帰りたくない!(7)

「おら!! さっさと急げ!!」


 足取りが遅いと背後から怒号が飛ぶ。あいつは敵意むき出しの形相で私を襲う。時々物理的な強い痛みが走る。

 しかしスマホを失ってしまった今、私に助けを呼ぶ手段はない。声も威圧に封じられ、吐き出せない。


 勝手に連絡を取っていることがばれてしまい、私はうっかりスマホを落としてしまった。すぐにあいつに連行され、手を上げられた。

 すぐに休憩は終わり、頂上への登山が再開される。


 頂上に辿り着いたのは予定通り三十分後。森の間に突如やや広めの背の高い草が生い茂る草原が現れた。その中央に佇む小さなやしろ

 打掛錠が外されているが、扉は閉まっていた。

 目当ての品は古びた木の扉の向こうに眠っているはず。


「ほう……あそこに眠っているのか」


 あいつは滝のように流れる汗を拭って、前に歩み始めた。


 登山中、どれだけ自分を恨んだことか。

 家族を失った理由を調べるために始めたことが、居場所を奪ったやつらに利用されるなんて。ああ、なんて運が悪いんだろう!


 でも、中にあるものが人魚の肉だとしたら開けてはいけない。それをあいつらにもわからせるべきだろう。

 私は身をもって経験しているのだ。あのおぞましい一場面を。

 そして、調べ事が正しければあいつらも私と同じく、 “適正” がない。肉に触れることすらできないのだ。


 決意を固めようと私は心の中で念じた。

 あいつと上司たちはすでに社の前まで来ている。

 時間は残されていない。

 威圧が弱まった今がチャンスだ。


「あの……!」


 静かだけど、確実にあいつらの耳に届く声を放った。あいつらは扉を開けようとしていたが、手が止まった。

 あいつの顔が私に向けられた。


「なんだ、鈴美」

「……開けないで」

「は?」

「見たら……死ぬよ?」


 一瞬だけあいつの目が点になり、口をぽっかりと開ける。だが、すぐに見下すように、小馬鹿にするように笑い始めた。


「死ぬって? 何言ってるんだこいつ。ここまで来て人魚探し辞めろってか?」


 あいつがのそのそと草原を踏んで歩てくる。同時に自分の心臓の拍動が強くなっていく。


 私の目の前で立ち止まり、あいつの顔から笑いが消えた。悪魔のような、鬼のような、恐怖を与える魔物のようか顔が私に向けられた。


「……」

「お前が案内するって言ったんだろ? じゃあなんで嘘つくんだ?」

「その……」


 声を出そうとすると、あいつはいきなり私のキャミソールの襟元を掴み上げた。私の身体は浮き上がり、首に押さえつける圧力を感じた。

 額から冷や汗がにじみ出る。


 苦しい……。


 そしてあいつは背筋も凍るような形相で、私に向かって怒号を浴びせる。


「嘘つき野郎め!! こっから逃げたいだけだろ!! この役立たずがああっ!!!」


 私は反射的に目をつぶった。罵声は耳を突き抜け、鼓膜を、脳を振動させる。

 身体全体が震え、直感で生命の危機を感じた。


「ごめんなさい……ごめんなさい!」


 目を強く閉じたまま、私は心から叫んだ。

 あいつの手の力が一瞬弱くなり、私は解放された。

 体は地面に落ち、私はむせ返った。せき込みが止まらない。


 あいつは少しだけ呆然としていたが、すぐに気を取り戻した。まゆをひそめて、私に敵意むき出しの形相で睨みつける。


「お前の役割はまだまだ残ってるんだ。そこにいろよ」


 あいつは捨て台詞を吐いて上司のもとに向かった。

 事実なのに、伝えることができなかった。悔しいけど、こうしちゃいられない。開けたら、本当に……!


 あいつと上司は、木の扉を開けた。中にかなり古そうな木箱――友人の家で見た人魚が入っていた木箱だ。


「ほう……この中にあるのか」


 上司は興味深そうに木箱を吟味する。


「早速、確認しましょう……!」

「ああ」


 箱がゆっくり開けられる。

 まずい……! すでに私の足は動き始めていた。


「やめてええええええええええっ!!!!!」


 とにかく、箱を開けるのを阻止したい。それで頭がいっぱいだった。自然と全身に力が入る。

 私はあいつらに思いっきり体当たりした。


 うぐっ!


 あいつのうめき声がする。一瞬、あいつがよろめく。

 私とあいつは折り重なるように、草原に転げ落ちた。体が二回転半し、服やスカートに土が付着する。


「ってえ……。何すんだよ!!」

「……!」


 私は反射的に目を閉じた。いやっ……!


 うううあああ……


 別のところから他の男のうめき声がした。


 ドサッ


 何かが倒れた音がした。

 私とあいつは恐るおそる顔を上げた。


 草原の上では木の箱がひっくり返り、得体のしれない魚のような、人間の顔のような黒いものが木箱から見え隠れしていた。


 そして木箱の一メートルほど先に人影が倒れていた――


「課長おおおおおおおおおおーーーーッ!!!」


 その光景に私は茫然自失とするほかなかった。

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