのトーンが一気に冷める。


「だから、ずっと一緒にいてくれる人を捜してた。いつか来るその人のために若さを保ち、時代に合わせて生きて、その人が現れるのを待った」


 冷たい空気が僕の頬に触れた。


「……そして、僕と出会った」

「そう。あなたがまさにあたしが捜していた人なの……!」

「……」


 僕はなぜか声が出せなかった。最後のチカさんの発言に一瞬だけ狂気を感じたが、彼女も声が出せずにいた。

 

 再び沈黙が僕とチカさんの間に流れる。


「気味悪いよね……あたし。普通の人ならドン引きするでしょうね」


 苦笑交じりのチカさんの声。


「セイヤくんは、そんなあたしを気にかけてくれてたんでしょ?」


 チカさんは優しそうな瞳で何かを求めるように僕を見つめていた。僕は答えに窮していたが、それでも彼女に対する思いは変わらなかった。


「恩人は恩人ですから……」

「なら、一緒にいてくれる?」

「……」


 人魚を食べることはできない。僕に素質があったとしても。そして、チカさんが僕らの恩人であったとしても。

僕は意を決してチカさんの顔を見た。


「やっぱり、食べられませんよ。人魚なんて……。やっぱり、悲しむ人がいますから……」


 僕の頭には幼いころの友人、家族、そしてチカさん……いろんな人が映し出されていた。食べてしまったら……いずれ……。


 チカさんは顔を地面に向けていた。

 洞窟に一瞬だけ、夜の静寂が流れる。


「これからも、あたしに一人で生きろっていいたいの?」


 チカさんは口角を上げた。


「せっかく会えたのに、また孤独になれと?」

「そんなこと思ってません」

「じゃあなんで食べないの」

「……僕だって大事な人と生きていきたいですから」

「あたしは “大事な人” じゃないわけ?」

「“大事な人” ですよ! でも、人魚は食べられません……」

「そうなの……」


 一度勢いづいたチカさんの声は風船がしぼむように、しゅんと小さくなる。

 また沈黙が流れた。


「ごめんなさい……。卑怯なことして」


 僕は小さな声で謝罪した。


「あたしだって同じだから……人のこと言えないわ」

「……」


 また沈黙が流れた。

 どうすればいいんだろう。チカさんは大好きだけど、人魚は食べられない。僕はチカさんとどう接していくべきなんだろう。

 頭の中で葛藤する。


 しばらく時間が流れた。ちらちらとチカさんの顔を見るけど、彼女も顔を俯けたままだ。

 気まずい空気が、見えない霧となってあたりに立ち込める。


 しかし。


「でも、それがあなたの答えなら言うならそれでいいと思う」

「……?」


 顔を見上げると、チカさんが優しそうな表情で僕を見ていた。からっと晴れた清々しい表情で。


「あたしとどっちが大切かわかんないけど、 “大事な人” がいるのよね」

「……」


 一瞬チカさんの言葉が理解できなかったが、徐々に意味がわかってきた。僕は心の中で曇っていた思いを吐き出した。

 僕には待ってくれている人がいる。


「そうです。だけど、チカさんも同じくらい大好きです」

「ふふっ、ありがとう。でも、もう四百歳近いおばあさんよ? しかもセイヤくんあたしの血を引いてるじゃん」

「……そんなこと関係ないですよ」

「関係ない……かあ」


 そう言ってチカさんは洞窟の外を眺めた。


「これまでいろんな人と会ってきたけど、セイヤくんみたいな優しい人は初めてだな」

「そ、そうなんですか……?」


 なぜか僕の顔は熱くなった。


「うん。でも嬉しいな。ごめんね、変なことしちゃって」

「いいですって。チカさんは友達なんですから」

「友達……かあ……」

「言ってましたよ。僕この目で見ました」

「言ってたっけ?」


 僕はにっこり笑いながら頷いた。


「つい二週間前ですけど」

「やばいなあ。長生きしすぎて認知症になったかも」

「大丈夫ですよ。チカさん若いですから」

「あなたが言ってどうするのよ」


 苦笑交じりにチカさんは手を口に当てて笑う。

 僕もつられて笑ってしまった。


 しばらくして、


「まだお祭りの途中だったよね。ごめんね、途中でここまで連れてきてしまって」


 チカさんの言葉にはっとする。

 そうだった。スマホを探さないと。

 しかし、どこにも見当たらない。


「やばい、スマホ途中で落としたかも……」


 僕はそっとチカさんも顔を見た。彼女もはっとしたのか両手を合わせて、


「……ごめん! たぶん、あなたを叩いたときに落としたのね」

「じゃあ、まだ会場に……」


――おーい、セイヤくーん


 どこからか僕の名前を呼ぶ声。洞窟の入り口から聞こえる。


「この声、スズミさん?」

「捜しに来たのね。ここに来れたってことはセイヤくんのスマホも持ってるかも。じゃあ、あたしは退散しよっかな」

「え?」


 いきなり意味深なことを言ったチカさんに僕は困惑する。


「どうしたんですか?」

「あなたと “大事な人” の邪魔をしちゃいけないからね」

「え、スズミさんが?」

「まあね。でも、あたしはそれをわかってながら人魚を食べさせようとしてたんだから、最低なことをしたわね」

「……もうそれはいいじゃないですか」

「ふふっ。ありがと」


 そして、チカさんはしゃがみ込むと僕に視線を合わせた。彼女の緑色の瞳は、何かを決意していた。僕はチカさんの瞳に思わず吸い寄せられていた。


「さあ、ここから出なさい。スズミちゃん、待ってるんでしょ?」

「あ、はい」


 チカさんの優しく、だが悲しそうな瞳に僕の心から込みあがる何かを感じた。そして、目に何か浮かぶ。僕は腕で目をこすった。


「……何泣いてるの? 泣くことないじゃないの」

「ごめんなさい……なんでだろ」

「男の子なんでしょ?」

「そうですけど……」

「さあ、行きなさい」

 

 そして僕は外に向かって走り出した。あえて後ろは振り向かなかった。


 外に出ると、スズミさんとお父さんとお母さんが登山道で僕を捜していた。僕を見つけたスズミさんはすぐに僕に駆け寄ってきた。飛びつかれ、抱きしめられた時僕は全力で彼女のぬくもりを感じていた。

 その直後、両親にこっぴどく怒られた。警察を呼んで捜査しようと考えていたらしい。


 くたくたになり、僕は自分の部屋のベッドに入っていた。

 さっきのことが蘇る。

 なぜあそこで泣いてしまったのか、この時点ではわからない。でも僕が流した涙は本能的に僕たちのこれからを予期していたのかもしれない。

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